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2008年7月1日火曜日

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の司祭叙階式における説教(エコンにて)1987年6月29日

アヴェ・マリア!

June 29, 1987 Ordination Sermon of Archbishop Marcel Lefebvre, Ecône, Switzerland

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 1987年6月29日、エコン (スイス)にて、ルフェーブル大司教様の司祭叙階式における説教をご紹介します。これは、1988年6月30日司教聖別式のちょうど一年前にルフェーブル大司教がなさった説教で、何故、司教聖別をする緊急状態なのかを説明しています。

 ここに紹介する1987年6月29日の司祭叙階式における説教を読んでも、1988年6月30日司教聖別式の説教を読んでも、ルフェーブル大司教には一つのことしか頭になかったとひしひしと良く伝わってきます。それは、カトリック教会をそのまま続けること。カトリック教会の信仰を変えないこと。それことが天主の御旨であり、歴代の教皇様たちと一致することである、と。

 これを読むと、ルフェーブル大司教からは、別の教会を作る(つまり離教する)などという惨めな考えなどこれっぽっちもなく、使徒継承のカトリック教会のために、教会が教え続けてきた通り、天主であるイエズス・キリストが王として全世界に統治するために、全人類が王なるイエズス・キリストに従うために、そしてそうすることによって救霊を確保するために、1988年4名の司教たちを聖別したということが分かります。

 何故なら、ルフェーブル大司教は離教を望まなかったからです。アシジに代表されるエキュメニズムと私たちの主イエズス・キリストを王位から引きずり降ろすリベラリズムに従うことは、使徒継承のカトリック教会の教えから離れること、つまり本当の意味の離教に繋がるからです。

 ルフェーブル大司教には、離教の意図が一切ありませんでした。カトリック教会をそのまま変えずに続けることしかありませんでした。「ルフェーブル大司教の離教」などというものは、いまだかつて存在したことがありません。従って、誰一人としてそのような存在していない「離教を公式に支持すること」など出来ず、従って、離教のために想定された「破門」もあり得ないのです。

 ルフェーブル大司教様のおかげで、今でもカトリック教会に、聖伝のミサが生き残ることが出来ている事実を見て、また、ルフェーブル大司教様が抵抗して下さったおかげで、ベネディクト十六世も手紙でそう言っているように、2007年7月7日に自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』を出すことが出来た事実を見て、私たちは、今年でその二十周年を迎える、ルフェーブル大司教のカトリック聖伝「生き残り作戦」に感謝します。

 最後にこれを訳して下さったマキシミリアノ岡村さんに心から感謝します。


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1987年6月29日
ルフェーブル大司教様の司祭叙階式における説教


親愛なる兄弟の皆さん、

 私達の神学校の存在理由かつ最上の行事であるこの荘厳な司祭叙階式に共に参列するため、ここエコンで私たちを再会させてくださった天主に感謝を捧げましょう。

 叙階のない神学校はもはやカトリックの神学校、公教会の神学校ではありません。そしてそれゆえに、これら司祭達の上に按手する喜びをいだきながら、私たちは天主に感謝するのです。エコンがフラヴィニーに展開し、それによってカトリックの司祭になりたいより多くの若者達が、真のかつ聖なる司祭になるために必要な養成と恩寵を見出す事ができるようになってから、天主は私たちの神学校が生き続け、拡大することさえお許しになりました。

 親愛なる友人の皆さん、まず私は皆様に対しいくつかの啓発と激励の言葉を差しあげようと思います。あなた方はカトリック・ミサにおいて叙階されようとしています。皆さんは、新プロテスタント・ミサにおいて叙階されるのではありません。そしてカトリック・ミサは過去、現在、未来と偉大な司祭的計画、キリスト教生命の偉大な計画なのです。このミサを修正することは司祭の理想とキリスト者の理想、カトリックの理想を変える事にもなるのです。実に、このミサ聖祭とは、何はさておきイエズスの十字架、イエズスの十字架の継続なのです。イエズスが十字架上で御死去されたので神殿の幕は裂けました。旧約は、新約に取って代わられたのです。

 ではすべてが変えられたのでしょうか? 答えは Yes であり No であります。 疑いなく、旧約の法の儀式と天主の法のある概念は変えられましたが、旧約の主要な点は愛の掟の生けるイメージに変容されたのです。もし天主を愛さずそして隣人を愛さないのなら、天主の十戒とは何でしょうか?
 これを私たちに教えてくださったのはイエズス・キリストご自身です。そして今後、この愛の掟はもはや石の上だけではなく、聖主イエズス・キリストの犠牲の中に刻まれるのです。彼は愛の掟であり、十字架上でそれを証明されました。十字架上で、聖父の栄光と霊魂たちの救いのために死ぬ事以上に優れた愛と愛徳の表明を、聖主は他にどんな形で私たちに与える事ができたでしょうか?

 それゆえに十字架についてイエズスが私たちに説き、彼が毎日の聖なるミサ聖祭で伝えているのは、この愛の掟なのです。 皆様の心と霊魂内に、親愛なる友人である皆様、洗礼の成聖の聖寵によって記されたのは、この愛の掟なのです。まさしくこの成聖の聖寵こそ愛の掟と愛徳を実践するために皆様を聖主イエズス・キリストに変容させ深く一致させたのです。

 善き聖主はその変容と深い一致を生み出す恩寵を皆様に与えようとしておられるので、願わくは皆様が生涯の日々に捧げることになるミサ聖祭の犠牲は、皆様の代父と代母が聖主イエズス・キリストに専心し、この世のすべての誘惑を放棄すると誓う時、洗礼にて皆さんがいただいたその成聖の聖寵を支えてくれるのです。それこそ、これからの日々皆様が繰り返す事なのです。つまり「我が天主よ、ああイエズス、私は御身を永遠に深く愛し奉る。我は御身の司祭になることを欲す。模範と言葉により愛の掟を説く司祭に。我をして、この世のすべてとその誘惑から取り去り給え。我をしてこの世のすべての影響から守り給え。なぜならそれはサタンの手先、そして天主に対する不従順によって満たされている故なり。」

 この方法であなた方の霊魂は、目前にある祭壇上であなた方が持ち、あなた方が御自身で発する聖変化の言葉によって天国から降臨させることになる聖主イエズス・キリストの十字架と、その御血と御体の御前で慰められるでしょう。なんという崇高な神秘でしょうか。天主がその犠牲を捧げ、それを継続するために人間に従うのです。それがあなた方の司祭生活の目的なのです。つまりあなた方のところにやって来て、あなた方の捧げるミサ聖祭の聖なる犠牲に与るでしょう霊魂たちを、完全にあなた方自身の犠牲に至るまで、天主と隣人に対する愛の感情をもって貫くために。そして天主は、聖主イエズス・キリストがこのためにその模範を与える事をご存知です。つまり自己の犠牲に至るまで、もし必要ならば死に至るまで、そして聖主イエズス・キリストに一致してとどまるためにあなた方が自らの血を流すに至るまでになるように。願わくはそれがあなた方の決意でありますように。そういうわけで皆様は私と共に捧げようとしているミサ聖祭の聖なる犠牲にて私たちの聖主の生命と死に結ばれなければなりません。

 世俗の引力と、ミサ聖祭のこの聖なる犠牲をまったくの人間的集会に変容させようとする世俗の魅力によって誘惑されるままにならないようにして下さい!

 これらの感情が全司祭的生活において皆様の中に留まることを私は切に望んでいます。よりお年を召した司祭方が、彼らが送られたところ至る所でそうであるように、使徒であってください。ここに集っていて皆様を共に囲み、皆様の上にその手を置くことをうれしく思っているこれらの親愛なる司祭達のように。私たちの聖主イエズス・キリストの司祭達、十字架に釘付けられた愛、十字架に釘付けにされたイエズスの司祭達であって下さい、世俗の司祭達、世俗のための司祭達ではなく。

 親愛なる兄弟の皆様、この機会を利用して、私たちが通例に従い司祭叙階式の機会に行うように、私たちが今日置かれいている状況について指摘することをお許しください。それは言及されなければならない事です。私は沈黙する事はできません。隠蔽することも出来ません。今年はカトリック教会にとって、私たちカトリック信者たち、私たちカトリック司祭達にとって非常に重大でした。

 皆様はこれをご存知で、異なる記者達がそれを報道してきました。つまり私がカトリック教会の存続に必要と思われる行動を遂行するために、御摂理からの印を待っているところであることを言及する好機があったということです。今、私はこれらの印が到来したと確信します。

 それらの印とは何でしょうか? それは2つです。まずアシジ、それから信教の自由に関して私たちが明確化した異議に対してローマが作成した返答です。


アシジの背教

 アシジ(の平和祈祷集会)は去る10月27日に開催されました。そして信教の自由と関連する第2バチカン公会議の誤謬に関する私たちの異議に対するローマからの答えは3月の始めに私たちのもとに届きました。このローマの答えは、それ自体で、アシジ以上に危険でさえありました。アシジは一つの歴史的事実、一つの行為です。しかし信教の自由に関する私たちの異議に対するその返答は、原理の主張であり、それゆえに非常に危険なのです。ある危険で躓きになる行為を単に行うのは一つの事柄です。しかし、偽りと誤った諸原理を断言するということは、単なる行為とは他の事柄です。何故なら、それは結果として、実際に破滅的結末を生み出すことになるからです。

 そういう理由で御摂理は、様々な状況のある結合によって私たちがちょうど出現した一冊の本『彼らは主を王位から引きずりおろした』(Ils L'ont Decouronné) を作成する事をお望みになりました。彼らは彼を王位から引きずりおろしたのです!誰が王位から引きずりおろしたのでしょうか? そして誰が引きずりおろされたのでしょうか?
 誰が引きずりおろされたのか? 私たちの聖主イエズス・キリストです。
 誰が彼を王位から引きずりおろしたのでしょうか? 今日のローマ当局です。

 そしてこの王位の剥奪は、アシジの儀式の時に明確な方法で表明されました。
 イエズス・キリストが王位から引きずり下ろされたのです。彼はもはや王ではなく、普遍的な王でも御降誕の大祝日からその御昇天に至るまで、私たちが宣言する王ではないのです。すべての宗教的祝日は、私たちの聖主イエズス・キリストの王権を示しているのです。だから全典礼暦年中、私たちはRex regum, et Dominus dominatium --- 王の王かつ主の聖主! と歌っているのです。

 そしてご覧下さい!私たちの聖主イエズス・キリストの王権を讃える代わりに全宗教の万神殿(パンテオン)が制定されるのです!ちょうど異教ローマ皇帝たちがあの万神教の為の神殿を造ったように、今日それを行うのは公教会のローマ当局です!

 これは霊魂たち、カトリック信者達が、目撃することになり、そして彼らを疑いに投げ込む恐るべき躓きなのです。それは厳密に言うならば自由主義と呼ばれるものです。

 自由主義とは、天主の御前での人間の自由を制定することです。結果として、いかなる宗教も自分が真のものであるという宗教と等しく尊敬すべきものになるのだと、良心に従って信じ、希望し、宣言する人間を意味します。

 「国家、市民社会は、もはやどれが真の宗教であるか知る事ができない」、これがローマから頂いた書類の中で私たちに対して述べられていたことです。「国家は宗教的事柄について無能であり、それゆえどれが真の、あるいは偽りの宗教であるか決められない」と。「この事実自体によって国家はそれが何であれ、すべての宗教をこの“自律的社会空間”に拡張させなければならない。なぜなら人間は自分の宗教をもつ事に関して自由だから」と。

 私たちは言います。違います。違います。それは間違っています。
 そしてミサ聖祭はこれを私たちに示しています。これは十字架上の聖主イエズス・キリストが私たちに要求し、説く掟、愛の掟なのです。彼は私たちに言います、「あなた方は愛の掟に従わなければいけない。誰であっても、愛の掟に従わない人は永遠の生命にふさわしくない。」

 したがってそれは義務的掟なのであります。私たちには自分の宗教を選ぶ自由はありません。あるのはたった一つ。それは私たちの聖主イエズス・キリストが十字架の高みから宣言されたその一つです。

 自由主義は現代の偶像になってしまいました。それは現在、世界中大部分の国で、しかもカトリック教国でさえ崇められています。天主に挑み、自分独自の宗教を作ろうとし、人権の宗教、独自の戒律を作り、世俗の団体、世俗的国家、世俗的教育と協力し、天主の無い独自の宗教を創りあげることを欲するのが、天主に対する人間の自由であり、それこそが自由主義なのです。

 一体全体どうやって、ローマ当局が、信教の自由に関する第2バチカン公会議の宣言のなかでこの自由主義を主張し奨励することが出来たのでしょうか? 私の考えでは、それは非常に重大な事です。ローマは暗黒の中にいます。誤謬の暗黒の中に。それを否定する事は私たちに出来ません。私たちカトリックとしての見解から、そしてなおさら司祭としての見解から、アシジ、つまり、そこで異教儀式の執行の為に仏教徒達に与えられた聖ペトロ教会で見る事のできたあの見世物を私達はいかにして黙認出来ましょう? 彼らが、私たちの聖主イエズス・キリストの御聖櫃の前で ― 疑いなく空だったのでしょうが ー しかし、彼らの偶像、つまり仏像がその上に置かれて、異教儀式を執り行っているのを、どうやってそのまま傍観していることが考えられるでしょうか。しかも、これが、カトリック教会のなかで、私たちの聖主イエズス・キリストの教会の中で執り行なわれてていたのです! 事実はそこにあります。事実は、ありのままを語っています。私たちにさらに重大な誤謬を見逃す事は出来ません。

 いかにしてあの現実は実現したのでしょうか?その答えは天主に委ねましょう! 天主こそがあらゆることを統治しているからです。つまり、事象の主であるわたしたちの聖主イエズス・キリストが統治しているからです。ローマと教皇から枢機卿達まで、さらにエキュメニズムと自由主義に関する公会議の誤った思想にしたがっている世界中の全司教を含めて、最高権威者らを掌握している様々な誤謬の将来がどうなるかを知る方は彼なのです。

 天主のみそれがどこに導こうとしているのかご存知なのです。しかし私たちにとってみれば、もし私たちがカトリックに留まり、そして公教会を存続させたいのなら、私達には破棄できない様々な義務が生じます。私たちには私たちが負っている重大な義務、つまり私たちの聖主イエズス・キリストと、その王権と、公教会の教義に従ったその社会的王位 (His social Kingship) を信じる司祭たちを増やさなければならないのです。そういうわけで、誰もがそれにより養われ私たちが遂行している戦闘をより理解できるように、自由主義に関するその本(『彼らは主を退位廃冠させた』Ils L'ont decouroné)が現れた事を私はうれしく思います。

 これは人間的な戦いではありません。私達はサタンとの接近戦の中にいるのです。それは超自然的な総力を要求する戦闘です。そして公教会を徹底的に破壊し、私たちの聖主イエズス・キリストの御業の崩壊を望むサタンと戦うために私たちはこの超自然的力を必要とするのです。私たちの聖主が御降誕されてから、サタンはこれを常に望んできました。そしてサタンはそれが何であれ、聖主の君臨と、そのすべての制度を一掃しながら、聖主の神秘体、を廃止し壊滅し続ける事を望んでいます。私達はこの悲劇的、黙示録的戦闘に気づかなければなりません。そこに私達は生きており、それを見くびってはいけません。それを見くびるだけ、私たちのその戦闘おける戦意は衰えるのです。私達はさらに弱くなり真理をもう宣言しようとしなくなるのです。 わたしたちはもはや聖主イエズス・キリストの社会的王権を敢えて主張しようとはしません。何故ならその響きは世俗的、無神論的世界の耳に心地よくないからです。私たちの聖主イエズス・キリストが社会において君臨すべきであるという事は、世界にとっては愚かに見えるのです。私達は流行おくれ、中世時代に凍結したのろま者達だとみなされています。「過去に属するものはすべて終わった。あの時代は終焉したんだ。聖主イエズス・キリストが社会で君臨することはもはや不可能だ」と。おそらく私達は、私たちに敵対する大衆意見を恐れるという傾向を少し持っています。なぜなら私たちが聖主の王権を宣言しているからです。従って聖主の社会的王権のために私たちが保持するその論証が、サタンによって導かれ、私たちの影響の拡大を妨げ、それを破壊しようとさえするするために現れる一つの敵に驚かないようにしましょう。 

 こういうわけで私達は、本日これらの司祭叙階式を執り行うことをうれしく思うのです。そして私達は、善き天主が私たちの手にお委ねになったこの業を放棄する事など不可能であると心から考えています。なぜなら実際、それを創立、しかも信じられない状況においてそれを創られたのは私ではなく、まさしく聖主だったからです。現在(聖ピオ十世会)創立後15年目にして、私たちの会は世界的規模に達しました。

 天主に感謝、他に多くの修道者もまた私たちと共に、わたしたちの周りに現れました。この叙階式に参列しているすべての男女修道者の方々もまた、私たちの聖主イエズス・キリストの王権を自ら宣言するために立ち上がりました。そして彼らは天主を見捨てないでしょう。

 私達は天主を見捨てようとしているのですか? 彼を再び十字架に釘付けにさせるのでしょうか? そして公教会をまさに今それが生きている受難の状態および私たちが救援に行く事もなく取り残すのでしょうか?

 もし誰もこれ以上聖主イエズス・キリストの天主性を宣言しなくなれば、霊魂たちは一体どうなるのでしょうか? もし私たちが彼らに彼らの救霊に必要な真の聖寵を与えなければ、彼らはどうなるのでしょうか? これは明白な緊急事態の問題です。私達はこれに気づかなければなりません。従って、私は自分自身にこの業を継続することが出来るよう、数人の後継者を与えなければならないように思うのです。なぜならローマは暗黒の中にいるからです。それは現在ローマがもはや真理の声を聞いていないからです。

 どんな反響を私達の主張は受けたのでしょうか? 
 わたしがローマに対し「聖伝に従って欲しい。聖伝に立ち戻ってください。さもなければ公教会はその滅亡に向かう事になる。公教会を確立した人たちの後継者に選ばれたあなたたちは、公教会を築き上げなければならず、それを破壊してはなりません」と言いました。しかし、彼らは私たちの主張に対して耳を閉ざしました。

 私たちが受け取った最後のローマからの回答、最後の書類は、これを完全に証明しています。彼らは自らの誤謬の中に閉じこもっています。彼らは自らを暗黒の中に閉じ込めているのです。そして彼らは霊魂たちを棄教に導き、非常に単純にですが、聖主イエズス・キリストの天主性の壊滅とカトリックとキリスト教信仰の崩壊に導いているのです。

 したがってもし天主がそれを私たちに要求するなら、私達はこの業を継続するために協力することをためらわないでしょう。なぜなら私達には、天主がその業の破壊を望み、霊魂たちが放棄される事と、この事実によって公教会がもうその司牧者を持たないことをお考えになるとは考える事は出来ないからです。私達は全く例外的な時代に生きています。これを私達は理解しなければなりません。状況はローマにおいてもはや普通ではなく、非常に異常なのです。

 エコンに来た親愛なるシスター達によって発行されているSiSINoNo(1993年以降アンジェルスプレス社のアンジェルス・マガジン誌に記載されている)という新聞を読んでください。そしてここに彼女たちが成し遂げている仕事を継続してくれるよう励まします。この新聞はローマの状況について非常に正確な指摘を与えてくれます。ある信じがたい状況が、つまり歴史が未だかつてそのような事を経験した事のない状況があるのです。

 教会の歴史上、未だかつて、教皇が自ら、自由主義の大祭司になりながら、私が皆様にお伝えしたように、すべての宗教の万神殿のある種の守護者に転ずるのを見た事がありません。こんな状況が公教会内に未だ存在したか誰か教えて下さい。このような現実を前に私達は何をすべきでしょうか? 涙を流す、疑いなく、そうするべきでしょう。あぁ、私達は嘆きます。そして心は砕かれ悲しみに沈んでいます。私達はこの状況が変わるように、私たちの生命と血を差しあげることさえ辞さないつもりです。しかしこの状況を見ると、善き天主が私たちの心に置いたその業とはどのようなものかというと、このローマの暗黒、つまりローマ権威者達のその誤謬に留まる頑なさ、真理と聖伝への帰還を拒絶しているという状況はあまりにも酷いので、善き天主が懇願しているのは、公教会を存続させることであると私には思えるのです。従って、善き天主に対しこの人生の決算報告をする前に、私はいくつかの司教聖別を執行すべきであるように思います。

 親愛なる兄弟の皆様、そして親愛なる友人の皆様、私たちの心のすべてを以っていとも聖なる童貞マリア様に祈りましょう。私達は8月22日、聖なる童貞が私たちを助けてくださるよう祈願するためにファティマに行く事になっております。

 彼らは彼女の秘密を公開することを望みませんでした。彼らは童貞聖マリア様のメッセージを葬り去ってきました。このメッセージは、間違いなく今日起きている事を防いでくれる事になっていました。もし彼女のメッセージが知られていたら、私たちはそれ程遠くまで行かなかったでしょうし、このローマにおける状況は未だ今日ほどではなかったでしょう。教皇様たちは、いとも聖なる童貞のメッセージを公開する事を拒んで来たのです。童貞聖マリア様によって告げられたその数々の天罰は来ています。聖書のなかで預言された棄教は到来しています。これは確かに事実です。

 この決定的に異例な状況に直面させられて、私達もまた異例な措置をとらなければなりません。
 いとも親愛なる兄弟の皆様、いとも親愛なる友人の皆様、この御ミサの間、私達は特別に聖なる使徒達、公教会の守護者たちなるペトロとパウロに、私たちが彼らと彼らの後継者達の業に継続するために、私たちを啓発し、助け、私たちに剛毅と知恵を与えてくださるように祈ります。

 誰よりもまず、いとも聖なる童貞マリア様にこれを祈願しましょう。そしてイエズスとマリアの聖心に対し私たち自信を、私たちの家族達、私たちのいくつもの都市を奉献しましょう。
 聖父と聖子と聖霊との御名によりて アーメン

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2008年5月22日木曜日

聖ピオ十世会創立者マルセル・ルフェーブル大司教 近代主義の教会内への侵入史 1982年 モントリオール(カナダ)にて

アヴェ・マリア!

近代主義の教会の中への侵入の略史

マルセル・ルフェーブル大司教の講演の記録
「信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」
1982年 モントリオール(カナダ)にて


L’infiltration du modernisme dans l’Eglise --- Brève histoire ---
conférence prononcée par Monseigneur Lefebvre, en 1982 à Montréal (Canada)


The Infiltration of Modernism in the Church

(この翻訳を作るに当たって、三上教授の翻訳を参考にさせていただきました。感謝します。『近代主義の教会の中への潜入』

 私は世界中のカトリック界でどこでもカトリック信仰とカトリック教会に忠実な司祭たちの周りに勇気ある人々が集い、私たちの信仰の砦である聖伝を維持しているのを目の当たりにし、嬉しく思います。
 もしこれほどまで全世界的な規模での聖伝維持の運動があるとしたら、それは教会の状況がそれほど深刻であると言うことを意味しています。何故なら良い司祭が、しかもそのうちの多くは30年以上もいろいろな小教区で献身的に働き、その小教区民が満足するほどのすばらしい司祭たちが、また多くの良きカトリック信徒が反抗者、反逆の徒、不従順として取り扱われなければならないと言うことは、ある危機があると言うことだからです。彼らはカトリック信仰を維持するというそのために、不従順だと言われているのです。彼らは殉教の精神に於いて知りつつそうしているのです。
 教会の兄弟たち或いは教会の敵から迫害を受けると言うことは、迫害の手が誰のものであろうと信仰を守るために迫害を受けているという限りに於いてそれは殉教です。これらの司祭、平信徒はカトリック信仰の証人なのです。彼らは信仰を捨てるよりも反抗者、反逆の徒として見なされる方を好んだのです。

 私たちは世界中で悲劇的な前代未聞の状況にあります。このようなことはかつて教会の長い歴史にあったことがなかったかのような状況です。それで、ともかくこの尋常でない現象を説明するように試みてみなければなりません。良い信徒たち、良い司祭たちが、今瓦解しようとしつつあるカトリック世界に於いて必死になってカトリック信仰を維持しようと努力していると言うことは、どうしたことなのでしょうか。教会の自己破壊と言うことを話したのは、教皇パウロ六世自身でした。この「自己破壊」とは、教会が自分で、つまり自分の固有の肢体たちによって自分自身を壊していることでなくていったい何のことでしょうか。聖ピオ十世が既にその最初の回勅を書いて言っていたことが、これなのです。
「今後、教会の敵は教会の外にではなく、内部にいる」と。
 そして聖ピオ十世教皇は教会の敵がどこにいるのかを指摘するのをためらいもしませんでした。「敵は神学校の中にいる」と。
 従って20世紀の初めに既に聖ピオ十世教皇がその最初の回勅で、教会の敵どもは神学校の中に潜んでいると告発しているのです。

 近代主義やシヨニスムまた進歩主義に染まっていた神学生たちが司祭になったということは全く明らかです。彼らのうちの何人かは司教になり、そのうちの何人かは枢機卿にもなりました。今世紀初頭に神学校で学び今は死んでしまったけれどもその精神は近代主義者、進歩主義者であった人々の名前を列挙しようと思えば多く上げることが出来ます。
 聖ピオ十世教皇は既にそうすることによって教会内部の分裂、教会の中と聖職者らの内部でのある断絶を告発していたのです。

 私はもはや若くはありません。私の神学生時代、司祭時代、司教時代を通してこの分裂を目の当たりにしなければならない機会がいろいろとありました。私は天主様のお恵みによってローマで勉強をしましたが、この分裂は既にローマのフランス人神学校で既に始まっていたのです。私は本当のことを申しますとローマで勉強すると言うことにあまり気が進みませんでした。それよりも私の教区の神学生たちのようにリール市の神学校で勉強し、田舎の小教区の助任司祭になって、小さな教会の主任司祭になることを考えていたのです。私は愛する教区の人々の何か霊的父となり、彼らにキリスト教信仰とキリスト教道徳を教えたいと思っていたのです。それが私の理想でした。
 それが私の兄が1914年1918年の第1次世界大戦のために家族とは離ればなれになっており戦争の後にはローマで既に勉強していたので私の両親は私に兄と同じ所に行くようにと望んだのです。
「お兄さんがもうローマのフランス人神学校にいるのだから、おまえも言ってお兄さんと一緒に神学の勉強をしなさい。」と言われました。

 ですから私はローマに行き1923年から1930年までグレゴリアン大学で勉強し、1929年に司祭に叙階された後も1年間司祭として神学校に残って学問を続けました。

近代主義の最初の犠牲者たち

 この神学生時代の間、悲劇的なことが起こりました。そしてこの悲劇は正に公会議以降私が見た全てのことを正確に思い起こさせるのです。その当時私たちの神学校の学頭ル・フロック神父様(Père Le Floch)が置かれたのとほとんど全く同じ状況に、私は今置かれています。
 ル・フロック神父は30年間ローマのフランス人神学校の校長であり、威厳があり、ブルターニュ巌のように信仰の強く堅固な方でした。ル・フロック神父はあたしたちに教皇様たちの書いたいろいろな回勅や、聖ピオ十世によって排斥された近代主義とは何か、レオ十三世によって排斥された近代の誤謬とは何か、ピオ9世によって排斥された自由主義とは何かなどを教えて下さいました。私たちはル・フロック神父を非常に敬愛し、敬慕していました。

 しかし、ル・フロック神父の教義と聖伝とにおける堅固さのために、進歩主義者はル・フロック神父を胡散臭く思っていたのです。この当時既に進歩主義者が存在していました。教皇様たちは彼らを排斥しているのですから。ル・フロック神父を快く思わなかったのは進歩主義者だけではなく、フランス政府もそうでした。フランス政府はル・フロック神父を通して、彼が神学生たちに与えている養成を通して、聖伝主義の司教たちがフランスに着任しフランスの教会に聖伝に基づく、従って反リベラルな環境を作り出すのを恐れていたのです。フランス政府はフリーメーソン的であり、基本的にリベラルであり、リベラルではない司教たちが重要に地位につくと言うことを考えただけでも恐れていたのです。そこでル・フロック神父を神学校から追いやるためにいろいろな圧力が教皇様にかけられました。フランシスク・ゲ(Francisque Gay)という将来M.R.P.の指導者になる人がこのル・フロック神父排除の任務に就きました。フランシスク・ゲはローマに行き教皇ピオ十一世に圧力をかけました。そしてフランシスク・ゲはル・フロック神父がアクション・フランセーズの同調者であって神学生たちにアクション・フランセーズの会員になるように教えている政治家であると告訴したのです。

 これらはみな嘘でした。私はル・フロック神父の霊的講話を3年間この耳で聞きましたが、ル・フロック神父はアクション・フランセーズの話を一度もしたことがありませんでした。そして、今度は私がこう言われる番なのです。
「あなたは昔アクション・フランセーズの会員だったのでしょう」と。

 勿論、私たちはアクション・フランセーズの会員だとかナチだとかファシストだとか軽蔑的な意味を含んだラベルを付けられて断罪されています。何故なら私たちは反革命的であり、反リベラルだからです。

 そこで監査がありました。ミラノの大司教枢機卿が神学校に派遣されました。この方はベネディクト会士であり、偉大な聖徳とすばらしい知性の持ち主であり、そんじょそこらの枢機卿ではありませんでした。彼はピオ十一世によって指名されて、フランシスク・ゲの言っていたことが正確かどうかと言うことを調べるためにフランス人神学校を監査したのです。監査は実施されました。その結果は「フランス人神学校はル・フロック神父の指導の元で完璧に指導がなされている。当神学校の学頭にはいかなる点でも叱責に値することは見受けられない」でした。

それにもかかわらず、これで事は終わりではありませんでした。

 3ヶ月の後に新しい監査がありました。この時にはル・フロック神父を終わらせるという命令が付いていました。新しい監査はローマ聖省のメンバーの一人が執り行い、彼は、ル・フロック神父は実にアクション・フランセーズの友であったと言う結論が出され、神学校にとってル・フロック神父は危険人物であり、辞任を求めなければならないと言うことになりました。そして、これは実行に移されました。1926年に聖座はル・フロック神父にフランス人神学校の学頭の職を辞任するようにと求めたのです。私たちは非常に悲しみました。ル・フロック神父は政治運動をする男では決してありませんでした。ル・フロック神父は聖伝の男であり、教会の教えと歴代の教皇様たちにしっかりと結びつき、聖ピオ十世教皇が全幅の信頼を置いていた大の親友でした。そして正にル・フロック神父が聖ピオ十世教皇の友であったが為に、進歩主義者どもの敵だったのです。

 私たちがフランス人神学校にいた当時攻撃を受けていたのはル・フロック神父だけではありませんでした。ビヨ枢機卿 (Cardinal Billot) もそうでした。

 ビヨ枢機卿は第1級の神学者であり、現在でも私たちの神学校では有名で研究されています。ビヨ枢機卿は聖なる公教会の枢機卿でしたが、枢機卿の位を取り上げられてしまったのです。ビヨ枢機卿から枢機卿の紫を取り上げアルバノの近くのカステルガンドルフォにあるイエズス会の家の中に償いの為に閉じこめてしまったのです。その口実というのはビヨ枢機卿がアクション・フランセーズと関係があったと言うことでした。事実はビヨ枢機卿はアクション・フランセーズの会員ではありませんでした。しかし彼はモラス【アクション・フランセーズの創立者、シャルル・モラス】のその人を高く評価しており、自分の神学の本の中で引用したことがあります。例えば彼の『教会論(De Ecclesia) 』の第2巻で彼は自由主義(リベラリズム)についてすばらしい研究を展開しています。そこの注の中にモラスの言葉を幾つか引用しているのです。すると鬼の首でも取ったようにこれは大罪だと言われたのです。彼らはビヨ枢機卿から枢機卿の位を取り上げるためにこれを見つけたのです。その当時ビヨ枢機卿というのはもっとも偉大な神学者の一人で、その彼から枢機卿の位を取り上げ、その当時は助祭枢機卿、司祭枢機卿などがまだ存在しており、ビヨ枢機卿は司教ではなかったので単なる司祭の位に貶めてしまうというのは一大事件だったのです。これは既に迫害でした。

教皇ピオ十一世は進歩主義者達の影響を受けていた

 教皇ピオ十一世自身すでにローマにいた進歩派の人々の影響の下にありました。なぜなら私たちは彼以前と以後の諸教皇から一つのはっきりした区別を見て取るからです。しかしそれにもかかわらず教皇ピオ十一世は同時にいくつかの優れた回勅を書きました。彼は自由主義者ではありませんでした。共産主義に反対する彼の回勅「ディヴィニ・レデンプトーリス」は優れたものでした。それゆえにまた彼の王たるキリストに関する回勅もすぐれたものでした。その回勅は王たるキリストの祝日を定め、われらの主イエズス・キリストの社会的な王権を宣言しました。キリスト教教育に関する彼の回勅はまったく賞讃に値するものであり、今日もなおカトリック学校を擁護する人々にとっての一つの基本的な文書です。

 教説の面において教皇ピオ十一世は賞讃に値する人間であったとすれば、実践的行為の秩序においては弱かったのです。彼は影響を受けやすい人でした。そのようにして、彼はメキシコ市民戦争の時に非常に強い影響を受けて、カトリック宗教を擁護し、王たるキリストのために戦う過程にあったクリステロス(反共産主義のキリスト教徒たち)に、政府に信頼するように、そして彼らの武器を棄てるように命じました。彼らは、自分たちの武器を棄てたとたんに虐殺されました。この恐るべき大虐殺は今日でもなお記憶されています。教皇ピオ十一世は彼を欺いた政府に信頼を置きました。後になって彼は目に見えて非常に動転しました。彼は自分たちの信仰を守る人々を尊敬をもって取り扱うと約束した政府がどのようにしてその後彼らを大虐殺することへと進むことができるのか、想像することができませんでした。このようにして数千人のメキシコ人が彼らの信仰のために殺されました。

 今世紀の始めにすでに私たちは教会における分裂を告知するいくつかの状況を見ています。私たちは徐々にそれに達しました。しかし、分裂は公会議のちょうど前に非常にはっきりしたものでした。

 教皇ピオ十二世はその著作と彼の教会を統治するやり方において偉大な教皇でした。ピオ十二世の治世の間に信仰はしっかりと守られました。当然、自由主義者たちは彼を好みませんでした。なぜなら彼は神学の基本的諸原理と真理を精神に呼び戻したからです。

 しかし次にヨハネ二十三世がやって来られました。彼はピオ十二世とは完全に異なった気質を持っておられました。ヨハネ二十三世は非常に単純で寛大な人でした。彼はどこにも問題を見られませんでした。

 彼が公会議をローマで開催することを決定されたとき、彼らは彼に言いました。「しかし教皇様、公会議は準備しなければなりません。少なくとも一年は必要です。そしておそらく、数々の実りが得られ、諸改革が真に研究され、次に適用されて、その結果ローマのあなたの司教区がそれから利益を引き出せるように、そのような会議を準備するためには二年は必要です。これらすべてのことは二週間の会議に引き続く二、三ヶ月の時間でまっすぐになされ、それで万事がうまく行くことはできません。それは不可能です。」

「おお、もちろん、私は知っていますよ。しかしそれは小さな公会議なのだよ。われわれはそれを数ヶ月内に準備することができ、そして全てはきっとうまく行くよ。」

 このようにして公会議が急いで準備されました:ローマでのいくつかの委員会、すべての人が非常に忙しく、そしてそれから二週間の会議、そしてそれで全てが終わりました。教皇ヨハネ二十三世は彼の小さな公会議が開催されたことで非常に幸せでした。しかしその結果は何もありませんでした。ローマ司教区では何一つ変わりませんでした。状況はまさに以前と全く同じでした。

公会議と共に漂流が始まった

 公会議についてもそれはまったく同じでした。「私は公会議を開催する意向を持っています。」すでに教皇ピオ十二世は何人かの枢機卿から公会議を開催するように求められていました。しかしピオ十二世は、それが不可能であると信じて拒否しました。私たちは現代、2500人の司教たちによる一つの公会議を開催することはできません。マスメディアによって行使された圧力は、公会議を敢えて開催するにはあまりにも危険です。私たちは忙殺される危険があります。そして事実公会議は開かれませんでした。

 しかし教皇ヨハネ二十三世は言われました:「いや、開催する。われわれは悲観的であってはならない。もっと信頼してものごとを見なければならない。われわれは全世界のすべての司教を三ヶ月の間集める。10月13日に始めて、それから12月8日と1月25日の間に全ては終わり、みんなは家に帰り、そして公会議は終わったことになる。」

 そしてそのようにして教皇は公会議を開催されました! それでも公会議の準備をしなければなりませんでした。公会議はシノドゥスのようにただちに開催されることはできないのです。それは実際、先立つ二年間で準備されました。私は個人的にダカールの大司教および西アフリカ司教会議議長として中央準備委員会の一メンバーに指名されました。ですから私は中央準備委員会の会合において準備するために二年間に少なくとも十回はローマに来ました。

 中央準備委員会は非常に重要でした。なぜなら副次的委員会のすべての文書は、研究され公会議に提出されるために、ここに送られてきたからです。この会議には70人の枢機卿とおよそ20人の大司教および司教たち、さらに顧問たちがいました。これらの顧問たちは中央委員会のメンバーではなく、ただ時に委員たちから相談を受けることができるように出席しているだけでした。


分裂の出現


 これらの二年間に会合が次々に続き、そして出席しているすべての委員たちにとって教会それ自体の内部での深い分裂があることが非常に明瞭になりました。この深い分裂は偶然的あるいは表面的なものではなく、大司教や司教たちの間というよりも、枢機卿たちの間でより深いものでした。投票で決する機会には保守的な枢機卿たちはある仕方で、そして進歩的な枢機卿たちは別の仕方で投票するのを見ることができました。明らかに枢機卿たちの間には本当の分裂が存在していました。

 私は次のような出来事を私の書物の中の一冊『一司教は語る(Un évêque parle)』において描いています。私はそれについてしばしば言及します。なぜならそれは中央委員会の終わりと公会議の始まりを本当に特徴づけているからです。それは最後の会合の間のことでした。そして私たちは同じ主題について10の文書をあらかじめ受け取りました。ベア枢機卿が一つのテキスト、"De Libertate Religiosa" 「宗教的自由について」を準備しました。オッタヴィアーニ枢機卿は別のテキスト"De Tolerantia Religiosa" 「宗教的寛容について」を準備しました。

 単純な事実は同じ主題に関する二つの異なった表題が二つの異なった考え方を表しているということです。ベア枢機卿はすべての宗教に対する自由について、そしてオッタヴィアーニ枢機卿は誤謬と偽りの諸宗教の寛容に加えてカトリック宗教の自由について語りました。そのような相違がどのようにして委員会によって決定され得るでしょうか?

 最初からオッタヴィアーニ枢機卿はベア枢機卿を指さしてこう言われました。「枢機卿様、あなたにはこの文書を作る権利はありません」と。

 ベア枢機卿は答えられました。「失礼ですが、 “一致のための委員会議長” として私は文書を提出する権利を完全に持っています。従って私は承知の上でこの文書を提出している。さらに、私はあなたの見解にはまったく反対である。」

 このように最も高名な枢機卿の二人、検邪聖省長官オッタヴィアーニ枢機卿と、教皇ピオ12世の聴罪師ベア枢機卿、すべての枢機卿に対して大きな影響力を持っているイエズス会士、聖書研究所においてよく知られ、高等聖書研究に責任を持っている枢機卿です。これらの2名の枢機卿様たちは、教会における基礎的な主題に関して対立していたのです。

 すべての宗教の自由ということは、すなわち、自由と誤謬が同じ地平に置かれるということと、カトリック宗教の自由および誤謬の寛容ということはまったく異なるものです。全く違うことです。聖伝によれば、教会は常にオッタヴィアーニ枢機卿の見解に与して来たのであり、そして完全にリベラルであるベア枢機卿の見解には与して来ませんでした。

 パレルモから来たルフィニ枢機卿は立ち上がり言われました。「われわれは今教会において非常に重要である一つの問題について相互に対立している二人の同僚の前にいる。従ってわれわれはより高い権威に言及せざるを得ない。」

 教皇は非常にしばしば私たちの会合の座長を務めるためにやって来られました。しかし教皇はこの最後の会合のためには居合わせられませんでした。従って枢機卿たちは投票することを要求しました。「われわれは教皇に会いに行くなどと待ってはいられない。投票することにしよう。」

 私たちは投票しました。枢機卿たちの半数がベア枢機卿の意見に賛成投票をし、後の半数がオッタヴィアーニ枢機卿に賛成投票しました。ベア枢機卿の意見に賛成投票したのは皆オランダ、ドイツ、フランスそしてオーストリアの枢機卿たちであり、そして彼らは皆一般的にヨーロッパと北アメリカからの枢機卿でした。伝統的な枢機卿たちはローマ聖省、南アメリカ、そして一般的にスペイン語圏の枢機卿たちでした。

 それは教会における真の断絶でした。この瞬間から私は公会議が重大な点に関してそのように対立を抱えながらどのようにして進んで行くことができるのか、と自問しました。誰が勝利するのでしょうか?スペイン語あるいはロマンス諸言語圏の枢機卿たちと共にオッタヴィアーニ枢機卿なのでしょうか、それともヨーロッパと北アメリカの枢機卿たちなのでしょうか?

 実際、戦闘は公会議のまさに初日から直ちに始まりました。オッタヴィアーニ枢機卿は、各人に対してその人が望んだ人々を選ぶ完全な自由を残しながら、準備委員会に属していたメンバーたちのリストを提出されました。私たちがすべてのメンバーを一人一人知ることができないことは明らかでした。なぜなら各人は彼自身の司教区のためにやって来たのですから。どのようにして世界の2500人の司教たちを知ることができるでしょうか?私たちは公会議の諸々の委員会の委員選出のために投票を求められました。しかし誰が選ぶことができるでしょうか?私たちは南アメリカからの司教も、南アフリカからの司教もインドからの司教も知りませんでした...。

 オッタヴィアーニ枢機卿は準備委員会のためのローマの選択は公会議の教父たちのための一つの指示として役立ち得るだろうと考えられました。事実これらのことを提案することはまったく正常なことでした。

 リエナール枢機卿(Achille Cardinal Lienart †)が立ち上がって言ったのです。

「私たちはこのようなやり方を受け入れない。われわれは異なった諸々の委員会を成立させることができる人々をもっとよく知ることができるように、熟慮するための48時間を要求する。これは教父たちの判断に圧力を加えることだ。われわれはそれを受け入れない。」

 公会議はたった二日前に始まったばかりでした。そしてすでに枢機卿たちの間には猛烈な対立がありました。何が起こったのでしょうか?

 これら48時間の間にリベラルな枢機卿たちは世界のすべての国々から作成されたリストをすでに準備していました。彼らはこれらのリストをすべての公会議教父たちの郵便受けの中に配りました。私たちはそれゆえにすべての者がしかじかかくかくの委員会の委員たち、すなわち、異なった国々からのかくかくの司教と他の司教等々、を提案している一通のリストを受け取ったのです。多くの人々は言いました。「結局のところ、これでいいではないか。私は彼らを知らないのだ。リストがすでにできあがっているのだから、われわれは単純にそれを利用するだけだ」と。

 48時間後、全面に出ていたのはリベラル派のリストでした。しかしそれは公会議の規則によって要求されていた投票数の3分の2を得ていなかったのです。

 それでは教皇は何をされたのでしょうか?教皇ヨハネ二十三世(Pope John XXIII)は公会議の規則に一つの例外を作られるのでしょうか、それともその規則を適用されるのでしょうか?

 明らかにリベラルな枢機卿たちは教皇が公会議の規則を適用することを恐れていました。それで彼らは教皇のところへ走り、教皇にこう言いました。

「聴いてください、私たちは投票総数の半分以上、60% 近くを獲得しています。あなたはそれを拒否することはできません。私たちはこのように歩み続けて、別の選挙をすることはできません。私たちはそれを決してさせないでしょう。これは明らかに公会議の大多数の意志です。そして私たちは単純にそれを受け入れなければなりません。」

 そして教皇ヨハネ二十三世はこれを受け入れました。この始めから公会議の諸々の委員会のすべての委員はリベラル派から選ばれました。このことが公会議に対していかに巨大な影響を及ぼしたかを想像することは容易いことです。

 教皇ヨハネ二十三世は、二、三ヶ月の終りにはすべてのことが為されたと考えていたけれども、公会議で見聞きした出来事のために早死にされたと私は確信しています。三ヶ月の公会議のつもりでした。3ヶ月の後で、抱き合って別れを告げ、皆は家に帰る、ローマでお互いに会え、すばらしい小さな集会をして、幸せに帰る、これを考えていました。
 教皇は、公会議が一つの世界それ自体、絶えざる衝突の世界であることということを悟りました。公会議の第一会期からはテキストは何も出ませんでした。教皇ヨハネ二十三世はこのことによって圧倒されました。そして私はこのことが彼の死を早めたと確信しています。死の床で教皇は「公会議を止めろ、公会議を止めろ」と叫ばれたとさえ言われて来ました。


教皇パウロ六世リベラル派に支持を与える


 そこで教皇パウロ六世がやってきました。教皇がリベラル派に支持を与えたことは明らかです。どのようにそうしたのでしょうか?

 その教皇職のそもそもの初めから、公会議の第二会期の間に、教皇はすぐに4人公会議モデラトールら(Moderator)を指名しました。第一会期の間には、公会議議長たち(Presidentes)が10人いました。彼らのそれぞれが、代わる代わる議長として一つの会合の議長を務め、そして第2の議長が次の会合、そして別の第3番目の議長が、次の会合の議長を務めました。彼らは、他の人びとよりも一段高いテーブルに座りました。彼らが公会議を指導していたのです。

 パウロ六世教皇は、すぐに4名のモデラトールを指名し、そして公会議議長は名ばかりの名誉議長となりました。そして4名のモデラトールたちが公会議の本当の議長となってしまいました。

 では、いったい誰がこれらのモデラトールたちだったのでしょうか? まず、ミュンヘンのドップフナー枢機卿(Julius August Cardinal Dopfner †)。彼は、極めて進歩的でまた非常にエキュメニカルでした。

 次にスーネンス枢機卿(Leo Jozef Cardinal Suenens †)。彼は、そのカリスマ運動によって皆に知られており、司祭の結婚を推進してなんども訓話をしていました。

 そしてレルカロ枢機卿(Giacomo Cardinal Lercaro †)。彼は共産主義シンパとして知られており、彼の司教区の教区長代理(Vicar General)として、共産党党員として登録されていた司祭を任命していました。

 最後にアガジアニアン枢機卿(Gregoire-Pierre XV Cardinal Agagianian †)。彼は、もしそう言うことができるならば、いくぶん伝統派を代表した人でした。

 しかし、アガジアニアン枢機卿は非常に控えめで、隠れた人でした。その結果、彼は公会議には何も影響を与えませんでした。しかし他の三人は鳴り響くドラムをもって彼らの仕事を達成しました。彼らは、絶えずリベラルな枢機卿たちを常に一致させていました、そのためこれは公会議のリベラル派に極めて大きな力を与えることになりました。

 伝統的な枢機卿や司教たちは、まさにこの瞬間から明らかに脇へ押しやられ、軽蔑されるようになったのです。

 盲目であった可哀想なオッタヴィアーニ枢機卿が発言したとき、彼が割り当てられた十分間の最後にまだ話を終えていなかったにもかかわらず、若い司教たちは、この枢機卿を黙らせようと、枢機卿にもうたくさんだ、うるさい、ということを分からせようとするブーイングが聞こえていました。彼は発言を中止せねばなりませんでした。恐るべきことです。この尊敬すべき枢機卿、ローマ中で尊敬され、聖なる教会に巨大な影響を与えた、検邪聖省長官(これは、小さな職務ではありません)が、です。聖伝主義者であった人たちがどのように取り扱われたかを見るのは、スキャンダルでした。

 モンセニョール・スタッファ(Dino Cardinal Staffa †)(彼はその後枢機卿になりました)は非常にエネルギッシュで、公会議の総会議長たちによって沈黙させられました。想像も出来ない多くのことが起こっていたのです。

教会の革命


 これが公会議で起こったことです。公会議の全ての論説とテキストとがリベラルな枢機卿たちとリベラルな委員会によって影響を受けたということは明らかです。第二バチカン公会議のテキストが曖昧であり、ものごとを変えるのに都合よくできていること、教会内部で本当の革命を起こすように都合よく出来ていることは、驚くに足りません。

 私たち、司教たちと枢機卿たちの伝統的一翼を代表していた私たちが、何かすることができたでしょうか?率直に言って、私たちはほとんど何もすることができませんでした。聖伝維持を支持し、教会における大きな変化、つまり、誤った刷新、誤ったエキュメニズム、誤った司教団制度 (collegialite) に反対していたのは、250人でした。私たちはこれらすべてのことに反対しました。これら250人の司教たちは、明らかにいくらかの影響力を行使し、そしてある場合にはテキストを修正させることに成功しました。悪はいくぶん制限されました。

 しかし私たちはいくつかの誤った意見が採用される、特に信教の自由に関する論説が採用されるのを阻止することに成功することができませんでした。この信教の自由に関する文書は、5回も書き直しを受けました。

 しかし5回とも、同じ説がそのまま戻ってきました。私たちはいずれの機会にもそれに反対しました。反対投票はいつも250票でした。

 そこで、教皇パウロ六世は、このテキストに二つの小さな文章を付け加えさせたのです。それにはこうありました。「このテキストには、教会の伝統的な教えに反することは何もない、そして教会は常にキリストの真の、唯一の教会であり続ける」と。

 すると、特にスペインの司教たちがこう言いだしたのです。
「教皇がこれを付け加えたのだから、もはや何の問題もない。伝統に反するものは何もないのだから」と。

 もしもこれらの事柄が(過去の教会の教えと)矛盾するならば、この小さな章句は、テキスト内部に書かれてあることに全て矛盾します。これは一つの内部矛盾を抱えた概要文書です。それを受け入れることはできません。最後には、私の記憶が確かならば、ただ74人の司教だけが反対者として残りました。この文書は、これ程までの反対に遭遇した唯一の概要です。しかし、2500票のうちの74票というのはほとんど何でもありません!

 このようにして公会議は終わりました。私たちはそれ以来導入されてきた諸改革に驚くべきではありません。自由主義の全歴史を通して、リベラル派は公会議内部で勝利したので、彼らはパウロ六世が彼らにローマ聖省のよい地位を与えることを要求したのです。

 そして事実、諸々の重要な地位は進歩的な聖職者に与えられました。一人の枢機卿が死ぬとすぐに、あるいはある機会が生ずるやいなや、教皇パウロ六世は伝統的な枢機卿たちを脇へ押しやり、直ちにリベラルな枢機卿が彼らに取って代わるようにしました。

 このようにしてローマはリベラル派によって占領されました。これは否定できない事実です。また公会議の諸改革がエキュメニズムの精神を呼吸し、プロテスタントの精神を吸い込んだ改革であった、それ以上でも以下でもないということも否定することはできません。



典礼改革


 もっとも重大だったのは、典礼の改革でした。この典礼改革は誰もが知っているようによく知られたある一人の神父によってなされました。ブニーニ(Bugnini)です。ブニーニはこれをずっと前から既に準備していました。既に1955年にはブニーニ神父は、その当時イタリア従軍司祭の総司祭長であったモンシニョール・ピントネッロ(Mgr Pintonello)によってプロテスタントの典礼文を訳を頼んでいました。ブニーニはドイツ語を知らなかったのですが、ピントネッロはイタリアがドイツに占領されていた間、ドイツに長い間滞在していたことがあったからです。私はモンシニョール・ピントネッロ自身の口からこの耳で聞いたのですが、彼がプロテスタントの典礼書をいろいろと、当時ある典礼委員会の単なる一員に過ぎなかったブニーニ神父のために訳したのです。

ブニーニ神父


 ブニーニ神父は、何の地位もありませんでした。その後に彼はラテラン大学の典礼の教授になりました。教皇ヨハネ二十三世はしかしブニーニ神父の近代主義と進歩主義のために教授職から彼を追いやりました。ところが何とブニーニは典礼改革委員会の委員長として舞い戻ってきたのです。これは、嘘のような本当の話です。私はこの目でブニーニ神父の影響力がどれほど大きいものとなったかと言うことを知らされる機会がありました。このようなことがどうしてローマであり得たのか、不思議でなりません。

ブニーニ神父

 私はその当時、つまり第2バチカン公会議の直後、聖霊修道会の総長でローマにはいろいろな修道会の総長たちが集う「総長友好会」という会合がありました。私たち総長らはブニーニ神父に、彼の作った新しいミサとは一体どういうものかを説明してくれるように求めました。と言うのも、何と言っても典礼の改革というのは小さな出来事ではなかったからです。公会議後すぐに「規範ミサ Missa Normativa」とか新しいミサとか新しい式次第 (Novus Ordo) 等という言葉を耳にするようになりました。ですから、これが何のことか確かめたかったのです。このようなことは公会議の時には一切話しもしませんし、耳にしなかったからです。何が起ころうとしていたのか、それを知りたかったのです。ですから、私たちはブニーニ神父に、一堂に会した私たち84名のいろいろな修道会の総長たち(そして私もそのうちの一人でした)に彼自身が説明してくれるように頼んだ訳です。

 ブニーニ神父は気だてよく、私たちに「規範ミサ」とはいったい何なのかを説明してくれました。彼は、これを変えて、あそこを変えて、別の奉献文を付けて、典文(カノン)を選択することが出来るようにして、聖体拝領の祈りを簡略化して、ミサの始めにはいろいろな選択肢を付けて、ミサをいろいろな言葉で立てることが出来るようになる、等とまくし立てました。私たちは顔を見合わせて「まさか、無理な話だ!」と言いあったものです。

 話を聞いていると、まるであたかもブニーニ神父以前には教会にミサというものが存在していなかったかのようでした。ブニーニ神父は自分の作り上げた「規範ミサ」を新しい発明発見であるかのように話していました。

 個人的な話ですが、私は自分と意見を同じくしない人に反対意見を述べるのに普通ならさして困難を感じることはないのですが、この時ばかりは非常に動揺し、何も言葉を口にすることもできませんでした。一言も言葉を出すことが出来なかったのです。今私の前にいるこの男にカトリック典礼、ミサ聖祭、秘蹟、聖務日課、私たちの全ての祈りが全て任せられているなどということは許されないことだ、と思っていたのです。私たちは、どこに行くのか、教会はどこに行こうとしているのか、とばかり思っていました。

 それでも2名の総長様には立ち上がる勇気がありました。このうちの一人はブニーニ神父にこう質問しました。
「積極的なミサへの参加とは、肉体的な参加とは、声に出して祈ることですか、それとも霊的な参与のことですか。それはともかく、神父様は信徒のミサへの参加についてたくさんお話をして下さいましたが、信者の与らないミサというのはこれからはあってはならないかのようです。何故かというと、あなたのミサは全て信者が参加することを前提に作られているからです。私たちベネディクト会士は、信者が参加しないミサを立てています。私たちの私唱ミサに与る信徒がいないのですから、私たちは今後も私唱ミサを立て続けるべきなのでしょうか?」

 私はブニーニ神父が何と答えたかをそのまま繰り返して申し上げましょう。私はその言葉に衝撃を受けたので、それが今でも耳の中に残っています。
「本当のことを言うと、そのことを考えていませんでした。」
ブニーニ神父はこう言ったのです!

 その後で別の総長が立ち上がってこう言いました。
「神父様、神父様はこれを廃止して、あれを廃止して、これをあれと取り替えて、祈りはもっと短くして、等とおっしゃいました。私はあなたの新しいミサは10分かそこら、15分ほどで終わってしまうような感じを受けました。しかし、教会のかくも偉大な行為にとって、そんなに短いものは相応しくありませんし、尊敬に欠くものだと思います。」
 すると、ブニーニ神父はこう答えました。
「ミサにはいつでも何かを付け加えることが出来ます。」
 これは、本当にまじめな話のなのでしょうか?わたしは、この耳で聞いたのです。もし誰かがこのような話を私にしてくれただけでしたら、私は疑ってほとんど信じなかったでしょう。でも、私はこの耳で聞いたのです。

 その後、この「規範ミサ」が実現し始めたとき、私はあまりにもぞっとして、司祭や神学者たちと一緒に勉強会を開きました。そこで「新しいミサの批判的研究」が作られ、それはオッタヴィアーニ枢機卿(Cardinal Ottaviani)の元に提出されたのです。私がこの研究会の座長を務めました。私たちは互いに言い合いました。「枢機卿様たちを探してサインをして貰おう。このようなミサが何らの抵抗もなくなすがままにさせることは出来ない。」と。

オッタヴィアーニ枢機卿

 そこで私自身が出向いて、政務次官であったチコニャーニ枢機卿 (Cardinal Cicognani) と会い、こう申し上げました。

チコニャーニ枢機卿

「枢機卿様、このようなミサをそのまま通過させることは出来ないはずです。それは、あり得ません。この新しいミサとは一体なんですか?こんなのは教会における革命、典礼の革命ではないですか。」

 チコニャーニ枢機卿は、パウロ六世の政務次官でしたが、頭を抱えて私にこう言ったのです。
「オォ!モンシニョール、私はよく知っています。私はあなたと全く同じ意見です。でも、私に一体何が出来るというのでしょうか?ブニーニ神父は教皇様のお部屋に自由に入って自分の望むものを教皇様に署名させることが出来るのです。」

 これを私に言ったのは、政務次官の枢機卿様だったのです!
 良いですか、教皇様の次に高位な役職についておられる枢機卿様が、ブニーニ神父の下にいるです。ブニーニ神父は教皇様の所にいつでも入ることが出来、自分の欲しいままにサインをさせることが出来たのです。

 これを見ると、何故教皇パウロ六世が自分の読みもしなかった文書にサインをしてしまったかというその理由が分かります。教皇様はジュルネ枢機卿(Cardinal Journet) にこう言ったことがあります。ジュルネ枢機卿というのは考え深い方でスイスのフリブール大学の教授であり、偉大な神学者でした。ジュルネ枢機卿様が新しいミサ式次第の前に付いている「総則」の中のミサの定義を見たとき、こう言いました。

From left, monsignor Pierre Mamie, future bishop of Lausanne, Geneva and Freiburg, Cardinal Charles Journet and George Cottier in Rome during the works of Vatican Council II


「こんなミサの定義は受け入れることが出来ない。ローマに行って教皇様と会ってこなければならない。」と。
実際ジュルネ枢機卿様はローマまで足を運んで教皇様にお会いしてこう申し上げました。
「教皇聖下、こんな定義を許してはいけません。これは異端的です。こんな文書の元に聖下の署名を残し続けてはいけません。」

 すると、教皇聖下はジュルネ枢機卿にこう答えたそうです。これはジュルネ枢機卿が私に言ったことではなく、ジュルネ枢機卿がある人に言ったのですが、その人自身が私にこう言いました。
「ええと、実はね、私はそれを読まなかったのです。読まずにサインしたのです。」と。

 もしブニーニ神父が教皇様にそれほどの大きな影響力をふるっていたのなら、勿論そのようなことはあり得る話です。ブニーニ神父が教皇様に「教皇様は、これにサインすることが出来ます」とでも言えば、教皇様は「あなたはよく注意しましたね?」とでも聞かれるでしょう。するとブニーニ神父は「はい、サインすることが出来ます。」とでも答えたのでしょう。そして教皇様がサインをしたのでしょう。

 しかも新しいミサの文書は検邪聖省を通過しませんでした。検邪聖省を飛び越えて世に出たのです。私はこのことを知っています。何故なら、検邪聖省の長官であったセペール枢機卿様が私に、新しいミサの式次第が出た時セペール枢機卿は検邪聖省を留守にしていたこと、そして新しいミサが検邪聖省を通らなかったことを教えてくれたからです。ですから、ブニーニ神父が教皇様のサインを奪い取ってしまったのです。もしかしたらブニーニ神父は教皇様に強制的にサインを要求したのかも知れません。私たちには分かりません。しかし、彼には疑いもなく教皇様に特別な影響力があったのです。

 私自身がその証人に立つ第3の事実は、ブニーニ神父についてです。手による聖体拝領という、恐るべき事が許されようとしつつある時、私はこんなひどいことが実現するのを何もせずに見ているわけにはいかないと思いました。そこで、どうしてもスイス人のグート枢機卿 (Cardinal Gut) に会いに行かなければならない、と考えました。何故ならグート枢機卿こそが「典礼聖省」の長官だったからです。そこで私はローマまで足を運びました。ローマではグート枢機卿は私を非常によく歓迎してくれ私にすぐにこう言いました。

「私はすぐに私の補佐であるモンシニョール・アントニーニ (Mgr Antonini) を呼びます。モンシニョール・アントニーニがあなたの言うことを承ることが出来るようにします。」
そして、私たちは話し合いました。私はこう言いました。
「良いですか、あなたは典礼聖省の責任者です。手による聖体拝領などと言うことの許可の勅令を公布するのを許してはなりません。手による聖体拝領のために生じるであろう全ての涜聖を考えてもみて下さい。御聖体に対する尊敬の欠如が全世界の教会に広がることを考えても見て下さい。こんな事を許すことは出来ません。そのようなことを放任させておくのですか?既に手に聖体を授けだした司祭たちも何人かいます。ですから、これを今すぐ止めなければなりません。更にこの新しいミサで、司祭はいつも一番短い第二典文を使っています。」
 すると、グート枢機卿はモンシニョール・アントニーニにこう言っていました。「ほらね。私が言っていた通りそうなったでしょう。司祭はさっさとミサを早く終わらせるために一番短い典文を使うだろうって。」

 その後に、グート枢機卿は私にこう言いました。
「モンシニョール、もし誰か私の意見を聞くなら、(グート枢機卿が言っていたこの「誰か」とは教皇様のことを指していました。というのは彼の上には教皇様しか存在していなかったからです。)、しかし私は誰か私に意見を求めるかあまり確信がありませんが、(天主に対する礼拝、典礼に関する全てのことを任されているはずの典礼聖省の長官ともあろう方が、こう言うのです!) モンシニョール、私は教皇様の前に跪き、こう言うことでしょう。『教皇聖下、こんなことをなさらないで下さい。こんな勅令にサインなどしないで下さい』と。モンシニョール、私は跪いて懇願するでしょう。でも、人が私に意見を尋ねるか分かりません。何故なら、ここ典礼聖省で一番偉いのは私ではないからです。」

 これは、私がこの自分の耳で聞いたことです。彼は典礼聖省の第3番目の男であったブニーニ神父のことを暗示させていました。つまり、グート枢機卿がいて、モンシニョール・アントニーニがいてその次に典礼委員会の座長であったブニーニ神父がいたのです。(信じるためには)この言葉を直接聞かなければなりませんでした。ですから、人が私に向かって「おまえは反逆の徒だ、不従順だ、反抗者だ」等と言うときの私の態度も理解して下さらなければなりません。


彼らは教会を破壊するために教会内部に侵入した


 はい、確かに私はこのような人々に、つまりブニーニのような人々に反抗し、反逆の徒となるのです。何故なら、このような人々こそが教会を破壊しようと教会の中に侵入しているからです。それ以外あり得ません。

 では、教会の破壊に協力するとでも言うのですか?教会の敵が教皇聖下の懐まで入り込んで自分の思いのまま、一体どのような圧力の元にかは私たちは知りませんが、教皇様にサインをさせているのにも関わらず、「はい、はい、アーメン」と言うのでしょうか?勿論、私たちの知ることの出来ない隠されたことが多々あります。フリーメーソンの圧力があったという人もいます。それはあり得る話ですが、私には分かりません。ともかく、ある謎が存在します。枢機卿でも司教でもない一司祭が、しかもまだ当時非常に若かった一人の司祭が、ラテラン大学の教授職から追放したヨハネ二十三世教皇の意志に反して、教会の頂点まで上って上って上り詰め、政務次官を見下し、典礼聖省長官を見下し、教皇様の所まで直接行って自分の好きな文書にサインをさせているのです。このようなことは、かつて聖なるカトリック教会で見たこともありません。全ては常に権威当局を順序立てて通過していたものです。委員会の手を通し、書類を検査していました。しかし、この男は全権を握っているのです!

 私たちのミサを変えるためにプロテスタントの牧師たちを招待したのはこのブニーニです。グート枢機卿ではありません。政務次官の枢機卿でもありません。教皇様でもなかったかも知れません。ブニーニでした。このブニーニという男は言った何者なのでしょうか。

 ある日、典礼委員会の長に立っていた人、つまり「門外の聖パウロ大聖堂」の以前の大修道院長のベネディクト会士がにこう言いました。
「モンシニョール、ブニーニ神父の話はなさらないで下さい。私は彼についていやと言うほど知りすぎてしまいました。彼が誰かと言うことは私に聞かないで下さい。」
 しかし、私はこう返事をしました。
「さあ、おっしゃって下さい。私たちは本当のことを知らなければなりません。事実が明るみに出なければなりません。」
「私はブニーニについてあなたに話をすることが出来ません。」
しかし、彼はブニーニについて非常によく知っていました。多分に彼がヨハネ二十三世に要請してブニーニをラテラン大学から追放させたのです。

 これらのことを合わせて考えると、聖ピオ十世教皇が言っていた通り、敵は教会の内部に入り込んでいると言うことが分かります。そして、ラサレットの聖母が予告していた通り、そしておそらくファチマの第三の秘密がその内容であるように、教会の敵はそのもっとも高い頂点にいるのです。

 私には教皇パウロ六世がヴィヨ枢機卿(Cardinal Villot)によって非常に大きな影響を受けているという個人的な証拠さえあります。ヴィヨ枢機卿はフリーメーソンの会員だそうです。私には分かりません。ただいろいろな証拠があるのだそうです。ヴィヨ枢機卿宛のフリーメーソンの手紙が何通もあり、それを複写した人もいます。私にはその証拠がありません。いずれにしても、ヴィヨ枢機卿は教皇様にものすごい影響力をふるっていました。ヴィヨ枢機卿はローマの権力をその手に全て握りしめていました。そして彼こそが、教皇様に勝るローマの主人となったのです。全ては彼の手を通さなければなりませんでした。

ヴィヨ枢機卿

 このことを私は知っています。ある日私はカナダの公教要理についてライト枢機卿に会いにローマまで行きました。私は枢機卿に言いました。

ライト枢機卿

「この公教要理をご覧下さい。あなたは『断絶 (Rupture) 』という題の小冊子のことをご存じですか?これは本当にひどいものです。子供たちに断絶することを教えています。家族と、社会と、伝統と手を切り断絶しなければならないと。これがクデルク大司教 (Mgr Couderc) の印刷許可(imprimatur)を得て、カナダで子供たちに教えられている公教要理の本なのです。枢機卿様、教皇様の次にあなたこそが全世界における公教要理に関して責任がある方です。枢機卿様はこの要理の本に賛成しているのですか?」
枢機卿様は私にこう言われました。
「オォ ノー!ノー!この要理の本はカトリックではありません。」

 私は言いました。
「これがカトリックではないのですか?それではそのことをすぐにカナダの司教協議会にそう仰って下さい。彼らにこれを使うのを止めるように、この要理の本を火にくべるように、そして本当の公教要理を広めるようにとおっしゃって下さい。」
 すると枢機卿はこう答えました。
「私が司教協議会にどうやって逆らえとおっしゃるのですか?」

 私はその時こう言いました。
「万事休す。もはや全ては終った。教会の中に権威というものはもはやない。もうおしまいだ。もし司教協議会が子供たちの信仰を崩壊させている最中だというのに、ローマが司教協議会に何も言うことが出来ないとすると、それは教会の終わりを意味する。」

 私たちはそのような状況のど真ん中にいるのです。ローマは司教協議会を恐れています。これらの協議会はひどいものです。フランスでは否認を推進させるキャンペーンが司教たちによってなされています。私はフランスの司教たちが社会党政権によって取り込まれてしまったのだと思います。フランスの社会党政権は今では絶えずテレビでこのスローガンを叫ばせています。
「堕胎を避けるために避妊薬を!」

 フランスの司教団はこれ以上のことを何も見つけださず、避妊薬推進という気が狂った宣伝をしているのです。12歳の年端もいかない女の子が堕胎を避けるために避妊薬を買うとその代金は後で返済されるのです!そして司教たちはこれを認めているのです!私の昔の司教区であるチュール (Tulle) 教区報を私は受け続けているのですが、それにはサン・シュルピス会の総長であったブリュノン司教(Mgr Brunon)によって出された避妊推進のための公式文書が載っていました。彼はフランスの中でもっとも優れた司教の一人なのです。それがこうです!


何故私は「従順」ではないのか

 では、何をしなければならないでしょうか。私はこう言われます。
「あなたは従順であるべきだ。あなたは不従順だ。あなたは今していることを続ける権利がない。あなたは教会を分裂させている。」

 では、法とは何でしょうか。法令とは何でしょうか。何が私たちをして従順たらせるのでしょうか。レオ十三世教皇はこう言います。「法とは共通善のための理念の秩序である」と。つまり、法とは善のためにあるのであって悪のためにあるのではありません。もしあることが悪のためであると言うことがはっきりと分かっている場合にはそれは法ではありません。レオ十三世がそのことを「リベルタス」という回勅の中ではっきりと説明しています。共通善のためではない法はもはや法ではなく、これに従ってはならない、と。

AU MILIEU DES SOLLICITUDES
Qu’on ne l’oublie pas, la loi est une prescription ordonnée selon la raison et promulguée, pour le bien de la communauté, par ceux qui ont reçu à cette fin le dépôt du pouvoir.
Let it not be forgotten that law is a precept ordained according to reason and promulgated for the good of the community by those who, for this end, have been entrusted with power... )】

 ローマの多くの教会法学者たちは「ブニーニのミサは法ではない」と言っています。新しいミサの法はありませんでした。ただ許可、許しが与えられただけです。仮に今ローマからそのための法が、すなわち共通悪にあらず「共通善のための理念の秩序」が発布されたとしましょう。ところで、新しいミサは今まさに教会を破壊し、信仰を崩壊しているところです。これは全く明らかです。モントリオールの大司教グレゴワール大司教(Mgr Grégoire)は、ある手紙を発表しそう言っていますが、それは非常に勇気のあることでした。グレゴワール大司教はそのような手紙をあえて書き発表することの出来るまれな司教たちのうちの一人でした。その中で彼はモントリオールの教会を苦しめている諸悪を告発しています。

グレゴワール司教

「私たちは残念ながら多くの信徒たちがその小教区を去っているのを見ている。私たちはこの大部分を典礼改革の責任であるとする。」
グレゴワール大司教はこれを言ってのける勇気があったのです。

 私たちは今教会の内部で現在の枢機卿たちによる本当の意味での陰謀を前にしています。例えばノックス枢機卿(Cardinal Knox)はラテン語のミサと聖ピオ五世のと言われるミサについて全世界で有名な調査をしました。これはヨハネ・パウロ二世教皇様に影響を与えるために作られた明らかで明白な嘘の調査です。これを見て教皇様に「聖伝のミサを望んでいる人がこれほどの少数でしかないなら、何もしなくても自滅してしまうだろう。」と言わす為だったのです。こんな調査は何の価値もありません。教皇様は1978年の11月に私を迎え受けて下さった時には、司祭は自由に自分の選択で自由にミサを選ぶことが出来るという文書にサインする直前だったのです。教皇様はそこまでする準備が出来ていたのです。

カザロリ枢機卿

 しかしローマには聖伝に真っ向から反対する枢機卿たちのグループがあります。修道者聖省長官であるカザローリ枢機卿(Cardinal Casaroli)、世界中の司教たちの任命を取り仕切る非常に重要な役職の一つである司教聖省の長官であるバッジオ枢機卿(Cardinal Baggio)、それから悪名高いヴィルジニオ・レヴィ(Virginio Lévi)、彼は典礼聖省の第2の地位にいますがおそらくブニーニよりもずっと悪いと思います。また、アメ枢機卿(Cardinal Hamer)、彼は検邪聖省の第2の地位にいるベルギー人の大司教、ルーヴァン地方出身でルーヴァン大学のありとあらゆる近代主義の概念に染まっている人です。彼らは聖伝に真っ向から対立してます。彼らは聖伝について話を聞きたくもありません。もし彼らが私の息の根を止めることが出来たなら、彼らはそうしていたことだろうと思います。



少なくとも私たちに自由を残しておいてほしい

 彼らは、私が教皇様の元に出向いて聖伝の自由を勝ち取るために努力をしているのを知るとすぐさま、反対する同盟を組みました。願わくは人々が少なくとも私たちに自由を残しておいてくれるように。願わくは、以前人々が数世紀にもわたって祈りをしていたその通りのやり方でそのまま私たちが祈るのを放任するように。私たちが以前神学校で学んだことをそのままやり続けることを許してくれるように。願わくは、皆さんがまだ子供だった頃教わったことを、つまり私たちを聖化する最高のやり方をそのまま続けることを許してくれるように。

 私たちは最高の聖化の方法を神学校で学びました。私はこれを司祭だったとき実践していました。私が司教だったとき私の元にいる全ての司祭たち、神学生たちに私自身がこう言っていました。
「ミサ聖祭を愛しなさい。教会があなたたちに与えるものを、すなわち秘蹟と公教要理を愛しなさい。何も変えてはいけません。20世紀にもわたって続いている聖伝を守りなさい。これがあなたたちを聖とするのです。これが多くの聖人たちを聖としてきたのです。」

 それなのに今になると全部変えろと言うのですか?それは出来ません。少なくとも私たちには今までのことを続ける自由を残してくれるべきです。

 さて、彼らがこのことを耳にするやいなや勿論彼らはすぐさま教皇様の元に駆けつけてこう言うのです。
「ルフェーブル大司教に何も与えてはいけない。聖伝に何も与えてはいけない。とりわけ決して後ろに戻ってはいけない」と。

 彼らは例えばカザローリ枢機卿のように政務次官であり非常に重要な地位にあるので、教皇様はあえて何もしようとされないのです。ところで、ラッチンガー枢機卿のように中には聖伝に対して好意的に考えている方もおられます。セペール枢機卿(Cardinal Seper)が1981年の御降誕祭に亡くなると、ラッチンガー枢機卿がその後継者となりました。ラッチンガー枢機卿は公会議の時には非常にリベラルでした。彼はラーナーとかハンス・キュンクとかスキレベークスなどと言ったリベラル派の友でした。しかし彼がミュンヘンの大司教区の大司教という重責を任命されると、彼は少し目を開いたようです。彼は今では改革の危険に気が付いており、聖伝に基づいた規律に戻ってくることを望んでいるようです。彼と共に列聖聖省長官のパラッツィーニ枢機卿(Cardinal Palazzini)や、聖職者聖省のオッディ枢機卿(Cardinal Oddi)等がいます。これらの3名の枢機卿は聖伝に自由を残すことを望んでいます。しかしその他の方がもっと大きな影響力を教皇様に及ぼしているのです。

セペール枢機卿


 私は5週間前にローマにいました。そして教皇様によって聖ピオ十世会、私自身に関して、教皇様と私の間をつなぐ仲介者として、セペール枢機卿の後を引き継ぐように命じられたラッチンガー枢機卿と面会しました。セペール枢機卿は、ヨハネ・パウロ二世教皇が私に許された謁見の折に教皇様と私の仲介者として任命されました。ヨハネ・パウロ二世教皇様はセペール枢機卿を呼び寄せてこう言ったのです。
「枢機卿様、ルフェーブル大司教と私との間の関係をあなたが維持して下さい。あなたは私の仲介人です。」
そして、今教皇様はラッチンガー枢機卿をそれに任命したのです。

 私はローマに彼に会いに行きました。私は彼と1時間45分話し合いました。確かに、ラッチンガー枢機卿はもっと肯定的で良い解決策を引き出す能力がある人のようです。今かなり鋭い難問として一つ残っているのはミサです。そもそもの最初から、結局のところ、ミサが常に問題でした。何故なら彼らは私が公会議に反していないと言うことをよく知っているからです。公会議の中には私が受け入れることが出来ないことが幾つかあります。私は宗教の自由についての文書にサインをしませんでした。私はこの世における教会についての文書にサインをしませんでした。しかし、これを以て私が公会議に反対しているとは言うことが出来ません。ただ聖伝と反している私たちが受け入れることが出来ないことがあると言うだけです。このことのために大げさになってはなりません。教皇様ご自身も「公会議を聖伝の光によって見なければならない」とおっしゃったからです。もしも公会議を聖伝の光によって見るなら、私にとって何も問題とはなりません。私は「公会議を聖伝の光によって見なければならない」というこの文章にサインをしたいくらいです。何故なら聖伝に反することは全て明らかに排斥されなければならないからです。

 教皇様によって許された謁見の際に、ヨハネ・パウロ二世教皇様は私にこう尋ねました。
「それではあなたはこの言い回し(訳者注:「公会議を聖伝の光によって見なければならない」ということ)にサインをする準備が出来ているのですね。」
私は答えました。
「その言い回しを使ったのは教皇様自身です。私にはサインをする用意があります。」
「それでは私たちの間に教義上の難点は無いではないですか。」
「私はそう期待します。」
「では、今何が残っているのですか?あなたは教皇を受け入れるのですか。」
「勿論です。私たちは教皇様を認め、私たちは全ての神学校で教皇様のために祈っています。世界中でもしかしたら教皇様のために祈る神学校は私たちの所ぐらいしかないかも知れません。私たちには教皇様に対する大きな尊敬があります。教皇様が私に来いとおっしゃったときには私はいつもすぐに参りました。しかし、今典礼に関して問題があります。これは本当に難しい問題です。典礼は今教会を破壊し、神学校を崩壊させているとことです。これは非常に重要な問題です。」
「いや、これは規律の問題です。大したことではありません。もしこれしか問題がないのなら私は何とかなると思います。」

 そして教皇様はセペール枢機卿を呼び、枢機卿はすぐに来ました。もし彼が来なかったら私は教皇様は協定にサインをする用意があったと思います。セペール枢機卿が来て、教皇様は彼にこう言います。
「ルフェーブル大司教と話をまとめるのに、事はそれほど難しくないと思います。解決にたどり着けると思います。大して難しくもない典礼問題しかありません。」
すると枢機卿は声を上げてこう言いました。
「あぁ!ルフェーブル大司教に何も譲ってはいけません。この人たちは聖ピオ五世のミサを御旗にするのです。」
私は言いました。
「御旗、勿論ですよ。ミサこそが私たちの信仰の御旗ではないですか。Mysterium fidei 私たちの信仰の偉大な神秘です。そんなのは明らかです。これは私たちの御旗です。これは私たちの信仰の表明です。」

 これに教皇様はひどく動揺されたようです。教皇様はほとんどすぐに態度を変えられたようです。私の思うには、このことは教皇様が強い男ではないと言うことを示しています。もし強い男だったら、こう言っていたことでしょう。
「私がその面倒を見ましょう。典礼については私がまとめましょう。」
そうではありませんでした。教皇様は直ぐに恐れをなしたかのようでした。

 教皇は恐れるようになられました。そして執務室を離れられたとき、教皇様はセペール枢機卿に言われました。「さあ今から、あなたは(ルフェーブル大司教と)話をしてもよろしい。ルフェーブル大司教とことをまとめるように計らってしてよろしい。このままここにいてもよろしい。私はバッジオ(Baggio)枢機卿と会いに行かなければなりません。彼は司教たちに関して非常に多くの書類を私に見せなければなりません。私は行かなければなりません。」

 教皇は去られるとき私に言われました。「止めてください。大司教様、止めてください。」教皇は変わってしまいました。数分の間に教皇は完全に変わってしまいました。

 私が一人のポーランドの司教から受け取った手紙を教皇に示したのはこの謁見の間でした。このポーランド人司教は一年前、私に手紙を書いてよこしたことがありました。それは、エコンに設立した神学校、そして私が養成している司祭たちについてに褒めるためでした。このポーランド人司教様は、私が全聖伝と共に古いミサを守ることを望んでいました。

 彼はこうつけ加えて言いました。自分が唯一の人間ではない、複数の私たち司教は、あなたに敬服し、あなたの神学校に敬服し、あなたが司祭たちに与えている養成そしてあなたが教会内部で守っている聖伝に敬服している、なぜなら、私たちは、信徒に信仰を失わせるために新しい典礼を使うことを強いられているからだ、と。

 それがこのポーランドの司教が言ったことです。教皇様に会いに行くときにこの手紙をポケットに入れて持って行きました。何故なら「教皇様は確かにポーランドについて私に話されるだろう」と思ったからです。

 その通りのことが起こりました。教皇様は私に言われました。「しかし、知っているでしょう。ポーランドではすべてが非常にうまく行っています。なぜあなたは改革を受け入れないのですか?ポーランドでは何の問題もありません。人々はラテン語を失ったことをただ悲しんでいるだけです。私たちはラテン語に非常に愛着がありました。なぜならそれは私たちをローマに結びつけていましたし、私たちはまさにローマ的なのだからです。それは残念なことです。しかし私に何をすることを望むというのでしょうか?神学校にも、聖務日祷書にも、ミサにももはやラテン語はありません。残念です。仕方がありません。ポーランドを見て下さい。改革を受け入れましたが、問題はありません。私たちの神学校は神学生で一杯です。そして私たちの教会は信者で一杯です。」

 私は教皇様に言いました。「私がポーランドから受け取った一通の手紙をお見せすることをお許しください。」

 私はそれを教皇様に見せました。教皇は、司教の名前を見たときこう言われました。「おお、この人は共産主義者たちの敵の中で、最大の反共の人です。」--「それはよい人物証明です」と私は言いました。

 教皇はその手紙を注意深く読まれました。私はその手紙の中で二度繰り返されたそれらの言葉に教皇がどのように反応されるかを見るためにその顔に注目しました。「私たちは、信徒に信仰を失わせるために新しい典礼を使うことを強いられている」という言葉です。

 明らかに教皇はこれを容易に受け入れることはできませんでした。最後に教皇は私に言われました。「あなたはこの手紙をこうやって受け取ったのですか?」
「はい、そうです。持って来たのはコピーです。」
「それは捏造に違いない」と教皇は答えられました。


 私は何を言うことができたでしょうか?私はもはや何も言うことができませんでした。教皇様は私に言われました。
「ご存じでしょうが、共産主義者たちは司教たちの間に分裂を引き起こそうと、非常に狡猾です。」
 それゆえ、教皇様によれば、これは共産主義者たちによってでっち上げられ、そして次に私に送られた手紙だったとのことです。私は教皇様の説を非常に疑っています。何故なら、この手紙はオーストリアで投函されたものだったからです。私の思うには、それを書いた人は共産主義者がそれを途中で奪い、それが私に届かなくなることを恐れたのではないか、ということです。それが彼がオーストリアでそれを投函した理由です。私はその司教に返事を出しましたが彼からはそれ以上何の返事もありませんでした。

 私がこのことを言うのは、ポーランドにおいてさえ、重大な分裂があると私は考えるということです。さらに、パックスの司祭たち(訳者注:PAX という親共産党の団体(Stowarzyszenie PAX)に所属する司祭たちのこと)と聖伝を堅く守ることを望む司祭との間に常に分裂が存在してきたのです。これが鉄のカーテンの背後での悲劇であったのです。



ローマへの共産主義の影響

 皆さんは、イエズス会士、レピディ(Lepidi)神父による『モスクワとヴァチカン』という書物を読むべきです。これは素晴らしい本です。この本は、共産主義者たちがローマにおいて持っている影響力、そして彼らが司教たちの任命、そして二人の枢機卿さえも:レカイ(Lekai)枢機卿とトマセック(Tomaseck)枢機卿の任命さえも、どのようさせたかということを示しています。

 レカイ枢機卿はミンゼンティ(Mindszenty)枢機卿の後継者であり、トマセック枢機卿はベラン(Beran)枢機卿の後継者でした。ミンゼンティ枢機卿とベラン枢機卿は二人共、信仰の英雄そして殉教者でした。

 ミンゼンティ枢機卿とベラン枢機卿の代わりに、パックスの司祭たちを任命したのです。つまり、何よりもまず共産主義政府と同調することを求め、伝統的な司祭たちを迫害することを決心したパックスの司祭たちによって取って代わられたのです。

 密かに洗礼を授けるために田舎に行き、秘密に公教要理をするなど、カトリック教会の司牧の業を続けようとした司祭たちを、これらの新しい司教たちは告発するのです。

 司教たちは彼らにこう言うのです。「あなたたちは共産主義政府の規則を遵守しない権利を持っていない。あなたたちは、法律に反して行動することによって、私たちに害を与えている。」

 しかしこれらの司祭たちは、子どもたちの信仰を守るように、家族における信仰を守るように、そして秘蹟を必要としていた人々に秘蹟を授けるように、自分の生命を捧げる用意ができていました。
 明らかにこれらの国々においては、もし聖体の秘蹟を病院へ運ぶ、あるいは何であれ何かをしたいと思ったならば、常に許可を求めなければなりませんでした。彼らが香部屋を出るやいなや、これらの司祭たちは、共産党に、あれこれのことをする許可を求める義務を負わされていました。こんなことは不可能なことです。人々は秘蹟を授からずに死んでいくのです。子どもたちはもはやキリスト教的なやり方では教育されませんでした。

 ですから司祭たちはもちろん、これらのことを秘密裏にするのです。もし彼らが逮捕されるとすると、司教たち自身が彼らを迫害したからです。それは恐るべきことです。

 ウィシンスキー(Wyszynski)枢機卿もスリピ(Slipyi)枢機卿もミンゼンティ枢機卿もベラン枢機卿もこのようなことはしませんでした。彼らはその反対に彼らに次のように言いながら善い司祭たちを励ましていました。

「どうぞ、やりなさい。さあ、がんばってやりなさい。もしあなたたちが投獄されるなら、あなたたちは司祭としての義務を果たしたことになるのです。もしあなたたちが殉教しなければならないならば、殉教者となりなさい。」

 このことは彼ら共産主義者たちがどのように大きな影響力をローマに対して持っていたかを示しています。私たちがそのことを想像するのは非常に困難です。私たちはそのことを信じることさえできません。

私は、教皇の側に、ペトロの後継者の側に立っています。

 私は決して教皇様に反対であったことはありません。私は教皇が教皇でないと言ったことも決してありません。私は、教皇の側に、ペトロの後継者の側に立っています。私はローマから分離することを望みません。しかし私は近代主義に反対です。進歩主義に反対、改革においてプロテスタンティズム悪しき破壊的な全ての影響に反対です。私たちを毒している、そして信徒の生活を毒しているこれらすべての改革に反対です。

 ところで、私はこう言われています:「あなたは教皇に反対している」と。いいえ、私は教皇に反対ではありません。その反対です。私は教皇を助けに来ています。なぜなら、教皇は近代主義者でありえないからです。進歩主義者であることはできないからです。

 たとえ教皇様が放任していることがあったとしても、それは弱さによってです。それは起こり得ることです。聖ペトロもまたユダヤ人に関して、聖パウルの前で弱い時がありました。聖パウロは厳しく聖ペトロを叱責しました。「あなたは福音に従って歩んでいない」と聖パウロは聖ペトロに言ったのです。

 聖ペトロは教皇でした。そして聖パウロは聖ペトロを叱責したのです。そして聖パウロは力強く言ったのです。「私は教会の頭を叱責した、彼は福音の法に従って歩んでいない」と。こんなことを教皇に言うなどということは、重大なことです。

 シエナの聖カタリナもまた、数人の教皇たちを激しく非難しました。そこで、私たちは同じ態度をとるのです。私たちはこう言います。「教皇様、あなたはご自分の義務を果たしておられません。もしも教皇様あなたが、教会をもう一度栄えるようにすることをお望みならば、あなたは聖伝に戻らなければなりません。もしも教皇様あなたが、これらのすべての枢機卿や司教たち(彼らは近代主義者です)聖伝を迫害するがままにさせているなら、あなたは教会の荒廃を引き起こすことになるのです」と。

 私は、教皇が心の中では、深く心配しておられ、教会を刷新する手段を探しておられると確信しています。私たちの祈りと犠牲、そして聖なる教会を愛し、教皇を愛する人々の祈りによって私たちが(カトリック教会をして聖伝に立ち返らせることに)成功すると期待し確信しています。

 特に聖母マリアへの信心によって[可能]でしょう。もし私たちが聖母に祈るならば、聖母マリアは、自分の御子を見捨てることがおできにならず、御子が建てられた教会つまりその御子の神秘的花嫁を見捨てることがおできにならないでしょう。

 (教会が聖伝に立ち戻ること)それは難しいことでしょう。そのようなことは奇跡でしょう。しかし、私たちは成功するでしょう。


「信仰を守りなさい。信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」

 しかし、人々は私に「新しいミサがよいものである」或いは「聖伝のミサよりも劣るがそれでも良いものだ」と言わせようとしていますが、私はそう言うことを望みません。私にはそう言うことが出来ません。私には新しい秘蹟がよいとは言うことが出来ません。何故ならこれらはプロテスタントたちによって作られたからです。ブニーニによって作られたからです。ブニーニ自身が1965年3月19日にオッセルヴァットーレ・ロマーノ (Osservatore Romano) やドキュマンタシオン・カトリック (Documentation Catholique) で読むことが出来るように、そう言っているのです。
「私たちのカトリックの祈りやカトリック典礼から私たちの離れた兄弟たち、つまりプロテスタントにとって躓きの影となりうるものを全て取り除かなければなりません。」

 1965年3月19日、つまり全ての典礼改革の始まる前でした。私たちがプロテスタントの人たちに、私たちのミサ聖祭や私たちの秘蹟、私たちの祈り、私たちの公教要理について「どこが気に入らないのでしょうか?」と尋ねに行くことが一体可能なのでしょうか?「あなたたちはこれが好きではないのですね。あなたはここが気に入らない。ああそうならこれを廃止しましょう。」と言うのですか?
 それはあり得ません。もしかしたらそうしても異端にはならないかも知れません。しかしカトリックの信仰が弱められてしまいます。こんな事をしたために古聖所を信ずる人はもういなくなってしまいましたし、煉獄も地獄も原罪のことも、天使の存在ももう信じなくなってしまいました。もう聖寵について信じてもいないし、超自然について話にも上りません。これでは私たちの信仰の終わりです。

 ですから、私たちは絶対に私たちの信仰を守り、聖母マリア様に祈らなければなりません。何故なら私たちだけでは、今私たちのやろうとしていることは巨大な事業であって、天主様の御助け無しにはやり遂げることが出来ないであろうからです。

 私は自分自身の弱さと孤立状態を自覚しています。教皇様を前に、枢機卿様たちを前に、私一人で何が出来るとでも言うのでしょうか?私には分かりません。私は一人の巡礼者、巡礼の杖をついて歩く巡礼者として行きます。私はこう言います。「信仰を守りなさい。信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。秘蹟とミサ聖祭を守らなければなりません。」


 私たちはこう言うことは出来ません。「ねぇ、いいですか、変わったとしても、それほど重大だというわけではないのです、私には信仰がちゃんと染み込んでいますから。私は大丈夫です。私が信仰を失う危険はありません」と。

 新しいミサに行き、新しい秘蹟を受けるのに慣れてしまった人々は、少しずつ考え方を変えていると言うことに私たちは気が付いています。

 数年後に、この新しいミサに行っていた人に、つまりこのエキュメニカルなミサに行っていた人に質問してみると、この人がエキュメニカルな精神を学んでしまっていることに気が付くことでしょう。つまり、この人は全ての宗教を同じレベルに置いて、同等に扱うことになっているでしょう。

 彼に「プロテスタントの教えによって、仏教によって、イスラムによって人は救いを得ることが出来るのか?」と尋ねると彼はこう答えるでしょう。「もちろんですとも!全ての宗教はみな良いものです。」 ご覧下さい、彼はこうしてリベラルになってしまったのです、プロテスタントになってしまったのです、つまりカトリックではなくなってしまったのです。

 ただ一つの宗教しかありません。真の宗教は二つはありません。もし私たちの主が天主であるなら、そして天主が一つの宗教、カトリック教を創立したのなら、そのほかの諸宗教というのはあり得ません。そんなことは不可能です。その他の宗教は偽りの宗教です。誤った宗教です。だからこそオッタヴィアーニ枢機卿は第2バチカン公会議の草案に『他宗教を黙認すること (de tolerantia relisiosa)』と言う題を付けたのです。私たちは誤謬が広がるのを防ぐことが出来ないときには、その誤謬を黙認するのです。しかし誤謬を真理と同等のレベルに置くことは出来ません。そうでもなければ宣教精神というものがもはや無くなってしまうでしょう。もしこれらの偽りの宗教らによっても救いを得ることが出来るのなら、何故あえて宣教に行くのでしょうか?宣教に行って何をするのでしょうか?「自分たちが信じている宗教をそのまま信じるように彼らをそっとしておきなさい。彼らはどっちにしてもみな救われるのですから。」と言わなければならなくなってしまいます。そんなことは出来ません。

 教会はそれでは20世紀もの間一体何をしてきたのでしょうか?何故これらの多くの殉教者らがでたのでしょうか?何故彼らは全て宣教中に皆殺しにあったのでしょうか?宣教師たちは時間を無駄に使ったのでしょうか?彼らは自分の血潮と一生をむざむざと無駄にしたのでしょうか?私たちはそのように考えることを受け入れることは出来ません。

 私たちはカトリックとしてとどまらなければなりません。エキュメニズム運動に滑り込むのは非常に危険です。もはやカトリックとは言えない宗教に行くのは非常に危険なことです。

 私は皆さんが全て、私たちの主とカトリック教会の証人となることを、教皇様の証人、カトリックであると言うことの証人となることを熱烈に望みます。それはたとえ私たちが軽蔑され、マスコミに侮辱され、小教区で侮られ、いろいろな教会でバカにされたとしてもです。そんなことはどうでも良いのです。私たちはカトリック教会の証人であり、カトリック教会の本当の子供らであり、童貞聖母マリア様の本当の子供たちであるからです。

(講演終わり)

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2008年3月4日火曜日

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の説教 1988年6月30日エコン (スイス) 司教聖別式の説教にて

アヴェ・マリア!

Archbishop Lefebvre's sermon for the Episcopal Consecration at Econe on June 30, 1988

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 1988年6月30日エコン (スイス) 司教聖別式にてルフェーブル大司教がされた御説教をご紹介します。これを訳して下さったマキシミリアノ岡村さんに心から感謝します。


聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の説教
1988年6月30日エコン (スイス) 司教聖別式の説教にて




親愛なるカストロ・マイヤー司教様、
いとも親愛なる友人、そして兄弟の皆様、

 ご覧ください、私たちは間違いなく歴史的な一つの式典の為ここに集っています。何よりも先ず皆様にいくつかのお知らせをさせてください。

 第一のものは皆様を少し驚かせるでしょう、私自身そうだったからです。昨夜、ベルンの教皇大使館から送られ、教皇様からの嘆願書の入った一枚の封筒を持ったある訪問者がやって来ました。教皇様は私が自由に使えるようにと車をよこしたのです、この車は私を昨夜ローマに連れて行くことになっていたようです。それは私が今日この司教聖別を執行する事ができないようにするためでした。私には行かなければならない理由も場所も伝えられませんでした!このような嘆願のタイミングのよさと知恵をどう判断するかは皆様にお任せいたします。

 この一年間、私は幾日も、それどころか数週間もローマに行きました。教皇様は私が来て謁見するように招いてはくださいませんでした。仮にいくつかの合意がなされたなら、彼に謁見することは私にとってきっと喜ばしい事だったでしょう。ですからここで皆様に情報としておしらせします。私は皆様にこの事実を単純にお伝えするだけです。私自身、教皇大使館からの手紙を通して知るに至った様に。

 それでは、この式典に関する幾つかの指示と、その意義にかんする重要な文書について[お話しします]。

 皆様の中でお持ちになっている方もいらっしゃる司教聖別式小冊子に見られる誓いを、司教となる者たちは既に、私の手において立てました。従って、この誓約、さらには近代主義に反対する宣誓、この宣誓は公教会が司教聖別される者達に必ずすることを命じていたそのままのものです、それから信仰宣言は、もはや行われたということになります。彼らはすでにこれらの宣誓と信仰宣言とを、数日間シエール(Sierre)にて行われていた黙想会の後で私の手の元で済ましています。ですから、この司教聖別式が、信仰に関する審問、つまりカトリック教会が司教に聖別されるべき人々に尋ねる信仰審問の儀式から始まることになりますが、驚かないようにして下さい。

 さらに皆様に知っておいて欲しいことは、聖別式の後、皆様が司教様たちの祝福とその指輪に接吻することをお願い出来るということです。昨日皆様がされたように、叙階された新司祭の両手に接吻する事は公教会内の習慣ではありません。しかし信徒の方々は司教たちからの祝福とその司教指輪に接吻をすることが出来ます。

 最後に、皆様のために、書物やパンフレットなどを入手できるスタンドを準備しました。それらの書物は、この司教聖別式が、一見ローマの意向に反して執行されるかのようなこの聖別式が何故に離教[行為]ではないかをもっと理解する事を助けるのに必要なあらゆる要素が書かれています。私たちは離教者ではありません! 

 もしも、破門宣告が中国の司教たちにたいしてなされたなら、彼らは自らをローマと絶ち、自分を中国政府の配下に置いたからであって、ピオ十二世教皇が何故彼らを破門したのかは容易に理解できるところです。

 私たちにとって、自らローマと離れることなど問題外です。私たちにとって、教会と関係のない政府の元に身を置くことも問題外です。さらには、パルマール・デ・トロヤの司教らがスペインで行ったように、ある種の別個の教会を作り上げるなどということも問題外です。パルマール・デ・トロヤの人々は、教皇さえ選出し、枢機卿団の編成などさえしたのです。

 私たちにとって、このようなことを行うのは全くの問題外です。考えにもありません。ローマから離れるというこの惨めな考えなど私たちには一切ありません!

 その反対に、私たちがこの聖別式を執り行おうとしているのは、私たちのローマへの愛着を表明するためです。

 永遠のローマ、教皇聖下、最近の教皇聖下達に先立つすべての前任の教皇たちへの愛着を表明するためなのです。最近の教皇様たちは、残念ながら第二バチカン公会議以来、カトリック教会とそのカトリック司祭職とを破壊している深刻な誤謬を支持することが自らの義務だとみなしてきているのですが。

 そういうわけで皆様方が自由に入手することが出来るように置かれたこれらのパンフレットなどのなかに、ドイツはマインツ大学で教会法学の学部長、ゲオルグ・マイ教授によってなされたすばらしい論考があります。

 この教授は何故私たちが必要の緊急事態にいるか、つまり皆様の霊魂を助け、皆様を援助する必要性の中に私たちがいるという事を見事に説明しています。私が思いますには、先程の皆様の拍手は、決して世俗的な[喜びの]現れではなく、むしろ皆様の霊的な[喜びの]現れ、霊魂の救いのため、皆様の霊魂に聖主イエズス・キリストの生命を、正統な教義、諸秘蹟、信仰、御ミサの聖なる犠牲を通して、与えるために奉献されている司教や、司祭達を、とうとう獲得するという喜びを示す、霊的表明なのです。

 天国に行くために、皆様はこの聖主イエズス・キリストの御生命が必要です。この聖主イエズス・キリストの御生命は、公会議後の教会の至る所で消えつつあります。彼らはカトリックの道ではない道に従っています。つまり彼らは単に棄教に進んでいるのです。 

 これこそ私たちがこの聖別式を執り行う理由なのです。教皇になろうなどという気は私にはまったくありません! 私は、カトリックの教義を伝え続けているカトリック教会の一司教にすぎません。
 私が思うに、そしてきっとこれはそう遠くない未来のことでしょう、つまり皆様方が私の墓石に聖パウロのこれらの言葉を刻み込むであろう事です。“Tradidi quod et accipi --- 私は受けた事をあなた方に伝えた。そして他の何物でもないのです。

 私はちょうど皆様に一通の手紙を配達する郵便配達人です。私はその手紙、メッセージ、天主の聖言葉を書きませんでした。天主御自らがそれをお書きになったのです。つまり聖主イエズス・キリスト御自身がそれをわたしたちにお与えになったのです。

 私たちに関して言えば、私たちはここにいるこれら親愛なる司祭たちを通して、さらに永遠の信仰を保ちそれを信者達に授けることにより、公教会におけるこの離教の波に抵抗するために選ばれた全ての者を通して、ただそれを後世に伝えたのです。私たちは、善き知らせの単なる伝達者、私たちの聖主イエズス・キリストが私たちにお授けになったこの聖福音の伝達者であり、同様に聖化の手段である聖なる御ミサ、真実の聖なるミサ聖祭、霊的生命を実際に与える真の秘蹟の運搬者にすぎないのです。 

 親愛なる兄弟の皆様、私には自分がこれらすべての教皇達、つまりグレゴリオ十六世から始まって、ピオ九世、レオ十三世、聖ピオ十世、ベネディクト十五世、ピオ九世、ピオ十二世の声が私たちにこういうのを聞いています。

「私たちはあなたに懇願する、あなたは私たちの教え、説教、カトリック信仰をどうしようとしているのか? それを放棄するつもりなのか? 地上からそれが消え去るままにさせておくつもりなのか? どうか、どうか、私たちがあなたに与えてきたこの財宝を守り続けなさい。信者たちを見捨ててはならない! 公教会を見捨ててはならない! 公教会を続けなさい! 実に、公会議以来、過去において断罪されていた事を、現在のローマ当局は、抱擁し公言している。どうやってそんな事が出来るのか? 私たちは、自由主義、共産主義、社会主義、近代主義、シヨン主義を、断罪した。」

 「私たちが断罪したすべての誤謬は、公教会の権威者たちによって、今や宣言され、採用され、支持されている。そのような事があり得るのか? 私たちがあなたに与えたこの教会の聖伝を存続させるためにあなたが何かしないかぎり、全ては消滅してしまうだろう。霊魂たちは失われてしまうだろう。」


 私たちは、今、緊急事態にいることがわかります。私たちは出来ることは見なしてきました。ピオ十二世教皇聖下とそのすべての前任者達の取った態度に立ち戻らなければならないということを、ローマが理解することが出来るように出来るだけの手助けをしてきました。カストロ・マイヤー司教様と私自身とは、ローマに行き、語り、何度もローマに手紙を送りました。私たちはこれらの語りかけを通して、これらの全ての手段を通して、ローマに理解してもらうようにし続けてきました。あの公会議以来、さらにアジョルナメント以来、公教会で起こって来ているこの変革は、カトリック的ではなく、永久不変の教義と一致しない、ということをローマが理解するようにと。このエキュメ二ズムと、これらのあらゆる誤謬、この司教団体主義、これら全ては公教会の信仰に反していて、公教会破壊の工程内にあるものであるということを。

 だから、本日のこの司教聖別の行為によって、私たちはこれら諸教皇の招きに従順に従い、結果として天主の呼びかけに従順であることになると確信しています、何故なら彼らが公教会内で天主の代理者であるからです。

「では大司教様は何故、或る程度は成功の見込みがあったと思われるこれらの討論を止めてしまったのですか?」

 はい、正に、私が議定書(プロトコール)にサインをしたのと同時に、ラッツィンガー枢機卿の使者が私に一通のメモをよこし、その中には、私が犯した誤謬について謝罪するようにと要求する旨が記されていたからです。

 「私が誤謬の中にいる」ということは、「私が誤謬を教えている」ということは、このメモに私がサインするように送ってきた人々の頭の中では、私が真理に連れ戻されなければならない、ということを意味するのは明らかです。「私が犯した誤謬を認める」ということは、「もしあなたが自らの過ちを認めるならば、我々はあなたが真理に立ち返るのを助けてあげよう」という意味です。

 それでは、彼らにとってこの真理とは一体何なのでしょうか? それは、第2バチカン公会議の真理、公会議後の教会の真理以外の何ものでもありません。

 従って、バチカンにとって今日存在している唯一の真理とは、公会議の真理、公会議の精神、アシジの精神である事は明らかです。これが今日の真理なのです。しかしこのようなことは、私たちとは何の関係もありません!


 だからこそ、聖伝を無におとしめ、第二バチカン公会議の精神とアシジの精神とに世界を引き込もうとする現在のローマ当局の強い意志を考えた上で、私たちは身を退かせ、このまま続行することは出来ない、と言う事を選んだのです。続けることは不可能です。私たちはまぎれもなく私たちを導いたことになろうローマ委員会の代表であるラッツィンガ―枢機卿様の権威の下にいた事でしょう。私たちは彼の手中に身を置いていました、そして結果的に私たちをして公会議の精神とアシジの精神と引き吊り込もうと望んでいる人々の手に自らを委ねていたでした。これは単純に不可能でした。 

 そういうわけで私は教皇聖下に一通の手紙を送りました。そこで教皇様にこうはっきりと申し上げました。

「私たちは、教皇様との全き交わりのうちにいたい、という全ての望みにもかかわらず、[この精神とこの提議を受け入れる事は]どうしてもできません。現在ローマにおいて全てを支配しているこの新しい精神、教皇様が私たちに伝えたいと願っているこの新しい精神が与えられるかぎり、私たちは聖伝において続けることを選びます。聖伝がローマでその地位を再び獲得するのを待ちながら、ローマ当局において、彼らの心の中で、聖伝がその元の場所を再び取り戻るのを待ちながら、私たちは聖伝を守るほうを取ります」と。これは天主様があらかじめご存じの期間、長く続くでしょう。 

 いつ聖伝がローマでその権利を再び取り戻すか、という時を知るのは私の役割ではありません。しかし、私が「生き残り作戦」聖伝の生き残り作戦と名付け、それをする手段を提供するのは、私の義務であると考えています。本日、この日は、生き残り作戦の日です。

 もし私たちがサインをしてしまった同意に従って存続し、それを実践に移すことによって、私がローマとこの取引をしていたとしたら、私は「自殺作戦 (Operation Suicide)」をしていたことになったでしょう。

 選択の余地はありませんでした。私たちは生き続けなければなりません! そういうわけで本日、これらの司教聖別によって、私は、聖伝を、つまりカトリック教会を生きたままに保ち続けているということを確信します。

カトリック聖伝の生き残りのために聖別される聖ピオ十世会の四名の司教たち

 親愛なる兄弟の皆様、あなたたちは司教なくして司祭が存在し得ないことを良くご存知です。天主が私をお呼びになる時 ―― これは間もなくであろうことは疑えないのですが ――、これらの神学生達は誰から叙階の秘蹟を授かるのでしょうか? その疑わしい意向のため、疑わしい諸秘蹟を授ける公会議後の司教たちからですか? これは不可能です。

 第二バチカン公会議に至るまで、二十世紀の間公教会が常に叙階の秘蹟を授与してきたのと同じやり方で、聖伝と諸秘蹟を真に守ってきた司教達とは一体誰なのでしょうか? カストロ・マイヤー司教様と私自身です。私は秘蹟を変えることは出来ません。変えることができないからです。

 従って、多くの神学生たちが私たちに信頼を置き、彼らは、ここには公教会の継続、聖伝の継続があると感じたのです。そして彼らは、司祭職への真の叙階を授かる為、カルワリオの真の犠牲、御ミサの真の犠牲を捧げ、そして真の秘蹟、真の教義、真の要理を皆様方に授ける為に、直面したあらゆる困難にもかかわらず私たちの神学校に来たのです。これこそが、これらの神学校の目的です。

 ですから私は、良心にかけて、これらの神学生たちを孤児にすることは出来ません。同様に、将来のために何も提供することなく死んで皆様方を孤児にする事も出来ません。それは出来ない事です。そのようなことは、私の義務に反するでしょう。

カトリック聖伝の生き残りのために聖別される聖ピオ十世会の四名の司教たち

 それ故に、私たちは天主の御恵みによって、司教の職務を果たし、皆様の子供達に堅信と、いくつもある神学校でより容易に叙階を授ける事のできるために、適した環境と職務にいると同時に、最も相応しいと思われる司祭たちを私たちの会から選び出しました。従って、天主の御恵みにより、私たち、すなわちカストロ・マイヤー司教様と私自身とは、これらの聖別によって、聖伝に継続の手段を与える事になり、両親たち、祖父母たち、祖先たちの公教会内に留まることを望むカトリック信者達に対して、その手段を授ける事になるでしょう。

 私たちの祖先たちは美しい祭壇をもつ諸々の教会を建てました。しかしながらこれらの祭壇は度々破壊され、テーブルによって取り替えられました。こうすることによって、公教会の中心であり司祭職の目的であるミサ聖祭の犠牲に関して公会議以来生じてきた急進的な変革を表明しているのです。この聖別式の遂行において私たちを支持するためにこれほどの大人数で来てくださったことに対し私たちは皆様に感謝を申し上げます。 


カトリック聖伝の生き残りのために聖別される聖ピオ十世会の四名の司教たち


 私たちは祝された童貞聖マリアに目を向けます。親愛なる兄弟の皆様、皆様が良くご存知のように、ある日「ペトロの座は邪悪の座になるでしょう」と啓示するレオ十三世の予言的な幻視について知らされているに違いありません。レオ十三世教皇は、「レオ13世による悪魔祓い」と呼ばれる悪魔祓いの祈りの中でこう言いました。

それは今日、起こっているのでしょうか? それとも、明日の話でしょうか? 私にはわかりません。しかしいずれにしても、それは予告されてきているのです。邪悪 (Iniquity) とは全く単純に誤謬のことかも知れません。誤謬は邪悪ですから。つまり、永久不変の信仰、カトリック信仰を、もはや宣言しないという事は、重大な誤謬なのです。もしもかつて何らかの邪悪があったとするならば、これがそれです。そして私は、公教会の中でアシジ以上に重大な邪悪は決して存在したことがなかったと本当に信じています。それは天主の十戒の第一戒と使徒信経の第一箇条に反しています。あのような事が、公教会の中、全教会の目前で起こりえたなどという事は信じられないことです。何と屈辱的なことでしょうか! 私たちは、未だかつてこれほどまでの屈辱をこうむった事はありません! ローマにおける現状について皆様方に情報を差し上げるべく特別に出版されたル・ルゥー (Le Roux) 神学生の書いた小冊子の中に、皆様はこの件についてのすべてを見出すでしょう。 

 このような事柄を言われたのは善き教皇レオ十三世だけではなく、我らの聖母も同様に予言した事なのです。ちょうど最近、コロンビアのボゴタの修道院を受け持つ司祭が、「良き出来事の聖母」の御出現に関する一冊の本を持って来てくれました。この聖母マリア様に、エクアドルのキト (Quito) にあるひとつの大聖堂は献堂されています。これらの啓示は、トリエント公会議の後間もなく一人の修道女が受けたもので、お分かりのように数世紀前の事であります。この御出現は既にローマと教会当局によって認可され、一つの壮大な教会が聖母マリア様のために建立されました。その内部で、エクアドルの信者たちはその御顔が奇跡的に作られた、一枚の聖母の御絵を大いなる信心をもって崇敬しているのです。それを描いた画家はこの聖母の御顔をいざ彩色する過程で、それが奇跡的に仕上げられているのを発見したという事です。さらに聖母は19世紀と20世紀の大半において誤謬が、公教会を破滅的状態に陥れながら、聖なる公教会の中でますますはびこるだろうと予言されたのです。道徳は退廃し信仰は消えて無くなるだろうと。今日それが起こっているのを見ないほうが不可能といえます。

 この御出現についてお話しを続けることをお許し下さい。しかし聖母は、真の司祭達を養成することにより司祭職を救いながら、この棄教と不敬虔の波に真っ向から立ち向かうという一人の高位聖職者について言及しています。この予言が私について言及しているとは言いません。皆様がご自身で自らの結論を出してくださって結構です。この数行を読んでいた時、私は呆然となりましたが、それを否む事が出来ませんでした。なぜなら、それはこの御出現の文書局の中に記録され保管されていることだからです。

 もちろん皆様方はラ・サレットの聖母の御出現を良くご存知であり、そこで彼女はローマが信仰を失い、ローマで一つの「陰り(eclipse)」があるだろうことを言及しています。一つの「陰り」、これをもって聖母が言わんとすることに気づいてください。 

 そして最後に、私たちに馴染みの深いファティマの秘密、ファティマの第三の秘密は、ローマを侵略し、公会議以降世界を覆ってしまったこの暗黒について言及しているに違いありません。さらに、ヨハネ23世がその秘密を公表しない方がよいと判断したことは、疑いなくきっとこれが理由であり、おそらく彼が実行不可能と感じた手段、例えば公会議を見込んで、さらに公会議のために彼が着手し始めた方針を完全に変更することなどの対策を講じる必要があったからでしょう。 

 私たちが頼ることのできる事実がある、と思います。

カトリック教会の聖伝を続けるために聖別された聖ピオ十世会の司教たち

 私たちは天主の御摂理の中に自らを置きます。私たちは天主が御自分の行っていることをご存知であると確信しています。ガニョン枢機卿様は、聖職停止の十二年後、私たちを訪問しました。十二年もの間、私たちはローマとの交わりの外にいるものとして、教皇様に逆らう反逆者にして反対者として語られてから、十二年後に、彼の訪問がなされたのです。ガニョン枢機卿ご自身、私たちが行っている事がまさに公教会の復興に必要であることをお認めになりました。さらに枢機卿様は、1987年12月8日に、私達の神学生たちの聖ピオ十世会への誓約更新のために私が捧げた御ミサに、大司祭として (pontifically) に参列さえしました。私は聖職停止のはずだったのに、です。それにもかかわらず、事実上、私は教会法上問題ないとされたのです。教皇使節たちは、私達が良くやったとおっしゃって下さいました。つまり、私達が抵抗して、良くやった、ということです!

The four new bishops after receiving their crosiers and being enthroned

 私は今も同じ状況に私達がいることを確信しています。私達の執行している行為は、見かけ上 ---- そして残念ながらマス・メディアは良い意味で私達を支持してくれないでしょう。新聞の見出しは、もちろん、「離教」「破門!」などと書きたいだけ書くでしょう。

 しかし、私達は確信しています。私達が受けるすべての非難、罰則は、全くの無効、絶対的に無効で何の意味をも持たない、と。それについて私達は無視をするつもりです。

 ちょうど私があの聖職停止を無視したように、しかし、最後には教会と進歩的な聖職者達によって良くやったと褒められたように、同様に数年後、--- 私には何年後になるかはわかりません。ただ天主のみ聖伝がローマにおいてその権利を得るために何年かかるであろうかを知っているのですが--- 私達は、ついにはローマ当局によって抱擁される日が来るでしょう。ローマ当局は、その日、より大いなる天主の栄光と霊魂の救いのために、私達の神学校、家族、市民社会、私たちの祖国、そして観想大修道院と様々な修道院において、信仰を維持したことについて感謝することでしょう。

聖父と聖子と聖霊の御名によりて。 アーメン       


カトリック教会の聖伝の生き残りのために聖別された司教たち


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2008年3月1日土曜日

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の説教 1979年9月23日司祭五〇周年記念ミサ、パリ(フランス ) にて

アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 1979年9月23日にルフェーブル大司教様がパリで祝った司祭五〇周年記念のミサ聖祭の御説教をご紹介します。

Sermon du jubile sacerdotal - Paris, le 23 septembre 1979

英語訳 JUBILEE SERMON of Archbishop Lefebvre on the occasion of his sacerdotal jubilee, September 23, 1979


親愛なる兄弟の皆様、

 この美しい五〇周年の儀式の際に皆さんに申し上げたい言葉を言い始める前に、この素晴らしい催しを成功させた全ての方々に感謝するのを許して下さい。

 個人的にはエコンの神学校の祭壇の周りで、私の司祭叙階記念をひっそりと個人的に祝おうと考えていました。しかしサン・ニコラ・ドゥ・シャルドネ教会の親愛なる神父様たちと私の周りにいる愛する司祭たちが、何度も何度もこの司祭叙階五〇周年の機会に私の感謝と祈りに一致したい全ての人びとがそうすることができるようにと私を招いたので、私はそれを拒むことが出来ませんでした。そこで私たちは今日、こんなにも多くの人々が集まって、この司祭叙階記念にいろいろなところから、アメリカ、ヨーロッパのまだ自由な国々から、私たちはここに集ったわけです。

 それではこの集いを、この集会を、この儀式を、私はどう定義したらよいでしょうか? それはこうです。カトリック司祭職とカトリックミサ聖祭を信ずる皆さんの信仰の献上です。


Sermon du jubile sacerdotal - Paris, le 23 septembre 1979

 皆さんが集まったのはこのためであると私は本当にそう考えています。皆さんはカトリック教会に対する、そしてその最も美しい宝物に対する、天主が人間になさり給うた最も崇高な賜物、つまり司祭職といけにえのための司祭職、私たちの祭壇で今も続く私たちの主のいけにえのための司祭職に対する愛着を表すためにここに集まりました。

 これが皆さんがここに集まった理由です。今日、世界中の至る所からやはり来たこれらの全ての親愛なる司祭たちに囲まれて、私たちがここにいる理由です。これらの司祭たちはもしも今日が主日ではなかったら、もっと多く集まることが出来たでしょう。何故なら、これらは自分の持ち場でミサ聖祭を捧げる義務を果たさなければならないからです。しかし心では私たちと共にいる、と私たちに言ってくれました。

 もし許して下さるのなら、私はこの半世紀の存在の間私がその証人となった幾つかのできごとを思い返したいと思います。それはカトリック教会のミサ聖祭が私たちの生において、司祭の生において、司教の生において、教会の生命において、どれ程重要であるかということを示すためです。

 ローマのフランス人神学校サンタキアラの神学生であった私たちは、典礼儀式を愛するように教えられました。私は神学生時代、式長である特権を得ました。私たちが「大式長」と呼びならわしたこの役目は、昔オタン教区の司教であったルブラン司教(Bishop Lucien-Sidroine Lebrun)や、今でもリヨン教区の補佐司教であるアンセル司教(Bishop Alfred-Jean-Felix Ancel)などが神学生時代に果たした責務です。私はそこで、典礼に関する知識で有名であった敬愛するエギ神父様(Pere Henri HAEGY)の指導の元で、この大式長でした。

 そして私たちは祭壇を準備することを愛し、典礼儀式の準備を愛していました。荘厳な大儀式が私たちの祭壇の周りで執り行われるその日の前日などは私たちは大喜びでした。私たちは神学生として、祭壇を愛することを学んだのです。

"Domine dilexi decorem domus tuae
et gloriam habitationis tuae."

 この詩篇の一節は、(ミサの時)祭壇で私たちが手を洗うときに唱える言葉です。

 その通りです。「主よ、われは御身の家である神殿の輝く装飾を愛せり、われは御身の住まいの栄光を愛せり。」

 これが、敬愛するル・フロック神父様の素晴らしい指導の元で、ローマのフランス人神学校で私たちに教えてくれたことです。ル・フロック神父様は愛された司祭で、歴代の教皇様の回勅を解説することで、その当時のできごとをハッキリ見ることを教えてくれました。

 1929年9月21日、リールのロワヤル通りにある聖心聖堂でリエナール司教様(Achille Cardinal Lienart)によって司祭として叙階され、私はその少し後、つまり2年後に、既にガボンにいた兄と一緒に働くために宣教に行きました。そしてそこガボンで、私はミサが何であるかを知り始めたのです。

 確かに、勉学によって私たちの信仰のこの偉大な神秘が何であるかを私は知っていました。しかしその全ての価値、その効果、その深さは理解していませんでした。そのことは、このアフリカで、特に宣教師としてまず神学校で次に現地の人々と共にアフリカの人々のまっただ中でジャングルで過ごした十三年のガボンで、日を経るごとに、年を経るごとに体験により知っていったのです。

 その地で私はこの目で見ました。はい、その通りです。ミサ聖祭の聖寵がなし得ることを見ました。私たちのカテキスト(公教要理を教える教師たちのこと)の幾人かがそうであったこの聖なる霊魂たちの中にその効果を見ました。洗礼の恵みによって変化を受けたもと異教徒達の霊魂は、ミサ聖祭に与ることによって、御聖体によって、変わっていったのです。これらの霊魂たちは十字架のいけにえの神秘を理解し、十字架の苦しみにおいて私たちの主イエズス・キリストと一致していたのです。彼らは自分の犠牲と苦しみを私たちの主イエズス・キリストと共に捧げていました。彼らはキリスト者として生きていました。

 私は名前を挙げることが出来ます。ンジョレのポール・オッシマ(Paul Ossima, de Ndjole)、ランバレネのユジェヌ・ンドン(Eugene Ndong de Lambarene)、ドンギラのマルセル・ムバレ (Marcel Mebale de Donguila)、そしてセネガル人の名前を挙げて続ければ、フォレスチエ氏(Monsieur Forster)、彼はセネガルの会計長であり、このデリケートで重要な職務をするように、同僚から、そしてイスラム教徒たちからも選ばれたのです。何故なら彼の誠実さと潔癖さのためです。

 これがミサ聖祭の恵みが生み出した人々です。毎日ミサ聖祭に与り、熱烈に御聖体拝領をし、彼らは模範となり、周りにいる人々にとって光となった人々です。この他にも聖寵によって変化を受けた多くのキリスト者の男女がいます。

 私はキリスト教となったもともと異教の村が、霊的に超自然的に変わっていったのみならず、肉体的にも社会的にも経済的にも政治的にも変わっていったのを見ることが出来ました。何故ならこれらの人々は、以前は異教徒でしたが、自分の義務を果たさなければならないことを自覚し、試練にもかかわらず、いろいろな犠牲があったにもかかわらず、自分の約束を特に婚姻の約束を守る必要性を自覚していったのです。その時、村は少しずつ聖寵の影響の下、ミサ聖祭のいけにえの恵みの影響を受けて変わっていきました。これらの村はみながみな自分の聖堂を建てることを望みました。これらの村はみな司祭の訪問を待ち望んでいました。宣教師の訪問を!彼らはミサ聖祭に与ることが出来るように、罪の告白をして御聖体拝領することが出来るように、司祭が来るのを待ち望んでいたのです。
 多くの霊魂は天主様に捧げられもしました。修道士、修道女、司祭として自分を天主様に捧げ、天主様に聖別したのです。これがミサ聖祭の実りです。

 何故でしょうか?

 私たちはこの変化の深い動機を少し調べてみる必要があります。その答えは「犠牲」です。

 いけにえ・犠牲という概念は、深くキリスト教的な概念であり、深くカトリック的な概念です。天主御自身である私たちの主イエズス・キリストが私たちと同じ肉体を取り私たちに「もしも救われたいのなら、自分の十字架を担って私に従え」と言われたのなら、そして私たちの主が十字架の上での死という模範を私たちに与えたのなら、御自分の御血を流されたのなら、私たちの生活はいけにえ・犠牲なしに過ごすことはできません。天主の哀れな被造物であり罪人に過ぎない私たちが、私たちの主の後に従わないなどと、私たちの主の苦しみと十字架の後に従わないなどと、敢えて言うことが出来るでしょうか。これがキリスト教文明の全神秘です。これがキリスト教文明の、カトリック文明の根本にあるものです。

 つまり、人生における、日常生活における犠牲を理解すること、キリスト教的な苦しみを知性的に理解すること、苦しみを悪としてではなく、たえることのできない苦痛としてではなく考えること、私たちの主イエズス・キリストの苦しみと共に自分の苦しみと病苦を分かち合うこと、十字架を見つめながら、カルワリオにおける私たちの主イエズス・キリストの御受難の続きであるミサ聖祭に与りながらそう理解することです。

人生における、日常生活における犠牲を理解すること、キリスト教的な苦しみを知性的に理解すること、苦しみを悪としてではなく、たえることのできない苦痛としてではなく考えること、私たちの主イエズス・キリストの苦しみと共に自分の苦しみと病苦を分かち合うこと、十字架を見つめながら、カルワリオにおける私たちの主イエズス・キリストの御受難の続きであるミサ聖祭に与りながらそう理解すること

 苦しみをそのように正しく理解すると、その時苦悩は喜びになります。苦痛は宝になります。何故なら私たちの主の苦しみと一致したこれらの苦しみ、殉教者や全ての諸聖人、全てのカトリック信徒、この世で苦しむ全てのカトリック信者と一致した苦しみ、私たちの主の十字架の苦しみと一致した苦しみは、説明することの出来ない宝、えも言われない宝となるからです。苦しみは霊魂の回心のために、私たちの霊魂の救いのために特別の効果を持つことになります。

 キリスト教の聖なる多くの霊魂たちは、苦しみたいという同じ望みを持っていました。彼らは私たちの主の十字架ともっともっと一致するために苦しむことを望んでいたのです。これがキリスト教文明です。

 聖性のために苦しむ者は、幸いなるかな、
 貧しいものは、幸いなるかな、
 柔和なものは、幸いなるかな、
 憐れみ深いものは、幸いなるかな、
 平和をもたらすものは、幸いなるかな、

 これが、十字架が私たちに教えてくれるものです。これが私たちの主イエズス・キリストが私たちに十字架の上から教えてくれることです。

 つい最近まで異教に染まっていたこれらの国々に浸透したキリスト教文明は、彼らを変えていき、カトリックの首長として自分を与えることを望むまでに成長しました。私自身、これらの国々のカトリックの首長に援助し、知ることが出来ました。カトリック国民はカトリックの首長を望みます。それは自分たちがその政府と国の全ての法律を私たちの主イエズス・キリストの掟と天主の十戒に従わせるためです。

 もしもフランスがあの当時、カトリックと言われていたフランスが本当に自分の持っていたカトリック勢力としての役割を果たしていたら、これらの国々の信仰において、別のしかたで支援していたことでしょう。もしもフランスがカトリック信仰においてこれらの国々を支援していたなら、これらの国々は今のように共産主義に脅かされていることはなかったでしょう。もしもそうであったら、アフリカは今のようなアフリカではなかったでしょう。

 (今のアフリカの苦しみは)アフリカの人々自身のせいというわけではありません。むしろアフリカの諸民族に深く根を下ろしていたキリスト教信仰を活用することを知らなかった植民国家の責任です。それを知っていたら、信仰を維持し共産主義を追放するために助けるべきであったこれらの国々にたいして兄弟的な影響力を持ち続けるために力があったでしょう。

 もしも今、私たちの眼差しを歴史に向けると、私が今しがた言ったことはコンスタンティノ皇帝の後の始めの数世紀に私たちの国々で起こったことでした。私たちはカトリックに改宗しました。私たちの先祖はカトリックとなりました。国々の首長たちは回心しました。数世紀の長きにわたって彼ら王たちは、私たちの主イエズス・キリストに自分の国を捧げたのです。彼らは自分の国をイエズス・キリストの十字架に従わせたのです。聖母マリア様が自分たちの国の元后(女王)であることを望んだのです。

 英国王であった聖エドワルドの素晴らしい手紙を読むことが出来ます。またフランス王であった聖ルイ、ゲルマンの王であった聖ヘンリコ、ハンガリーの聖エリザベト、また全てこれらの聖なる王の書いた文章を読むことが出来ます。彼らは私たちカトリックの国の頭であり、キリスト教世界を作り上げたのでした。

 フランス王であった聖ルイは、ミサ聖祭に対する何と大きな信仰を持っていたことでしょうか! 彼は毎日二回ミサに与っていました。王が旅をしている間でも、ミサの聖変化の時に教会の鐘が鳴るのを聞くと、馬から下りたり馬車から降りて跪いたのです。そしてその瞬間になされる聖変化と一致していたのです。これがカトリック文明でした。ああ、私たちは何と遠くにいることでしょうか。今では遙か遠くになってしまいました!

 アフリカと私たちの歴史、特に私たちのフランスの歴史におけるキリスト教文明のこれらの描写の後で私たちが思い起こすべきもう一つの出来事は、教会に起きた最近の出来事、大きな出来事です。つまり第二バチカン公会議という出来事です。

 私たちは教会の敵はカトリックのミサ聖祭の価値をよく知っている、もしかしたら私たちよりもよく知っているということを認めなければなりません。このことについて一つの詩が作れました。その詩の中で、サタンが言う言葉があります。それによるとサタンは、一つのミサ、本当のカトリックのミサが捧げられるたびに震え上がると言うのです。何故ならミサは十字架を思い出させ、サタンは十字架によって敗北を喫したとよく知っているからです。そこで教会の敵、いろいろなセクトで冒涜的なミサをする人々k共産主義者自身でさえも、一つのミサの価値が何であるか、カトリックのミサがどれ程の力を持っているかをよく知っていると明らかになります。

 最近、ポーランドで共産党、礼拝監視員は、古いミサを捧げるポーランド人司祭を監視しているが、新しいミサをする司祭には自由を与えている、彼らは古いミサ、永遠のミサをたてる司祭を迫害していると私に教えてくれた人がいます。外国人に対しては政府はどのミサでも自由にさせています。それは自由があるという印象を与えるためです。しかしポーランド人司祭に関しては、聖伝を守ろうとするならば迫害をします。

 私は最近、パックス(PAX)に関する公文書を読みました。この文書は、ウィンスジンスキー枢機卿(Cardinal Wyszynski)の名前で1963年6月に教皇大使を通して伝えられたものです。この文書によると「一般に私たちには自由があると思われている、私たちに自由があると人びとに信じさせようとしている。しかし事実は、共産主義政府に追従するパックスに連なる司祭たちが、この「自由」という噂を拡げているだけだ。何故なら彼らは自分の出版局を持ち、フランスの進歩的マスメディアも彼らの見方だからだ。しかしそれは真実ではない。私たちには自由がない。」

 ウィンスジンスキー枢機卿(Stefan Cardinal Wyszynski)は詳細な点を与えてくれています。それによると共産主義者たちによって組織された青少年のキャンプでは、主日に子供達は鉄条線の中に入れられてミサに与ることが出来ないようにされるそうです。またその報告によると、カトリック司祭によって組織された夏休みのコロニーでは、子供達がミサに与るかどうかヘリコプターで監視するそうです。

 一体何故? 何故そこまでして子供達がミサに与らないように監視する必要があるのでしょうか? 何故なら彼らはミサが本質的に反共産主義的であると知っているからです。ミサはそうでないわけにはいきません。何故なら、次の理由があるからです。共産主義とは何でしょうか? 共産主義とは、すべてが共産党のためであり、全ては革命のためです。ところがミサは全てが天主のためです。その他のためではありません。全て天主のためです。

 これがカトリックのミサが何かということです。カトリック・ミサは党のプログラムに対立しているのです。そのプログラムとはサタン的なプログラムです。これがミサとは何か、いけにえとは何かということの深い理由です。

 皆さんもよく知っている通り、私たちには全て試練があります。私たちは全て人生において、私たちの存在において困難を感じています。私たちは何故苦しむのかその理由を知る必要があります。何故この試練があるのか、何故この苦しみがあるのか、何故このカトリック信者が、何故この病の床に俯せる人たちが苦しんでいるのか? 何故病院は病者で溢れているのか? 何故?

 キリスト者はこう答えます。この苦しみは、聖なる祭壇において自分の苦しみを私たちの主イエズス・キリストの苦しみと一致させるためである、と。自分の苦しみを聖なる祭壇で一致させそうすることによって私たちの主イエズス・キリストの贖いの業に参与するため、私と霊魂たちのために天国の救いの功徳を積むため、と。

 ところが第二バチカン公会議に教会の敵が侵入しました。彼らがねらっていた最初の標的はある意味で何らかのしかたでミサ聖祭を崩壊させ打ち崩すことでした。

 皆さんはマイケル・デイヴィスさんの本を読むことが出来ます。彼はイギリスのカトリック信者であり、第二バチカン公会議の典礼改革が正にクランマーの時代に起きたこと(註:クランマーが英国聖公会の新しい典礼を作った)とどのように同じであるかということを、イギリスのプロテスタント主義の誕生と全く同じであることを示すために素晴らしい本を書きました。

 もしも(聖公会での)典礼の変化の歴史を読むと、またルターのした典礼の改革を見ると、正に全く同じ工程であり、同じやり方が取られています。つまり外見はまだよく見える、見かけはカトリックに残されたゆっくりとした変化です。ミサからいけにえの性格を取り除き、私たちの主イエズス・キリストの御血による罪の贖いという性格を取り除き、私たちの主イエズス・キリスト御自身といういけにえによる贖いという性格を捨て去りました。そしてミサを単なる集会に変え、司祭が座長となる集会にしてしまいました。しかしミサはそのようなものではありません。

 (新しいミサでは)十字架がもはや凱旋していないのですが、これは驚くに当たりません。何故ならいけにえが強調されていないのですから。ですから、人々がもはや自分の生活のスタンダードを上げ、お金をかき集め、この世の富や快楽や快適さ便利さだけを追求する用になってしまっているとしても、いけにえの意味を失ってしまったとしても驚くに値しません。

 私たちは何をしなければならないのでしょうか?私の愛する兄弟の皆様、もしも私たちがミサ聖祭のこの偉大な神秘をこのように深めるとしたら、何をすべきでしょうか。よく聞いて下さい。私はこう言うことが出来ると思います。私たちは、ミサの聖なるいけにえに寄りかかる十字軍、私たちの主イエズス・キリストの御血に頼む十字軍を起こさなければなりません。ミサ聖祭という、この誰も打ち勝つことが出来ない岩、この尽きることを知らない恵みの泉に寄りかかる十字軍です。

 このことは私たちは毎日のように体験しています。皆さんが今ここにいるのは、何故なら皆さんはミサ聖祭を愛しているからです。ここにいる神学生たちは、エコンの神学校、アメリカの神学校、ドイツの神学校に在籍しています。彼らは神学校にやってきました。何故でしょうか? 彼らが神学校に入学したのは、ミサ聖祭のためです。聖寵の泉であるミサ聖祭、聖霊の源であるミサ聖祭、キリスト教文明の源泉であるミサ聖祭、永遠のミサ聖祭のためです。そして司祭とはまさにそのようなものです。

 私たちは、正しく昔ながらのいけにえという概念によった十字軍を起こすべきです。それはもう一度キリスト教世界を作るためです。教会がそう望んでいるように、教会がいつも同じ原理を持って打ち立てたように、キリスト教世界をまた創るためです。この原理とは、昔と同じミサ聖祭であり、昔と同じ同じ秘跡であり、同じ公教要理、同じ聖書です。

 私たちはキリスト教世界を再創造しなければなりません。愛する兄弟の皆様、それはあなたたちです。あなたたちこそが地の塩であり、世の光です。私たちの主イエズス・キリストはあなたたちにこそこう言われるのです。「私の血潮の実りを失うなかれ、私のいけにえを捨て去るなかれ」と。

 童貞聖マリアも、十字架のすぐ側に佇み、あなたたちに同じことを言っています。刃にて差し貫かれた童貞聖マリアの御心は苦しみと悲しみに満ちています。それと同時に天主なる御子のいけにえと一致する喜びで満ちています。この童貞聖マリアもあなたたちにこう言われます。「キリスト者たりましょう。カトリックたりましょう」と。

 世俗的な考えに引き流されないようにしましょう。私たちをして罪へとそして地獄へと流すこの世で流行っている思潮に流されないように。もしも私たちが天国に行こうと望むなら、私たちは私たちの主イエズス・キリストに従わなければなりません。私たちは自分の十字架を担い、私たちの主イエズス・キリストの後に従い、十字架において、苦しみにおいて、いけにえにおいて私たちの主に倣わなければなりません。

 そこで私は青少年に、このホールに集う青年達に求めます。そして司祭たちには彼らにかくも美しく、かくも偉大な召命ということを説明してくれるように求めます。彼らが選ぶことの出来る全ての召命を、それが司祭であれ、修道者であれ、修道女であれ、結婚生活であれ、彼らがよく選ぶことが出来るように。

 婚姻の秘跡による結婚は、私たちの主イエズス・キリストにおける結婚であり、イエズス・キリストの御血における婚姻です。彼らは私たちの主イエズス・キリストの聖寵の元に結ばれるのです。願わくは彼らが婚姻の偉大さを理解し、純潔と貞潔と祈りと考察とによってふさわしく婚姻の準備をするように。願わくは彼らがこの世を騒がす全ての情念・欲情によって流されないように。真の理想を追求する青年達の十字軍です。

 またキリスト教家庭の十字軍を起こすべきです。ここにいるキリスト教家族たちよ、あなたたちの家庭をイエズス・キリストの聖心に奉献して下さい。聖母の汚れ無き御心に奉献しなさい。家族で祈りなさい。おお、皆さんの家族の中でどれ程多くの家庭がいつも家族で祈っているかを知っています。しかしもっともっと多くの家庭が熱心に一緒に祈るようにしなさい。私たちの主イエズス・キリストがあなたたちの家庭を本当に統治しますように!

 お願いです。子供達があなたたちの家庭に来ることを妨げる全てを遠ざけて下さい。天主様があなたたちの家庭になしたもう賜物中で、沢山の子供達より美しい賜物はありません。子宝にみちた家庭を築いて下さい。子供の多い家庭とは、カトリック教会の栄光です。カナダでも、オランダでも、スイスでも、フランスでもそうでした。世界中どこでも子供の多い家庭は、教会の喜びであり教会の繁栄でした。

 子供が多ければ多いほどそれだけ天国に行く人々の数が増えると言うことです。お願いです。天主様の賜物を制限しないで下さい。家庭を崩壊させ健康を害し家族を壊し離婚へと挑発させるおぞましいスローガンに耳を貸さないで下さい。

 この困難に満ちた時代に、都会の中で、その中で私たちが生きているこの有毒な環境において、出来るならば大地に戻って下さい。大地は健全であり、大自然は天主様を知ることを教えてくれます。大地は性格のバランスを取り、子供達が労働するように励ましてくれます。

 そしてもしも必要ならば、あなたたちが自分の子供達に自分で学校を建ててあげて下さい。もしも学校が子供達を腐敗させるなら、あなたたちは何をするつもりですか?子供達をそのような腐らせる人たちの元に預けるつもりですか? 学校で怖ろしい性の実践を教える人たちに元に? それがブラザーやシスターの経営するカトリック校であっても、そこで正に罪を犯すことを教えられるところに? 実際問題に、子供達に性教育を施すところは、年端のいかない子供達を既に腐らせてしまうことです。あなたたちはそれを援助するのですか?

 それは出来ません。あなたたちの子供達がむしろ貧しい方が、罪を犯すよりもましです。皆さんの子供達がこの世が持つ見せかけの科学から遠ざかっている方がましです。それよりも、彼らがよい子供達であるように、キリスト教的な子供達であるように、カトリックの子供達であり、聖なる宗教を愛する子供達、祈り働くことを愛する子供達であるように、天主様がお作りになった大自然を愛する子供達であるように。

 最後に家族の家長たちの十字軍を起こさなければなりません。家長であるあなたたちは、あなたたちの祖国において重大な責任を担っています。あなたたちは、祖国が社会主義や共産主義に侵略されるのを見過ごす権利はありません。あなたたちはそうすることが出来ません。さもなければあなたたちはもはやカトリックではありません。

 あなたたちは、カトリックの市長、カトリックの代議士が出るように、そしてフランスがついにカトリックの国になるように、選挙の時に戦わなければなりません。これは「政治」をすることではありません。これは良い政治をすることです。つまり聖人達がしたように、アッティラに対立した教皇様たちが過去したように、聖レミジオがフランク王クローヴィスを回心させたように、聖ジャンヌ・ダルクがフランスをプロテスタント主義から救ったように、聖なる政治をすることです。もしもジャンヌ・ダルクがフランスに出なかったなら、私たちはみなプロテスタントになってしまっていたことでしょう。フランスをカトリックとして保つために、私たちの主イエズス・キリストはジャンヌ・ダルクという17,18歳の子どもを輩出させ、イギリス人をフランスの外に追い出したのです。これも、聖なる政治です。

 そうです。私たちはこの政治を求めます。私たちは私たちの主イエズス・キリストが統治することを望みます。皆さんは先ほどこう歌っていました。"Christus vincit, Christus regnat, Christus imperat!". キリストは勝利したもう、キリストは統治したもう、キリストは命じたもう、と。

 これはただの歌詞だけなのでしょうか? 歌だけの問題でしょうか? 言葉だけなのでしょうか? いいえ違います! これが現実にならなければなりません。

 家族の長たちよ、あなたたちこそがその責任を持っています。あなたたちの子供達のために、将来の世代のために。あなたたちはフランスがもう一度キリスト教国家になるように、カトリック国家になるように、組織し、集まり、あなたたちの主張が聞かれるようにしなければなりません。これは不可能ではありません。さもなければ、ミサ聖祭はもう恵みではなくなった、天主はもはや天主ではない、私たちの主イエズス・キリストはもう私たちの主イエズス・キリストではない、と言わなければなりません。

 私たちの主イエズス・キリストの聖寵に信頼しなければなりません。私たちの主は全能です。私はこの恵みが働いているのをアフリカでこの目で見ました。ここで、この国で、聖寵が同じように働かないという理由は一つもありません。これが私があなたたちに言いたいことです。

 親愛なる司祭たちよ、私のこの声を聞いているあなたたちは、この十字軍を広めるために、この十字軍を生き生きとさせるために、深い司祭的な一致を作り出して下さい。それは、私たちの主イエズス・キリストが統治するためです。

 そしてそのためには、あなたたち司祭は、聖人でなければなりません。あなたたちはこの聖性を求め、この聖性を、あなたたちの霊魂と心の内で働いている聖寵を示し、御聖体の秘蹟を通して、あなたたちが捧げる、あなたたちだけが捧げることが出来るミサ聖祭を通して受ける聖寵を証しなければなりません。

 愛する兄弟の皆様、私は最後に、いわば私の遺言ともいうものによってこの説教を終わりにします。遺言 Testament、これは大げさな言い方ですが、この言葉を選んだのは、これが私たちの主イエズス・キリストの遺言・契約 Testament つまり Novi et aeterni testamenti (新しい永遠の契約) のこだまとなることを願うからです。

 
"Novi et aeterni testamenti"


 この言葉を御血の聖変化の時に唱えるのは、司祭です。司祭はこう言います。"Hic est calix sanguinis mei, novi et aeterni testamenti" と。イエズス・キリストが私たちに下さる遺産、それはそのいけにえ、その御血、その十字架です。そしてこれが全キリスト教文明のパン種であり、これこそが私たちを天国に連れて行ってくれるものです。

 私は皆さんにこうも言います。聖三位一体の栄光のため、私たちの主イエズス・キリストへの愛のため、天主の御母聖マリアへの信心のため、教会への愛のため、教皇様への愛のため、司教・司祭・全信徒の方々への愛のため、この世の救いのため、霊魂の救いのため、私たちの主イエズス・キリストのこの遺言・契約を守りなさい!

 私たちの主イエズス・キリストのいけにえを守りなさい。永遠のミサ聖祭を守りなさい!

 そうすればあなたたちはキリスト教文明がもう一度開花するのを見るでしょう。この世のためのものではない文明が、カトリックの国へと人々を連れて行く文明が。このカトリックの国とは、地上のそれが準備する天国のカトリックの国のことです。地上のカトリックの国は、他でもないそのために作られるのです。この地上のカトリックの国は、天国のカトリックの国以外のためにあるのではありません。

 ですから、私たちの主イエズス・キリストの御血を守りながら、そのいけにえを守りながら、このミサ聖祭を守りながら、私たちの祖先によって私たちに遺産として伝えらたこのミサ聖祭、使徒達から現在に至るまで遺産相続されたミサ聖祭を守りながら、--- もうすぐ、私は自分の叙階式の時に使ったのと同じカリスを使ってそこでこの同じ言葉を唱えます。私が叙階を受けた五十年前このカリスで唱えた聖変化の言葉とは別の言葉をどうして唱えることが出来るでしょうか、それは出来ません、--- 先祖が私たちに教えてくれた通り、教皇様たちや司教様たち、私たちの先生であった神父様たちが教えてくれた通り、私たちはその同じ聖変化の言葉を唱え続けることでしょう。それは私たちの主イエズス・キリストが統治するためです。そして霊魂が私たちの天の良き母である聖母マリア様の御取り次ぎによって救われるためです。

聖父と聖子と聖霊との聖名によって、アメン。

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2007年12月27日木曜日

ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話(1987年9月27日)

アヴェ・マリア!
 兄弟姉妹の皆様、 1987年9月27日、ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話をご紹介します。
1987年9月27日、ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話
(フランス語からの翻訳:トマス小野田圭志神父)

(これは既に Credidimus Caritati にて発表されました。)

Conference of Archbishop Lefebvre at Annecy (France) on September 27, 1987.

 淑女、紳士の皆様、
 私はこのご招待に与り大変うれしく思います。この頃ではあまり多くの講話会をすることはありません。何故なら、私の声を聞かなくとも、皆さんが必要とする現在の危機と私たちが今体験している問題に関して全ての情報は、約二年前にした出版物を通して手にすることが出来ると思うからです。
 私は「迷える信徒への手紙 --- 教会がどうなったのか分からなくなってしまったあなたへ --- 」を出版しました。この本はかなり版を重ね、私たちの態度、私たちの立場、ローマと私たちとの関係を理解するのに困難を感じている人々のため、教会の危機をよく知らない人々のために書かれました。この本の中に、これは比較的に読みやすい本だと思いますが、この本の中に皆さんが抱く疑問、或いは皆さんのお友達や知人がいわゆる「エコンの問題」に関して抱く疑問に対する答えがあります。

 ところが最近では危機は発展しています。ハッキリとこう言わなければならないのですが、より重大により悲劇的になっており、私たちの戦いの深い理由、定義するのがかなりデリケートで把握するのがデリケートな理由を強調するのが大切であると思われました。哲学的な用語や神学用語に慣れていない人々にとって、私たちが何故第二バチカン公会議の幾つかの文書に反対しているのか良く理解することは容易なことではありません。第二バチカン公会議の文書とは、例えば信教の自由に関する宣言とか『現代世界憲章』のことです。決定的に問題となるのは、これらの議論の余地のある二つの公会議文書ではありません。とどのつまり、それはかなりデリケートな問題で、自由主義(リベラリズム)の問題です。

 教会の現状況の問題をよりよく理解しようとしている全ての人々にとって、新しい本を作るのが良いだろうと思ったのです。これが「彼らは主を退位廃冠させた」(Ils L'ont decouronne)という本で最近私たちがしたことです。

 私はこの題名が十分意味深いと思います。「彼らは主を退位廃冠させた」(Ils L'ont decouronne)。
 「彼ら」とは誰のことでしょうか? 皆さん、彼らとは教会の聖職者達です。教会の聖職者達は、誰を退位させ廃冠させたのでしょうか? 彼らは私たちの主イエズス・キリストを王座から退位させ、その王冠を取り去ったのです。はい。私たちの主イエズス・キリストをです。これは極めて重大なことです。
 だからこそ、正にそれが理由で、私たちはこの本にこの題をつけたのです。何故ならこれが真理であり、これが私たちの闘いの最も深い理由だからです。

 私たちの抵抗の深い理由、それはラテン語の問題ではありません。それは司祭が着るスータンの問題ではありません。典礼の二次的な典礼様式の問題ではありません。信仰の問題です。
 私たちの主イエズス・キリストが天主であるということの信仰、それが問題になっているのです。
このことは私たちにとって最も重要な点です。

 私は7月14日、ラッツィンガー枢機卿との最後に会話をしたときにこのことを言う機会がありました。私は、私たちの信教の自由(第二バチカン公会議の『信教の自由に関する宣言』の文書)に対する反論にたいして、枢機卿がした答えに私たちの答えを与えるためにこの会話に臨んだのでした。枢機卿は、以前、私たちに反論を書くように要求しました。そこで私たちは140ページからなる小論を書きました。そして枢機卿は私たちの反論に、綿密なやり方で返答しました。そこで私たちはその返答に対する答えを作り、7月14日にラッツィンガー枢機卿に持っていったのです。そして、私たちは枢機卿が信教の自由を定義するその定義のしかたに同意することが出来ないと言うためでした。同意できません。
 何故なら、その理由を説明して私は枢機卿に言いました。「ご覧下さい、たとえ枢機卿様が私たちに多くのことを与えようとされていても、ある意味で多くの特権を、聖伝のミサを捧げる特権、1962年のヨハネ二十三世教皇の典礼書、1962年版の典礼書を守る特権を与えようとしても、私たちの神学校がそのまま続くことが出来るようにしてくれたとしても、私たちはそれでも協力するのが難しいことでしょう。大変難しいでしょう。何故なら、私たちは同じ方針し従っていないからです。あなたは、第二バチカン公会議以後、私たちの主イエズス・キリストの社会統治が減少するように働いています。あなたは、市民社会を、国家を非キリスト教化することを望んでいます。(それこそ彼らが現実にしていることです。)」

 ご静聴の皆さん、よくご存じの通り、私がすることが出来たこの講話会のことをマスメディアで読むことが出来たのならば、よくご存じでしょう。新聞で読みましたでしょう。イタリアの驚くべき例を読んだことでしょう。聖座が自らイタリア政府に、イタリアがもうカトリック国家ではないように、宗教に関して中立であれと求めたのです。
 昨年の3月、イタリアの政教条約に関する議論があったとき、聖座はイタリア政府と、社会主義政府と同意の署名をしました。これによって、今後は政府もイタリアも排他的にカトリックではなくなる、ということになりました。カトリック教について、カトリックの宗教は国家によって公式に認められた宗教ではなくなり、イタリア国家は宗教に関して中立にならなければならない、従って、その事実から、その領土内に全ての宗教を受け入れなければならなくなりました。そしてこの行為は、聖座によって要求されたのです。このことを頭の中に良く入れておかなければなりません。イタリア政府ではなく、聖座によって要求されたことだったということです。
 同じことはスペインにもありました。南アメリカの全てのカトリック国家についても同じです。アイルランドでもそうです。スイスのカトリックのカントン(州)でもそうです。カントンは各自の憲法を持つスイスの国々です。これらはみな、聖座がその政府へ要請して国家が厳密にカトリックであることは、公式にカトリック国家であることは、もはや受け入れられないとしたのです。

 私はそのことについてヨハネ・パウロ二世教皇様と話す機会がありました。この謁見はもう8年、9年前になります。何故なら1978年に教皇に選ばれ、1978年の11月に謁見したからです。その時私は教皇様にこう言って説明しました。
「聖下、教会が社会においてもう私たちの主イエズス・キリストの社会統治を追求しなくなってしまい本当に驚いています。」
 私は教皇様に(スイスの首都)ベルンの教皇大使と私との会話の例を出しました。この会話は私の書いた本の中で読むことが出来ます。)
 ベルンの教皇大使に私は会う機会があり、教皇大使は自分がスイスの司教たちに圧力をかけてカトリックの州(カントン)が投票するように、憲法からカトリック州であることを放棄するように国民投票させたと私に理解させてくれました。憲法本文にはこうあります。「例えばヴァレー州、フリブール州は、この州における唯一の公式の宗教としてカトリック宗教を認める。」
 これを廃止させなければならなかったのです。これは社会の非キリスト教化です。私は教皇様に言いました。
「ご覧下さい。プロテスタントの州(カントン)は何も変えていません。プロテスタントの州は今でも同じ憲法の文言を使っています。」
 スイスのプロテスタント州は“この州は公式の宗教としてプロテスタントの宗教を認める」としています。彼らは変えません。オランダ、英国、ノルウェー、スエーデン、デンマークなどではプロテスタントが国家の唯一の公式宗教として認められています。
 例えば、皆さんも事実を知っていますように、オランダの女王ジュリアナの長女はブルボン家のプリンスであるザビエルの息子の一人と結婚しました。しかし、本来ならジュリアナに王位継承権があるのにもかかわらず女王となることが出来なくなりました。ジュリアナがカトリック信者と結婚したからです。オランダにプロテスタントではない女王がいるのは考えられないということです。これは今でもそうです。
 デンマークでも同じことです。フランス人の青年がデンマークの王位継承権を持つプリンセスと結婚しました。しかしフランス人青年は、カトリックを背教してしまいました。デンマークのプロテスタントの女王と結婚するためにカトリックの宗教を捨ててしまったのです。何故なら、デンマークの女王がカトリックと結婚することは考えられなかったからです。

 良く見て下さい。何という違いでしょうか! プロテスタントの国々では、習慣になっているものは何らも変えようとはしません。問題外です。そのことを私は教皇様に申し上げました。
 そしてイスラム国家です。カトリック信者をイスラム国家の元首においてみて下さい。カトリック信者と共産主義国家の元首においてみて下さい。共産主義国家は党のための人間を望んでいます。共産党党員でない誰かが、共産主義ソビエトの元首になることなど考えられません。イスラム教徒のところに、カトリック信者の元首をおいてみて下さい。何が起こるか分かるでしょう。考えられないことです。つまり、真の宗教だけが、唯一の本当の宗教である私たちの主イエズス・キリストの宗教が、国家を持つ権利がない、つまり私たちの主イエズス・キリストが数世紀も統治したようにイエズス・キリストが統治するためのカトリックの国家を持ってはならないのでしょうか。

 私はこのことを何度も言いましたが南アメリカのコロンビアという国が司教たちの圧力の下で宗教的中立になったとき、その瞬間私はコロンビアにいました。司教たちの圧力の下で、とはコロンビアの司教会議の事務総長が私に言ったことです。私は彼のことをよく知っています。彼は私にこう言いました。
「その通りです。二年の間私たちはコロンビア共和国の大統領官邸に座り込みをして憲法の文章から "カトリック宗教が国家によって公式に認められた唯一の宗教" とうところを削除するようにしたのです。」
 これを変えるために、コロンビアの司教会議の事務総長が、コロンビア共和国の大統領官邸に座り込みをした? 私たちの主イエズス・キリストがコロンビアの王ではないようにするために?
 この削除が行われていろいろな演説があったとき、三つの演説がありました。私はコロンビアにいました。私はそれらの演説を新聞で読むことが出来ました。コロンビアの大統領の演説、教皇大使の演説、司教会議の代表の演説でした。
 カトリックらしい演説は大統領の演説でした。司教たちの演説は単に「私たちは第二バチカン公会議を適応させる、すなわち第二バチカン公会議の信教の自由の意味を適応する」というものでした。
 ところが教皇大使の演説はフリー・メーソンの演説でした。進歩、人間、文化。本物のフリー・メーソンの演説でした。
 大統領はその反対にこう言いました。「私たちはカトリックの宗教が私たちの国家において公式に認められた宗教として見なさないようにと要求されたので、大変に残念に思います、確かに私たちの国民は、この変化を極めて残念がるでしょうし、多くの国民は驚くことでしょう。しかしカトリック教会の要求に従って、私たちはカトリック教がコロンビア国によって認められた唯一の宗教ではなくなるということを受け入れました。しかし私が大統領としてあるかぎり、私はカトリック宗教がコロンビアに継続し、常に最高に敬意を受ける宗教としてとどまるように私は全力を尽くすことを約束します」と。
 大統領はカトリックの演説をしました。自分の社会、自分の国の非キリスト教化という行為への聖座からの圧力を残念に思いつつこの演説をなしました。それにしても、聖座が社会を非キリスト教化するように要求するとはやり過ぎのようです。しかしこれは今日バチカンが理解している信教の自由の原理に適うことなのです。

 そしてこれが7月14日にラッツィンガー枢機卿が私に自己弁護をして言ったことなのです。ラッツィンガー枢機卿が私に言った最初のことがこれです。
「しかし大司教様、社会はカトリックではあってはなりません。社会は宗教を持ってはなりません。何故なら社会は天主様の被造物ではないからです。何故なら市民社会というものは、家族が天主様によって作られたようには、天主様によって作られたわけではないからです。だから社会は宗教を持ってはなりません。ダメです。社会は宗教に関して無能なのです」と。枢機卿は私にこう言いました。「宗教に関して無能である」と。
 しかし、1500年の間何があったのでしょうか?コンスタンティノ大帝からフランス革命までの間、そしてその後もそうだといえますが、何が起こったのでしょうか? 教皇様たちは、諸侯たちに、王たちに、国家元首たちに、国民が信仰を守るように、無信心の侵略や無神論の侵略、セクトの侵略、全ての誤謬の侵略に反対して、国民の信仰を保護するように全力を尽くすようにと要求して止みませんでした。教皇様たちは王たちに懇願したのです。
 そして王の聖別があります! 王を聖別するという宗教儀式です。スペインの君主ホワン・カルロスは王として聖別されました。ホワン・カルロスは、言ってみれば教会の手から王冠を受け取りました。王のために捧げられた全ての祈り、全ての祈願文は正しく、王がカトリック教会に忠実であるように、王が信仰を守るように、王が信仰においてその信者と国民たちを守るように、と祈っていたのです。
 そこで私はこのことを枢機卿に言いました。「それなら、これらのこと全ては何を意味するのでしょうか?」と。
 枢機卿の答えはこうです。「ああ、そうですね。でもこれは特別の事情でのことです」と。

 1500年の間、特別の事情であって、今では私たちは福音を参照する、と言うのです。あたかも聖福音が私たちの主イエズス・キリストの王権に反対しているかのようです。ウソのような話です。彼らは社会の非キリスト教化を望んでいます。しかし社会の非キリスト教化とは、フリー・メーソン的であり、フリー・メーソンの原理です。
 フリー・メーソンは常にそのことを目的をしてきました。社会の非キリスト教化。この社会の非キリスト教化に付け加えて、良心の非キリスト教化があります。まさにこれが信教の自由です。誤った信教の自由、リベラルな信教の自由です。良心を非キリスト教化するとは、良心が自由であるということです。各人がそれぞれの良心を持つということです。従って、各人が(自分の好みに合わせて)自分の宗教を持つことができるということです。
「あなたは仏教徒になりたいのですか、仏教を望むのですが、大変よろしいことです。あなたはイスラム教を望みますか、素晴らしいことです。あなたはキリスト教を望むのですね、なおさら良いことです、などなど。」各人が自分の好きな宗教を持ち、誰も何も言えない。

 では真の天主である私たちの主イエズス・キリストの掟はどうなってしまうのでしょうか? 私たちの主イエズス・キリストは、私たちが主に従順であるようさせる権利が、私たちに命じる権利が無いのでしょうか? 私たちの主は言いました。「信じる者は救われる。信じない者は滅ぼされる」と。イエズス・キリストは、すべての人間の良心に、全ての良心にこう言ったのです。イエズス・キリストは「信じないキリスト者は」とも「信じない私の弟子達は」とも言いませんでした。イエズス様は「信じない者は」といったのです。つまり全ての人間、誰であれ私たちの主イエズス・キリストを信じない者は、滅ぼされると言ったのです。私たちは自由ではないのです。自由ではありません。
 良心が自由になると、各々の良心が好みの宗教をもつ自由があるなら、国家は、それぞれ個別の宗教を持つ私たちの各人に「社会的自律空間」と呼ばれるものを与えなければならなくなります。「あなたはイスラム教徒ですか?あなたには社会的自律空間を持つ権利があります」と。
 この「社会的自律空間」とは、彼らの使う正確な言い回しです。彼らが私たちにした回答の中で使った言葉です。この「自律空間」とは、何を意味しているのでしょうか? これは社会において、イスラム教徒は、彼らの学校、ラジオ、新聞、礼拝、自分の考えを広める権利などを持つ、ということです。この「社会的自律空間」での唯一の制限は、公の秩序です。しかし、公の秩序とは、好きなように定義することが出来ますから(結局は無制限であり)、全くの自由です。
 従って、社会の社会秩序において、一夫多妻も存在する権利を持つことになります。何故ならこれはイスラム教の一部ですから。プロテスタントにとって、堕胎も避妊も離婚も社会的自律空間の権利を持ちます。何故ならこれらは彼らの宗教の一部ですから。これが私たちが今生きている世界です。
 「信教の自由」という原理によって、カトリック的に理解された信教の自由とは何だったのでしょうか? 全ての教皇様たちは第二バチカン公会議までこのこの意味において使っていました。本当の信教の自由とは、市民社会において真の宗教が実践し行使することの出来る自由、真の宗教のもつ自由、ということです。真の宗教が市民社会における行使の自由とは、(今の理解のしかたとは)全く別のものです!
 (カトリック的理解における真の)信教の自由とは、全ての諸宗教の自由ではありません。全ての考え、全ての思想・道徳の自由ではありません。全く違うものです。私たちは今、正に、自由主義(リベラリズム)のまっただ中にいます。これは極めて大変なことです。
 これは私たちの信仰を攻撃します。私たちの主イエズス・キリストの王冠は奪われました。この言い方は決して言いすぎではないと保証します。私たちの主イエズス・キリストはいったい誰によって王冠を奪われたのでしょうか?もう一度言いますが、教会の聖職たちによって、司教たちによって、ローマによって王冠を奪われたのです。ありのままをそのまま言わなければなりません。ローマが教皇大使に、全ての教皇大使に奨励して、国家がもはやカトリックではないように、中立であるように要求するようにさせたのです。
 その結果は? その結果は、ありとあらゆる想像するかぎりのセクトが繁殖したことです。これらのセクトが所有するお金を持って、とくにアメリカのセクトは世界中どこでも広がっていきました。皆さんもご存じでしょう。非常にしばしばいろいろなところでエホバの証人、アドヴェンティスト、モルモン教、などなどの建物が建てられています。今ではどこでもそうです。
 そのために以前、マスメディアは六千万の(ラテン)アメリカ人が、1968年以後、つまり第二バチカン公会議以後、カトリックからセクトに移ったことを報道したことがあります。
 この時以来、正に、カトリック国家を廃止し、聖座がカトリック国家に要求して、全ての宗教に門戸を開くようにさせたのです。その結果、セクトが繁殖したのです。この通りです。これにより六千万の南アメリカ人が背教したのです。セクトに入信するためにカトリック宗教を捨てたのです。これは公式の記録です。何という巨大な数でしょうか!
 もしもヨーロッパで計算すると、数百万のカトリック信者らがイスラム教に、或いは実際上の無神論に移ってしまっている、あるいは宗教を捨ててしまったのをみて驚くでしょう。数百万人もの多くの人々が!
 見て下さい。社会と良心の非キリスト教化の結果です。だから私たちは同意することが出来ないのです。私が枢機卿に言ったのはこのことです。出来ません。私たちは、その反対です。私たちの全存在、私たちの全ての命、私たちの全理想、私たちが持つ全ての手段、私たちがする全ての説教、私たちが建設する全神学校、私たちがたてる全ての修道院、それらは全てが全て、私たちの主イエズス・キリストが統治するためです。願わくはイエズス・キリストが統治せんことを! 
 私たちはこれを天にましますの祈りの中で祈っています。御国の来たらんことを! これこそ私たちの命です。
 枢機卿様、あなたはイエズス・キリストが減るようにさせています、イエズス・キリストの統治について語らないようにさせています、私たちの主イエズス・キリストの社会統治とその御国について語らないようにさせています。

 厳密に言えば、個人の良心において、厳密に言えば家族において、イエズス・キリストの統治はありうるかも知れない、しかし公にはあり得ない、と?
 何故でしょうか? 何故なら、枢機卿様、あなたはこれが誰かを間違っていることにするので怖ろしいからです。イエズス・キリスト公の統治が、ユダヤ教徒、イスラム教徒、プロテスタントの気に入らないからです。何故なら、エキュメニズムのためです。
 私たちは私たちの主についてあまり語りません。何故でしょうか? 私たちの主に対する敬意がもはやありません。だから至る所で十字架を取り去ってしまいました。
 バチカンにおいてさえ、バチカンの謁見の間でさえです! 今では全ての十字架像を取り除き、何の意味もない絵を飾るようになりました。現代絵画の様式の絵です。これが何を意味しているのか誰も知りません。絵の具を筆につけてチョコチョコっと書き殴ってあるやつです。何の意味なのかよく分からない絵です。
 象牙で出来た素晴らしい十字架像や、極めて精巧に出来た大きな十字架像、「誰それの王からの寄贈」「どこそこの国からの寄贈」「某君主からの寄贈」などと書かれたプラカードがついている十字架像などは全て取り除かれてしまいました。昔は、謁見を待ちながらこの素晴らしい十字架像を鑑賞して眺めていることも出来ました。素晴らしくてうっとりしていたものです。しかしそれらは全て取り除かれてしまいました。私はバチカンで尋ねてみました。私を受け付けてくれた秘書に尋ねてみました。
「何故美しい十字架像を取り除いてしまったのですか?」「分かりますか、今ではユダヤ教徒、イスラム教徒、などを受け付けているんです。彼らの気に入らないんです。分かりますか。」
 私たちの主を見ることが彼らの気に入らない、だから十字架像を全て取り除いた!

 これが私たちが今どこにいるか、ということです。彼らは私たちの主を外に追い出し追放しているのです。近代の教会建築を見て下さい。祭壇の上にはもはや十字架像がありません。十字架像のようなものはまだありますが、何という十字架像でしょうか! 非常にしばしば怖ろしく醜いもので、祭壇の脇に置かれています。脇に置くのはどこに置いたらいいか分からないからです。私たちの主への尊敬はもはやありません。十字架像への敬意はもうありません。
 私たちの主イエズス・キリストはもう統治していません。私たちの主にはもはや統治する権利がないのです。それでも私たちは同意しません。これに賛成できません。これが私たちのドラマです。ここに現在のローマの態度に対する私たちの立場があるのです。

 そして(今から言うことは)アシジにおいて起きたことについて話すのではありません。京都で起こったことです。
 アシジへ諸宗教の代表者が集まったことも、厭わしいことでした。教皇様御自身も十字架像を身につけていませんでした。教皇様は十字架を胸に掛けていませんでした。教皇様は上着で十字架を隠していました。ユダヤ教徒やイスラム教徒らの目とそこにいた全ての異教徒の目、教皇様の周りにいた人びとの目を傷つけないように。
 教皇様には十字架の印がもはやありませんでした。教皇様が十字架を掛けていたのかいなかったのか私には分かりません、とにかく教皇様は白い上着を着ていました。写真で見ることが出来ます。教皇様の十字架像も教皇様のキリストも見えません。
 京都ではアリンゼ枢機卿(Cardinal Arinze)がバチカン代表者たちの座長となっていました。アリンゼ枢機卿様は私がよく知っているナイジェリアの司教です。何故なら、彼の故郷ル・ビアフラ(le Biafra)を宣教したのは聖霊修道会の私たちの神父たちだからです。アリンゼ枢機卿はどこから来たのでしょうか? 私は彼とその現地で会ったことがあります。確かに彼は立派な人であり、信仰の人です。しかし、彼は聖座によって他の二十名と共に送られてきました。それは京都の諸宗教の議会に聖座を代表するためでした。アリンゼ枢機卿には第四番目の場所が与えられました。まず、日本人、つまり日本の宗教、次に仏教、次にイスラム教、それからカトリックです。

 私たちの主は神々の第四番目、礼拝される神々の四番目なのです。私たちは今どこにいるのでしょうか?何世紀に生きているのでしょうか?私たちはどのような環境に生きているのでしょうか?一体何がまだ私たちの主イエズス・キリストを信じているのでしょうか?もしも唯一の天主しか存在しないとするなら、(その他の神々を信じて同時に)私たちの主イエズス・キリストが天主であると信じることは不可能です。従って、天主である私たちの主イエズス・キリストしか存在しないことになります。これを曖昧には出来ません。それは不可能です。私たちが死ぬとき、誰が私たちを裁き給うのでしょうか。誰が私たちを天国に受け入れてくれるのでしょうか。誰が私たちを排斥し地獄に落とすのでしょうか。私たちの主イエズス・キリストです。イエズス・キリストです。イエズス・キリストが私たちを想像し給うたのです。イエズス・キリストが私たちを存在において保ち給うのです。イエズス・キリストこそが十字架の上で私たちを救い給うたのです。イエズス・キリストこそが、天国で私たちを受け入れ給うのです。イエズス・キリストが私たちに栄光を与えるのです。イエズス・キリストこそ私たちを喜びのうちに永遠に保ち給うでしょう。その他ではありません。聖父と聖霊と共に一致したもう天主以外のものを探してはなりません。もちろん、聖三位一体であり、唯一の天主しかましません。二柱の天主があるのではなく、唯一の天主のみがまします。

 それではこれらの礼拝されている神々は、何の意味もないのです。全く何でもないのです。つい最近、カルメル会修道女が、私たちのカルメル会修道女ではなく、--- 幸いなことに --- こう言うのです。「しかし、大司教様、これらの宗教はみな同じ天主に祈っています。」
 カルメル修道女の院長が私にこう言ったのです。どこまで躓きが広がっているか見て下さい。この集会の躓きが。修道女でさえです。何故なら、これは良いカルメル会修道女だからです。彼女は真の天主と偽りの神とを区別することが出来なくなってしまっています。もう区別もありません。「しかし、大司教様、彼らはみな同じ天主に祈っています」と。しかし、ユダヤ教徒は私たちの主イエズス・キリストに祈るのでしょうか? ユダヤ教徒が? イスラム教徒は私たちの主イエズス・キリストに祈るのでしょうか? 仏教徒は私たちの主に祈るのでしょうか? いいえ! いいえ! 祈りません。(こう質問すると)彼らは何と答えて良いか分かりません。もちろん、明らかに彼らは私たちの主に祈らないばかりか、彼らは私たちの主に対立しています、全面的に反対しています。
 彼らは反キリスト教徒です。イスラム教徒と特にユダヤ教徒が反キリスト教徒です。この二つの宗教はユダヤ人によって創立されました。イスラムはユダヤ教を起源にしています。私たちの主イエズス・キリストを十字架につけた人びとに由来しています。彼らがイスラムを創立し形づくったのです。そのためにイスラム教徒の宗教儀式は、ユダヤ教の儀式と良く似ています。こうして彼らは形づくられたのです。私たちの主イエズス・キリストに対立するように。同じように、ユダヤ教徒も私たちの主イエズス・キリストを信じていません。私たちは使徒達とユダヤ人の全ての人びとに感謝しています。それは天主がご存じです。私たちの主はユダヤ民族から生まれました。もちろんです。聖母マリア様もそうです。ユダヤ人たちを通して私たちに贖いの聖寵が伝えられたのです。ただし回心し(て私たちの主を信じ)たユダヤ人です。彼らは回心したのです。ただし、それは私たちの主に反対し私たちの主を十字架につけた人々ではありません。
 私たちの主に反対する人々は私たちの主の神秘体、つまりカトリック教会を十字架に付け続けています。幻想を抱いてはなりません。明らかです。

 ではローマでは? ローマで何が起きているかもう理解できません。大きな神秘です。大神秘です。本当にはかり知ることの出来ない神秘です。
 そこでこの神秘を前にして、お分かりになるでしょうか、私たちの主の王冠を奪う信教の自由の断言を前にして、この間違って定義されたリベラルな自由を前にしているのです。--- 何故なら同じ言葉は使っていますが別の定義を与えているからです --- 信教の自由は全く別のやり方で定義されているからです。
 私は皆さんにカトリックの定義を与えましょう。まず彼らにとっては「宗教に関する強制の不在」です。「強制の不在」「宗教に関する」。ここには真理ということが言われていません。ここでは真理や誤謬との関係がもはやありません。だから(この定義では)どこから始まってどこで終わるのか分かりません。不正確です。「宗教に関する強制の不在」、これは(カトリックの定義する信教の自由とは)全く別物です。全く違っています。彼らもそのことを言っています。そのことを隠そうとはしません。彼らは言います、ああ、そうそう、新しいことです、革新的なことです、その通りです、新しいことだと認めなければなりません、と。
 カトリック教会は常に新しいことには反対でした。また教会は常に明確な定義に賛成していました。曖昧でハッキリとしないどのようにも意味がとれる、いい加減なこという定義には反対でした。
 ミサ聖祭について、彼らはパウロ六世の総則の第七条で別のしかたで定義しました。彼らはミサを、トリエント公会議がしたのとは別のしかたで定義しました。これもまた新しい定義です。しかし彼らは同じ用語を使っています。
 「教会」、彼らは「教会」という用語を使っています。しかし教会が常にそう定義してきたのとは別の定義を与えています。私たちが神学を学んだときに私たちの神学で定義されていたのとは別のしかたで定義されています。以前は教会はこう定義されていました。「霊魂の救いのためにそれを信じ(adherer)なければならなずその肢体とならなければならない、目に見える・位階秩序を持つ・君主制の社会」と。ところで今となっては「霊魂の救いのために」などと定義にはいるでしょうか? そんなのはもうありません。終わってしまいました。新教会法を見て下さい。ヨハネ・パウロ二世教皇が新教会法を提示するためにした憲章、指針書を見て下さい。そこには教会の新しい定義があります。それによれば、教会とは「交わり、エキュメニカルな交わり」となっています。これはどういう意味でしょうか?この交わりはどこから始まるのでしょうか? どこで終わるのでしょうか? 交わり? 何のことでしょうか? これが定義です。もう「霊魂の救いのためにその肢体とならなければならない、目に見える・位階秩序を持つ・君主制の社会」ということではありません。この定義では少なくとも明快でした。例えば「位階秩序を持った」これは聖職者と平信徒とがいるということです。教会の構造を良くみることが出来ます。明確に。とても明確です。

 ところが「エキュメニカルな交わり」とは、私はこれが何を意味するのかよく分かりません。こうすればもちろん、誰も彼も教会の中に入れることが出来ます。しかし教会がどこから始まってどこで終わるのか(教会の内と外の境が)分からなくなります。こんなことはあり得ません。このような曖昧で意味が何とでもとれる雰囲気の中で生きていくことは出来ません。
 そしてこれらは全て教会の新しい態度を始めるために望まれたことでした。この「エキュメニカルな態度」を。これは絶対的に理解することが出来ません。これはもう宣教の態度ではないからです。極めて重大なのはこのことです。何故ならこれは教会の宣教精神を崩壊させたからです。
 ではこの列挙した事柄を前に、私が皆さんに少しお見せしたこと、この新しい教会、第二バチカン公会議でそう提示された教会の新しい態度を前に、私たちの内で何名かが公会議でこれに反動しました。このことについては私はしばしば説明しました。(既に公会議の時から)私たちは教会のこの分裂を、教会が引き裂かれることをあらかじめ見ていました。いろいろな新しいことのために、リベラルな意味で理解されたこの信教の自由のために、私たちの主が王として退位させられたために、社会と良心の非キリスト教化のために、(それが起こったの)です。私たちは劇的な事態が生じるだろうとあらかじめ予見していました。それ以外にはあり得ません。新しい教会、教会の伝統的な原理と反対する新しい原理。

 私が所属していた第二バチカン公会議中央準備委員会の中で、ベア枢機卿(Augustin Cardinal Bea, S.J. †)とオッタヴィアーニ枢機卿(Alfredo Cardinal Ottaviani †)との対立の中で、私たちはこのことが具体的になっているのを見ました。

 公会議の直前、最後の準備会合で、ベア枢機卿とオッタヴィアーニ枢機卿とで激しい対立があったのです。ベア枢機卿はリベラルな意味での信教の自由を擁護していました。オッタヴィアーニ枢機卿は伝統的な信教の自由を擁護していました。もちろん、オッタヴィアーニ枢機卿が正しかったのです。明らかです。オッタヴィアーニ枢機卿は全聖伝を代表していました。するとベア枢機卿は立ち上がってオッタヴィアーニ枢機卿に指で指し示してこう言ったのです。「枢機卿、私はあなたの信教の自由の概念に反対です!」と。
 私たちは顔を見合わせました。この委員会に七〇名の枢機卿が臨席しており、二〇名ほどの大司教と司教がいました。私はこの委員会に、西部アフリカ司教評議会の議長として参加していました。その他にも修道会の四名の長上がいました。以上がこの委員会の正会員で、その他に委員会には所属しない顧問たちも参列していました。神学顧問たちは聞いてノートを取るだけです。普通、会合は教皇様が司会をしました。今回は、ヨハネ二十三世はそこにいませんでした。私たちは互いに顔を見合わせました。二名の枢機卿が、基礎的な問題で互いに対立し反対して立ち上がっていたのです。これはもう一度言いますが、信仰の問題でした。私たちの主が社会を統治しなければならないのか、あるいはもはや統治してはならないのか、イエスかノーかの問題だったのです。
 そこでパレルモのルフィニ枢機卿(Cardinal Ruffini)が立ち上がり、こう言ったのです。「よろしい、かくも重大な問題について、私たちの二名の同僚兄弟が互いに反対して立ち上がっているのを見るのは大変見苦しい。私たちはこのことを上位の権威に申し立てなければならないでしょう」と。
 枢機卿たちよりも上位の権威とは、それは誰でしょうか?明らかに教皇です。些かのためらいもありません。しかしヨハネ二十三世教皇はそこにいなかったのです。ルフィニ枢機卿はこの議論をやめさせたかったのだと思います。問題を消去して「私たちはこのことを教皇様に申し立てよう」と言ってそれで終わらせようとしたのです。しかし、ベア枢機卿は聞く耳を持ちませんでした。ベア枢機卿はこう言いました。「ノー、ノー、ノー! 私は投票を要求する。」
 そこで私たちは投票に移りました。私たちは半数が特にオッタヴィアーニ枢機卿に賛成を投じたことを知りました。一般的に、南アメリカ人、スペイン人、ラテン人、イタリア人やローマの人々は皆、ベア枢機卿(ママ)に賛成していました。
 私たちは七十名の枢機卿たちの一団が、基礎的な問題で分裂しているのを目の前にしたのです。しかも第二バチカン公会議の前夜に。公会議がどのようになっていくか分かるでしょう。ウソのような出来事です。私たちは公会議の直前であり、信教の自由という重大で大切な問題について、二人の枢機卿が対立しているのです。
 そして枢機卿団も真っ二つに分裂しています。公会議では一体何が起こるのだろう、と心配になります。想像できますか? 第二バチカン公会議はこの闘いのイメージでした。第二バチカン公会議は四年間のケンカ(bagarre)でした。しかしこのことを認めなければなりません。教皇様は革新派の側についていました。保守派の方ではありませんでした。全ての問題はここにあったのです。もしも教皇様が「私は保守派に賛成する」といえば問題は起こりませんでした。聖伝は以前のように続いていたことでしょう。
 教皇様はその反対に、革新派に見方をしました。ベア枢機卿の側にたちました。もちろん、勝ち誇ったのは革新派たちです。リベラル派が勝利したのです。これが教会の劇的な大事件です。皆さんは「彼らは主を退位廃冠させた」(Ils L'ont decouronne)の本の中で読むことが出来ますが、もしも皆さんがそれを読む機会があれば、教皇様たちが自由主義について言っていること、十九世紀の全ての教皇様たちと二十世紀の最初の半世紀の間教皇様たちが口をそろえて言うことを読むことでしょう。教皇様たちは、今現在教会によって公式に認められたことを排斥しているのです。これを理解するようにしてみて下さい!
 私たちは今、絶対的に信じることの出来ないような問題を前にしているのです。彼らがどうやって公会議で勝利を手にしたのか? ハッキリ言わなければなりません。彼らはすぐに主要な地位を占めた、命ずる地位を得たのでした。それは簡単です。政府の場合と同じです。社会主義者達が政権を取ると、すぐに彼らは社会主義に好意的ではない人々をすぐに更迭し、社会主義を実行するのです。これは明らかです。バチカンでやったこともそれです。リベラル派が勝つとすぐにバチカンのクリアにいた聖職者達は排除され、それはローマ・クリア(ローマ諸聖省)と、聖伝をすこし強く支持している司教たちのいる全ての司教区についてそうでした。これらの人々はみな排除されました。多くの司教たちは、教会で起こっていることを見て辞任していきました。彼らはあまりにも動揺し、あまりにも心苦しく思ったからでした。辞任する司教たちには多くの理由がありました。
 私たちは250名で闘っていました。これが Coetus Internationalis Patrum と呼ばれるもので、「公会議保守派教父たちの国際的会」という意味です。私たちは闘いました。この会には会長が任命されていました。しかし告白すれば、仕事をしたのは会長ではありませんでした。会社などではよくこんなことが普通です。事務総長や秘書が仕事をします。事務総長はブラジルのディアマンティナ(Diamantina)の大司教シガウド大司教(Archbishop Geraldo de Proenca Sigaud, S.V.D. †)でした。 シガウド大司教は、ドイツで創立された神言会の会員で、ドイツ語を流ちょうに話しました。シガウド大司教は、デ・カストロ・マイヤー司教(Bishop Antonio de Castro Mayer †)やカルリ大司教(Archbishop Luigi Maria Carli †)とともに、公会議の最中、常に活動的でした。

 そこにいる私たちは4,5名でした。そして(リベラル派と)闘おうと試みていました。何故なら私たちには破局が来るのが分かったからです。
 分かりますか? もしも自由主義が本当に凱旋してしまうと、教会に何が起こるだろうか、ということが? そんなことがあれば教会は崩壊してしまいます。それはフリー・メーソンとの妥協です。全てのこととの妥協です。社会主義、共産主義、そして全ての誤謬との妥協です。妥協をし始めるのです。もう(誤謬と)闘うことをやめてしまうのです。そうでしょう? そうなったら「教会はもう宣教的(カトリックに回心させようとする)ではない」と言うようになるでしょう。ちょうどエイズのように、教会を内部から瓦解させるこのエキュメニズムが出るでしょう。
 私はこのことを自分の説教中に何度も言いました。教会は今日エイズにかかっている、と。私は医者ではありません。しかしエイズにかかると、私たちを毎日のように攻撃している様々な病気に対抗する体内の全ての抵抗力がなくなってしまうようです。私たちの組織を攻撃する全てに対抗する力が。血液や体の機能は、私たちの体を破壊しようとして来る全てに対して抵抗します。つまり、エイズという病は、体の病に対する抵抗力の消滅です。そこで、(エイズにかかると)結局は体が分解してしまうのです。何故分解するかというと、何故なら抵抗するものが何もないからです。抵抗力がなくなるからです。
 それと同じことです。これと同じことが教会に起こっています。抵抗力がなくなってしまいました。誤謬に対して悪徳に対して、そして教会内にある全ての病に対して、もはや抵抗力はありません。
 そのために教会は今すこしずつ少しずつ腐敗しているのです。教会は分解しつつあります。ちょうどからだが腐って風化していくようです。これは極めて大変な事態です。そこで、私たちは抵抗しようと試みているのです。もう一度、対抗しているのです。

 抵抗していた人々のほとんどは排除されてしまいました。一つ例を取りましょう。ダブリンの大司教の例です。私は彼のことを大変よく知っていました。彼は私の友人の一人でした。彼は同時に聖霊修道会(Congregatio Sancti Spiritus sub tutela Immaculati Cordis Beatissimae Virginis Mariae)の会員の一人でしたし、私はその修道会の総長を6年間務めました。私の言うのは、マッケイド大司教(Archbishop John Charles McQuaid, C.S.Sp. †)のことです。マッケイド大司教は辞任届けを出し、その二週間後に亡くなりました。大司教様は悲観して亡くなってしまったのです。悲痛のために亡くなったのです。
 大司教は、全身全霊を込めてローマにピッタリと愛着していました。全霊を込めて教皇様に忠実に密着していました。ところが彼は教皇様と謁見することを拒否されたのです。大司教はいわばローマから追放されたように感じました。大司教はこれを堪え忍ぶことが出来ませんでした。彼の健康は崩れてしまったのです。このような司教たちがどれ程、どれ程多くいたことでしょうか。何故なら、彼らは聖伝に愛着していたからです。
 私はもう一つ別の例を挙げたいと思います。マドリッドの大司教、モルシジョ(Archbishop Casimiro Morcillo Gonzalez †)大司教の例です。
 モルシジョ大司教は第二バチカン公会議の事務局の一人でした。事務局の人々はそう多くはなく、公会議には五,六名でした。
 第二バチカン公会議の事務局の員は第二バチカン公会議後すべて枢機卿になりました。ただしマドリッドの大司教モルシジョ大司教だけは別でした。彼も当然枢機卿になって然るべきだったのにもかかわらず、そうでした。何故でしょうか? 何故なら彼は保守派だったからです。何故なら、彼は自分の考えをしっかりと保っていたからです。
 そこで彼も悲痛の内に亡くなりました。もう望まれない人(persona non grata)になってしまったということを、人々が拒否する避けるべき人となったことを感じ取ったのです。その他の司教たちが皆、枢機卿になっているのに、自分だけは枢機卿にならず、枢機卿になりないということを感じ取ったのです。彼はとても謙遜な人間でした。彼が枢機卿になりたかったということではありません。しかしそれにもかかわらず、許されないことなのです。(このような処置に)反対する人々に、公会議の事務局の司教たちが皆枢機卿になっているのに何故マドリッドの大司教が枢機卿にならないのか理解できないスペイン人たちに、こう説明をしていました。私はこう説明を聞かされました。「マドリッドは枢機卿のいる司教座ではないから。枢機卿の司教座は、スペインの主席司教座であるトレドで、マドリッドではないから」と。
 たしかにトレドには枢機卿がいました。しかし待って下さい。私の故郷リール(Lille)では今まで一度も枢機卿がいなかったのに、司教を枢機卿にしました。それなら特別な司教座でなくとも枢機卿になることが出来るはずです。さらに、そのもっと良い証拠には、モルシジョ大司教が消え去ると、彼の後継に任命された大司教は、すぐにマドリッドで枢機卿になりました (Vicente Cardinal Enrique y Tarancon †)。

 つまり、人々は私たちにウソの説明を与えていたのです。そして何という枢機卿がモルシジョ大司教の後を継いだことでしょうか! 新しい枢機卿は、スペインで二重の婚姻を導入することに賛成だったのです。民法上の婚姻を望む人々には民法婚を、教会での婚姻を望む人々には教会での宗教婚を。カトリック信徒たちは、選択することが出来るとしようとしました。これがモルシジョ大司教の後継者のマドリッドの枢機卿が、スペイン、マドリッドでの枢機卿・大司教たちの会議で提案したことです。これの意味することは、つまり、伝統的な全ての人々に反対する本当の戦争があった、ということです。
 ですから、私がまだ狙われていても、第二バチカン公会議直後から狙われていたとしても、皆さんは驚くべきではありません。明らかです。もしもその時、まだ私に司教座があったとしたら、私もすぐに排除されていたことでしょう。明らかに。しかし私は聖霊修道会の総長であったので、一修道会の総長であったので、それはもっと難しいことでした。何故なら、私の進退は総長選挙にかかっていたからです。私自身が1968年に辞任を提出しました。何故なら、聖霊修道会が自己分解しつつあるのを見たからです。
 聖霊修道会は、全ての修道会に(パウロ六世)教皇が開催を要求した特別総会で、幾つかの提案にサインするように私に求めていました。全ての修道会は、公会議を適応させるために会議を開かなければなりませんでした。私が特別総会で過ごしたそのやり方を見て、全てが修道会内部がしっちゃかめっちゃかとさせているのを見て、私はこう言いました。
「こんなことでは、私は聖霊修道会の歴史において、私たちの修道会を実際上消滅させる文書にサインしたということで名前を残すことになるだろう。そのようなことは私は望まない。私はむしろ立ち去った方がよい、私の代わりに誰かがサインをするだろう、私は自分の修道会を崩壊させることにサインをしたくはない」と。
 そこで私は、修道者聖省にお願いして、総会に参列する義務を免除してもらいました。事務局員は私にこう言いました。
「もちろんです。その方がよろしい。今では第二バチカン公会議とともに、あなたの修道会の神父様たちが自分で修道会を組織する自由を与えることを知らなければなりませんからね。アメリカにでもちょっと旅行に行ってきなさい。そうしたら気が晴れるでしょう!」
 私は総長でした。私の任期は1974年までで、12年の任期で1962年から1974年まで総長として選ばれました。この特別総会は、1968年に開かれました。私はまだ総長であり、私は全総会を聖伝の方へと導びかねばなりませんでした。総長が全てをしていたからです。総長が委員会を任命し、全てについて話し合い、全てを指導していました。
 ところが突然、私は何でもなくなりました。私は最後の場所に身を置かざるを得なくなり、私はいかなる委員会のメンバーでもありませんでした。私は何でもなくなってしまったのです。彼らは私の代わりに3名の議長を望んでいました。それは出来ません。しかも聖職者聖省では、総長を助けようとしたでしょうか? いいえ! 「アメリカにでもちょっと旅行に行ってきなさい。そうしたら気が晴れるでしょう!」というだけです。・・・ 私は理解しました。もう何もすることがない、聖座は自分を助けてくれない、辞任するしかない、と。
 私は辞表を提出すると、もちろんすぐに受理され認可されました。彼らは私を聖霊修道会から排除できて大変喜んだのです。
 これが第二バチカン公会議後に起こった状況です。聖伝を求める人々にとってはとても辛いことでした。迫害でした。それはまだ続いています。皆さんは、そのようなケースを皆、知っていますね。いろいろな司教区のあなたたちの司祭らは迫害されています。何故でしょうか? 何故なら彼らが古いミサ聖祭を守っているからです。何故なら彼らがスータンを着ているからです。何故なら、彼らがまだすこしラテン語を使っているからです。何故ならあれだから、何故ならこれだからです。彼らは、最も小さな村であっても、ホンの小さな病院であっても、どこででも迫害されています。司祭がすこしでも聖伝を守ろうとすると、すぐさま司教によって狙われ、地方の聖職者達によって攻撃を受けます。ひどいことです。分かりますね。私は司祭たちが泣くのを、苦しみのあまり涙を流して泣くのを見ました。
 しかし、私たちが一体何をしたというのでしょうか? 私たちはただ単に、私たちがするようにと命じられたことをしていただけです。私たちが神学校に入学して以来、私たちは教わった通りにミサ聖祭をし続けているだけです。私たちは(このミサ聖祭で)叙階されました。私たちは同じやり方で祈りをしているのです。私たちは同じやり方で使徒職をしているのです。私たちは何も変えませんでした。するとどうでしょうか、突然・・・。以前は私たちはむしろ、自分たちの司教様たちから褒められていました。私たちは司教様たちから(そのままやり続けるようにと)励まされていました。今では突然、この公会議以後、私たちは悪人になりました。迫害を受けなければならない悪者になりました。司教区から排除されなければならない鼻つまみ者となりました。怖ろしいことです。ひどいことです。司祭達にとって辛いことです。
 最後に、聖霊修道会の数少ないアフリカ人司祭の一人が、聖伝のミサを捧げていました。彼は一度も新しいミサを捧げませんでした。彼はこう言いました。
「私はこの古い聖伝のミサで叙階されました。私は死ぬまでこの古いミサを守ります。何をしてもダメです。私は何も変えません。」
 そう言ってこの司祭はジャングルに留まりました。私のよく知っていた宣教師でした。彼はセネガルにいて、私がダカールの司教としていたとき、宣教師として働いてくれました。素晴らしい宣教司祭です。清貧で、アフリカ人としてジャングルの中で清貧に生活していました。現地人として現地の言葉を熟知していた素敵な宣教師です。
 彼は最近、ムラン地方(フランス)にいた自分の姪の結婚式のために来ていました。彼は姪の婚姻の儀式を執り行いました。彼は40年セネガルにいたのです。聖霊修道会のセネガル地区長はかれにこう言ったのです。
「あなたはもうセネガルに行ってはいけません。もう終わりです。」「何故でしょうか?私が何かいけないことをしましたか?」「あぁ! 何故ならあなたは聖ピオ五世の聖伝のミサを捧げているからです。」「ハイ、その通りです。私は聖ピオ五世のミサをたてています。何か悪いことでもしたのでしょうか?私のアフリカ人たちは、私のたてるミサが大好きで喜んでいます。私はいつもこのミサをたててきました。私はいつも同じミサをしてきました。何も変えませんでした。昔のまま続けています。彼らはとても喜んでいます!」「ノー!それはダメです!あなたはセネガルに行ってはなりません。」
 この宣教師は、心も体もこれらのアフリカ人たちを愛し、その村に愛着していました。そこで骨を埋めたいと願っていました。ところが! 彼は戻ることが出来なくなりました。私は、聖霊修道会の司祭たちから捨てられた彼が友人の一人のところにいることを知らされました。
 私は、かれが苦しみのために、悲痛のために、もうアフリカに戻ることが出来なくなったという苦悩のために癌にかかってしまったのだと本当に思っています。彼は3週間前に亡くなりました。私は、彼の結婚した2名の兄弟と2名の姉妹たちからの死亡通知を受け取りました。彼らは訃報にこう勇気を持って書きました。
「聖ピオ五世のミサを捧げ続けたために死亡」

 私は印刷された訃報にこう書かれたのを初めて見ました。「聖ピオ五世のミサを捧げ続けたために死亡」と。私は彼の妹に返事を書きました。こう書きました。
「何ということでしょうか。少なくとも、あなたは、このかわいそうな宣教師が亡くなった本当の理由を知っているのですね。素晴らしいことです。」
 彼女はこう返事を書いてよこしました。「大司教様、私は自分の兄がこれほど聖なる人であることを知りませんでした。私は彼が亡くなる前に、二日間看病しました。兄は死の床についていました。従って、兄は私のことなど気づきもしませんでした。兄はミサのことで頭がいっぱいでした。それに奪われていました。床につきながら、聖なるミサを捧げていました。兄は、ミサの祈りを最初から最後まで唱えていました。いつもの通り。兄は、死の床で、ホスチアを聖別し、自分で御聖体拝領をしていました。誰も兄を訪問しようとも、良い死を迎えるように助けようともしませんでした。兄の死の前日、兄は聖変化の聖別の言葉を唱え続けていました。繰り返し唱えていました。兄には私が見えませんでした。兄は自分のたてているミサに奪われていました。そして兄はこうして去っていきました。ミサのなかで。素晴らしかったです。私は自分の兄がこれほど聖なる人であると知りませんでした。」
 これは例です。三週間前に起こった例です。迫害というのは昔の話ではありません。今この時代、人々は愛徳について語っています。しかし彼らはこの司祭を遺棄したのです。捨てたのです。かれを励まし、苦しみを和らげ、聖なる死を遂げるようにと来る人は誰一人としていませんでした。厭わしいことです。これは本当に厭わしいことです。
 ですから、あなたたちはびっくりしないで下さい。私たちはリベラルな人々とことを構えているのです。ルイ・ヴイヨ(Louis Veuillot)はこう言っていました。
「リベラルな連中よりもセクト的(党派的)な人々はいない」と。

 本当です。私たちは体験によってそのことを知っています。リベラルな連中よりも党派的な人々はいません。そうです。彼らは、私たちに対して、党派的です。私たちを破壊尽くすためには何でもするでしょう。彼らは、私たちが聖伝を続けることが出来ないように、私たちが信仰において続けることが出来ないように、私たちを妨害するためなら、何でもするでしょう。

 私たちはものごとをありのままに言わなければなりません。この公会議中の操作を前にして、私たちは250名で抵抗しました。その後で、一体何をすべきだったのでしょうか? 私たちは小さなグループを作ろうとしました。私たちは公会議最後に集まってこう言いました。「私たちの間で小さな機関誌を作って互いに助け合おう」と。
 不幸なことに、皆さんもよくご存じのように距離があります。南アメリカに発つ司教たちもあれば、イタリアにいる司教たちもいる、他のものはあそこへ、別のものはここに。実際的に私たちの間に何の運動も残りませんでした。それぞれが各自の場所で抵抗したのです。しかし彼ら250名のほとんどは、辞任しました。目の前にするものを見て悲痛のあまり、ローマから来る全てのことに胸が締め付けられ、辞任したのです。ローマから来たものは彼らをして祭壇を変えさせ、あれを変えさせ、これを変えさせ、典礼を変えさせ、指針を変えさせ、神学校で、修道会でやり方を変えさせ、修道服を変えさせ、私服にさせ、等々全てのことを変えさせたのです。
 これら全てに胸を痛め、彼らは辞表を提出しどこかに隠居する方を選んだのです。高齢のために亡くなった方々もおられます。そこで私たちは実際的に二名だけが残りました。デ・カストロ・マイヤー司教様(Bishop de Castro Mayer)と私自身が二人が残って抵抗したのです。デ・カストロ・マイヤー司教様は、自分のブラジルのカンポス教区でその司祭たちと共に抵抗しました。司教様は古いミサを続けることを決意しました。

 その司祭たちは自分の教区では聖伝のミサをすることを確認しました。これらの29名の司祭たちは、多くはありません。しかし90万の教区民のいる大きな司教区です。司祭たちは多くはありませんが。この29名の司祭たちは聖伝のミサを続けたのです。いまでもまだ、デ・カストロ・マイヤー司教様が司教として辞任し死刑執行人(Carlos Alberto Etchandy Gimeno Navarro †)によって取り替えられたけれども、聖伝のミサを続けています。

 まさに(新任の司教は)死刑執行人でした!彼は聖伝のミサを捧げるこれらの司祭を全て小教区から追い出してしまったのです。29名の司祭たちは追放されました。一人、また一人と小教区から、皆一人残らず。一人も残りませんでした。最後の司祭は3ヶ月前に小教区から出されたばかりです。
 すでに素晴らしい小教区が存在していました。信徒たちで一杯の、やる気満々の、熱心で充ち満ちた小教区が! 彼らはそれらをみな排除することに成功しました。何故なら彼らには警察力が味方についているからです。(そうでなかったら)信徒たちは小教区に留まるように抵抗していたことでしょう。しかし政府は、司教たちを支援するために司教たちとの同意があり、公権力の前には何も出来ませんでした。何も出来ませんでした。
 そこで彼らは何をしたでしょうか? 古い(追い出された)教会の前に別の教会を建築したのです。彼らは、プロテスタント時代にカトリック信徒たちがやったように、(自分たちのカトリック)教会を建てたのです。プロテスタントが私たちの教会(の建物)を取ってしまったとき、カトリックはその前に別の(カトリック)教会を建てた、それだけです。いまではカンポスでは同じことが行われています。彼らは多くの教会を建築し、デ・カストロ・マイヤー司教様は神学生を受け入れ持ち続けているのです。何故なら、後任の司教が司教区で最初にやったことは神学校を閉鎖することだったからです。何故なら彼らは(神学校にいた)神学生たちに、そして神学校を指導して神学校で教えていた司祭たちに「いまから新しいミサを受け入れなければならない!」と命じたからです。
 神学生や司祭たちは答えました。「いいえ、私たちは新しいミサを受け入れません。私たちは聖伝を守ります。私たちは古いミサを守ります。」
「ああ、そう! それなら私は神学校を閉鎖します。」

 そこでデ・カストロ・マイヤー司教様は神学生たちを集めたのです。デ・カストロ・マイヤー司教様は古い神学校の中に小さな神学校を建設しました。残念なことに神学生たちの数はそれほど多くないので、あまり大きい神学校ではありません。神学生たちは8名でした。数は少なくとも、8名の将来の司祭たちです。昨年そのうちの2名が司祭に叙階されました。そこで2名の司祭が追加されました。彼らは大変忠実です。大変堅固です。
 そして私自身、特別な状況の下で聖ピオ十世会を始めました。何故なら、私には修道会もなく、教区もなく、自由の身だったからです。そんな時、ローマにいると、オラニエ神学生、そしてその他の神学生たちが私のところにやってきたのです。
「大司教様、私たちのために何かして下さい。私たちのローマのフランス人神学校は、今全てを変えているところです。全てを変えてしまいました。そして今では(スータンではなく)私服を着せられています。規律ももはやありません。ラジオはどこでもなっています。典礼も変えられました。もう神学校ではありません。この中に留まっていることは出来ません。私たちのために何かして下さい。」
 そこで私は、まだ何人か友達関係があるので、フリブールのことを考えました。何故なら私はフリブールの司教であるシャリエール司教(Bishop Francois Charriere †)様のことをよく知っていたからです。

 私はフリブール大学のことを考えていました。まだこの大学はこの当時、比較的伝統的で、神学生たちもよりよく養成されるだろうと考えたからです。しかしそこに数名がいるだけでは、長く続けることは出来ません。自分たちで何か組織しなければなりませんでした。そこで私はフリブールに足を運び、シャリエール司教様の同意をもって家を準備しました。シャリエール司教様はこう言ってくれました。
「どうか、何かして下さい。大司教様、私はまったくあなたの味方をします。全ては消え失せてしまいつつあると認識しています。私たちがどこに行くのか誰も分かっていません。私たちを教会をどこに連れて行ってしまうのか、誰も知りません。分かりますか?私は怖ろしく思います。」
 シャリエール司教様もまた、これらの大変化で病となってしまっていました。そこでシャリエール司教様は私にこう言ったのです。
「何か家を借りなさい、町中に何かを借りなさい。私はあなたに許可を与えます。何かして下さい。」
 そこで私はフリブールの町にたくさん部屋のある家を借りました。そして私たちは神学校を始めたのです。神学生たちは、フリブール大学にも通いました。ところが、フリブール大学さえも多くの革新によって影響を受け始めてきました。すでにドミニコ会司祭たちは講義の中で、婚前交渉は大変良いことであると説教をし始めていました! フリブールのカトリック大学で、そこまで来るともうお終いです。このような大学に留まる必要はもはやありません。それは出来ません。
 そこでこうやって別の家を探し、アダム司教(Bishop Francois-Nestor Adam †)様の許可をもって、私はエコンを見つけたのです。アダム司教様は、かなり聖伝的であったのですが、いろいろな出来事を目の前にして恐れをなしてしまい、残念なことに確固として留まりませんでした。

 しかしアダム司教様はこう言って私たちに2つの家を与えて下さいました。
「大司教様、もしよろしかったら、ここに2つの家があります。お望みならば、あなたはここではご自由になさって下さい。」
 そこで私たちはエコンの神学校を開きました。5年間は順調にいきました。しかし個人的には、劇的な事件が来るだろうと確信していました。
 私はこう自分に言って聞かせました。「私は新しいミサを望まない。私は変化や典礼改革を望まない。私は神学校になされている改革を望まない」と。何故なら(その新しい改革によれば)神学生たちを教授会に受け入れ、神学生たちの意見を聞かなければならないことになっていたからです。「神学校の民主化」をしなければならないことになっていたからです。つまり、神学生たちも自分たちの要求や主張を取り入れることが出来るような大議会を設置しなければならないことになっていたからです。
 その時です、ガロンヌ枢機卿(Gabriel-Marie Cardinal Garrone †)が全世界の神学校でこのような指針を送っていたのです。
 それはだめです。出来ません。こうして神学生を養成するのではありません。私たちは聖伝に従って神学生たちを養成しようとしていました。それは私自身がローマで養成されたように、過去私たちが養成されたようにそのままの仕方で養成します。そこで私は、ある日、私は告発され狙われるだろう、と思いました。もちろんその通りになりました。
 フランスの司教たちは、ルフェーブル大司教によってエコンで養成を受けた神学生たちがある日フランスに戻ってくる、と思うとぞっとしたのです。「そうなったらどうなることだろうか? 聖伝に従って教育を受けた司祭が、やってくる、自分たちの教区に来る、イヤだ!どんな値を払ってもそれはお断りだ。絶対ダメ、受け入れられない!」と。
 そこでローマに苦情が上げられました。極めて進歩主義者であったヴィヨ枢機卿(Jean-Marie Cardinal Villot †)はすぐにこう言ったのです。

「そうだとも。エコンはもう終わらせなければならない。エコンの話はもう終了だ。廃校すべきだ。」
 マルセイユのエッチャガライ枢機卿(Roger Marie Elie Cardinal Etchegaray)はマルセイユのあらゆるところでこの噂を広めました。
「あのね、エコンはもう終わり。6ヶ月でもう話もしなくなるよ。終了。」

 もちろん、そこでローマから視察団が送られてきました。全ては前々から準備されていました。プログラムはもう決まっていたのです。まず視察団を送る、つぎにルフェーブル大司教を調べる、それから廃校の教令。「終わり!神学校を閉めなさい。廃校です。生徒たちを家に帰らせなさい!」しかもこれを学期中にその真っ最中にする。一学年が終わるのさえも待つことなく、私たちは5月の上旬でした、一学年は6月に終わるのです、それも許されないとされたのです。「さあ、さあ、神学校を閉めなさい。教授陣を帰らせなさい。神学生たちを家に帰らせなさい!」
 ウソのような話です。しかし人間的にいえば、彼らの行動のやり方を良く見なければなりません。暴力的で、悪意に満ちたやり方でした。もっとも基本的なことをバカにしていました。最も基本的な礼儀もありません。全く何もありませんでした。人をはなからバカにしているのです。もちろん、そんなこと(=神学校の廃校)はそんな具合に実現されるわけにはいきません。まず不正義で不法なやり方でした。何故ならシャリエール司教様の後継者であった、マミー司教(Bishop Pierre Mamie)様は、聖ピオ十世会を廃会する権利を持っていなかったからです。

 ある司教様が一修道会を自分の司教区に受け入れ、創立するとすると、もはや彼はそれを廃止できないのです。廃止するのは、ローマでなければなりません。司教はローマに、ローマが修道会を廃会するように要請することはできます。しかし自分ではそうは出来ないのです。
 もしそうであったら、あまりにも簡単すぎる、ということを皆さんはお分かりのことと思います。司教は自分の司教区において修道会の設立を許可します。司教が亡くなると、新しい司教が来てこう言う。「アァ、ダメ!私はこの修道会を望まない。終わり。出て行きなさい。廃止の教令、終わり!私はこの会を望まない。」こんなことは出来ません。理性的ではありません。このようなことはあり得る話です。そこでローマは教会法の中でそのことを明確にしています。ローマの方では、司教が自分の司教区である修道会を受け入れたのなら、それを廃止することは出来ないことになっています。もし廃止させたいなら、ローマに申請しなければなりません。ローマが廃止の教令を出さなければなりません。
 ところが、マミー司教は自分で廃止の教令を出したのです。それは全く法的効果を持ちません。何でもありません。これは法に反しています。そこで私はそれを無視しました。そのために私は「聖職停止」になったのです。従って、私はそれも無視しました。何故なら非合法だと知っていたからです。私は手紙を書きました。私はローマに裁判を申し込みました。私はそこでこの教令は非合法である、カトリック教会法典に反している、と書きました。あり得ません。私たちは続けます。何でもなかったかのように私たちは続けたのです。
「それでは、あなたは司祭叙階をしてまでも続けるのか?」

 私は言いました。「はい、そうです。やめる理由はないからです。聖ピオ十世会は廃止されていない、何故なら廃止の教令は非合法であるから。もし望むなら、教会裁判を起こすことが出来ます、それは私の望むところです。しかし私たちを廃止することは出来ません。私は司祭叙階をし続けます。」 彼らの反応は「聖職停止」でした!
 何故この「聖職停止」も何の価値も持っていないのでしょうか?何故ならこれは非合法な行為に基づくものだからです。非合法的であった行為の結果だからです。だからこの「聖職停止」も無効です。しかし彼らが私の顔に投げつけたのはこれでした。全ての司教区でそうでした。私はここに来ると、ここの司教は3,4日前にこう言いました。「ルフェーブル大司教は「聖職停止」だ、そして反ローマだ、これに反対している、あれに反対している」と。これが人々が私に言う言葉です。反乱者、反抗者、などなど。
 カトリック教会が現実に、今おかれている状況に自分の身をおいてみる必要があります。これは大変重要なことです。
 その時、私たちはこう言わなければなりません。天主様は私たちの事業を祝福して下さっている、と。私たちはそれを考えられないやり方で見ています。何故なら、1970年以来、オラニエ神父様が1971年に叙階され、聖ピオ十世会の最初の叙階司祭でした。1971年、この叙階式以降今現在(=1987年)まで、私は約325名の司祭を叙階してきました。すでに小さな軍隊です。
 そして天主様のお恵みで、私たちの神学校は増えました。何故なら私たちには今、6番目の神学校がオーストラリアで開かれようとしているからです。ですから、私たちにはエコン、フラヴィニー、ドイツのツァイツコーフェン、アメリカの神学校、アルゼンチンの神学校があります。そして今ではもうすぐオーストラリアの神学校です。

 皆さんは私にこう言うことでしょう。「それにしてもすごいことですね。」「でも、どうしてそんなに有名になったのですか? エコンというちっぽけな村で、ミシュランの地図にも載っていないようなところ、エコンなど存在していないのに、それなのにあなたは世界中で知られるようになりましたね。一体何をしたのですか?」と。
「それはローマです。彼らが私を叩いたのです。彼らが私の頭に大きな一撃を加えたのです。そうでしょう?」
 マスメディアは皆こぞってすぐに反応しました。皆さんはそれが何か想像できますか?マスメディアは、皆、私のあとを追っかけてきたのです。「聖職停止」、大司教様、これは何ですか?何が起こっているのですか?テレビ、ラジオ、新聞が動きました。
 私の「聖職停止」の時に起きたこの一種の大騒動は、リールでの例の有名になったミサを引き起こしました。これは私が想像さえもしていなかった出来事でした。リールの私の地元の友人たちが私を招待してミサを捧げるように頼まれたのです。私がそこに以前行った時は、しばしば五,六〇人ほどの人々がミサに与りました。ですから「良いですよ。ミサを捧げにいきますよ」と答えました。ちょうど今日、私がミサを捧げに来たのと同じです。五〇名、百名くらいを考えていました。
 ところが日がたつにつれて、招待した友人たちは私に手紙をよこしたのです。もっと多くの人々がミサに与るようだ、と。多くの人々が私たちに手紙を書いてきたのです。リールのミサはいつあるのか?あれなのか、これなのか?と。そこで、ではもっと大きな場所を準備しなさい、と言いました。そこで五百名分の場所を確保しました。しかしそれでも収まり切れそうもありませんでした。
 いろいろなところから連絡やメッセージを受けて、リールでのミサはいつなのか尋ねてきたのです。一体どうなっているのか?一体何が起こっているのか? じつはマスメディアがこの話をいろいろなところで宣伝していたのでした。
 聖伝を守ろうという人々は「私たちはルフェーブル大司教を支持しなければならない」と言っていました。ルフェーブル大司教を一人にさせていてはいけない、ルフェーブル大司教は叩かれた、私たちの応援を表さなければならない、と皆が口々に言ったのです。彼らはニースからも駆けつけました。列車ごと借り切ってリールに来たのですね。
 少なくとも一万名、千二百名の人々がリールのミサに来たと思います。そこでラジオやテレビは、至る所から、あちこちから、大騒動でした。アメリカからも、全ヨーロッパからも、いろいろなところから来ました。ウソのような話でした。コロンビアに住んでいる妹がいますが、妹は私にこう言ってきました。「お兄さん、一体何をしでかしたのですか?今、コロンビア中の新聞はお兄さんのことで持ちきりですよ!」
 もしも私がローマから叩かれなかったならば、私たちはそのまま続けていたことでしょう。だれも私についての話もしなかったでしょう。私はエコンにいたままで、私のこの小さなところにいただけでしょう。
 しかし現実は、全世界でした。世界中で青年達がこれを読んだのです。「あれっ、司教が一人で聖伝を守っている。あっ、すごいね!」
 多くの人々が私に手紙をよこしてくれました。多くの人々が尋ねてきました。そうして爆発的にふくれあがったのです。今では私たちはもうすぐ神学校を六校持とうとしています。私たちには今五校で神学生たちを受け入れ、だいたい270名から300名の神学生たちがいます。大神学校の神学生たちです。本当に特別なことです。
 本当に、これら全てを導いてくれたのは天主様の御摂理です。私ではありません。宣伝活動をしたのは私ではありませんでした。自然とそうなったのです。御摂理です、それから修道者、修道女、カプチン会修道士、ドミニコ会修道士などが私たちの神学校に来て養成を受けるようになりました。モルゴンの小さなカプチン会の修道士たち。アヴリエのドミニコ会修道士たち。ルカルー神父様の司祭たち。彼らが養成を受けるために私たちのところにやってきたのです。私はドン・ジェラールのベネディクト会修道士たちも叙階します。などなど。不幸なことに、ドン・オギュスタンのベネディクト会修道士たちは私たちを離れてしまいました。残念です。私はドン・オギュスタンのベネディクト会士を24名司祭に叙階しました。
 しかしこんな聖伝の爆発的な人気は、信じられないことです。皆さんは御自分の目で見て確かめて下さい。今から十年、十五年前では、今朝のようなミサを、このようなミサ聖祭を大会場でするなどと出来なかったと思います。昔でしたら、十名、十五名、二十名がそこそこだったでしょう。今ではそれでも、今の教会を揺さぶっている劇的な状況を自覚しだしています。そうですね?信仰を守るために、聖伝を守る必要性を自覚しています。それ以外ではありません。これはいわゆるフォークロア的なちっぽけなことを見に来るためにではありません。これは真実に信仰を守るためです。
 そして、皆さんの子供達のために、信仰を子供達に伝えて下さい。そこから司祭叙階の重大性が生まれてきます。また管区の重要性、組織の重要性が生まれます。何故なら最も欠如しているのは司祭の数だからです。
 私たちには今の司祭数の二倍、三倍の司祭たちが必要です。これが現状です。私は皆さんにありのままを単に伝えています。極めて単純にものごとを見て下さい。私たちは引き裂かれています。ありのまま言わなければなりません。私たちは引き裂かれています。
 私たちが教会の困難について語るのは決して喜んでそうするのではありません。私たちはピオ十二世の時代に生きていたかったと思います。私は、ダカールで教皇使節(Delegue Apostolique)であったとき、毎年ピオ十二世教皇様と謁見しました。この教皇様とお会いするのは何という喜びだったでしょうか。教皇様はいつもの多くの心配を持っていたにもかかわらず、ミッションの全てのことについて質問し、尋ね、全てのことに興味を持たれ、私たちのミッションに関心を持って下さいました。素晴らしいことです。何と素晴らしいことでしょうか。ピオ十二世教皇様と接するのは。教皇様は本当に教会の使徒継承性のセンスを、教会のセンスを持っておられました。本当に。ところが第二バチカン公会議以後、大災害になりました。本当の災いでした。
 ですから、私たちは働き続けなければなりません。そして、もしもっとよく知りたいと思われるのでしたら、先ほども申し上げましたように、私たちは最近三冊の本を作りましたから、それをご覧下さい。『迷える信徒への手紙 --- 教会がどうなったのか分からなくなってしまったあなたへ --- 』、これは私たちの活動について一般的に知りたいと思う人々のためにあります。私たちの闘いの深い理由と、ローマとの関係で私たちが持つ難しさの深い理由、教義上の難しさについてを知りたいと望まれる方々は、自由主義に関する『彼らは主を退位廃冠させた』(Ils L'ont decouronne)をお読み下さい。
 それから Fideliter 誌の最近号は私の司教四十周年特別号で、私たちの生きているこの歴史の道標を幾つか掲載しています。これは歴史としてお読み下さい。簡単に読むことが出来ます。ですからこれをお薦め致します。これらの出版物は、皆さんを助けてくれるでしょう。もしかしたらご家族の中でも。時には、あまりよく知らない人びと、情報が入っていない人、皆さんを批判する人、何故なら「あれまぁ!あなたはルフェーブル大司教と一緒にいるの?」「あぁ!あなたはこうだ、ああだ!」と言われることがよくあるでしょうから、これらの人々にこう言ってあげて下さい。「これを手にして読んで下さい。良くみて御自分で判断して下さい。私たちが本当に、手に負えない極悪人なのか、行動を見て判断して下さい」と。
 もしも私たちがダダをこねているとか、教会を分裂させようとしているという人がいたら、それはそのようなことから、私たちは遙か遠くに、およそ遠くにいます。私たちは何も変えなかったのです。私たちは続けているだけです。いつもそうしていたように。私は個人的に何も変えませんでした。全く何も。教義においても典礼においても。私たちは神学校で教えられた通り、義務として私たちに教えられた通り、ミサを守ること、教義を守ることを、絶対的に続けているだけです。
 ところが突然、ある聖職者が新しい指針を押しつけたのです。全くリベラルな新しい教会の指針です。私たちはすぐにこう考えました。
「これは教会の大惨事になる。大惨事だ!」と。 事実、私たちはこの大惨事を今この目で見ています。
 教皇様のアメリカ訪問のときになされた新聞の記事を御覧になるだけで充分です。アメリカではどこまで行っているのかを知るのに。アメリカのカトリック信徒たちは同性愛を擁護しています! こんなことがあり得るのでしょうか? 教皇様が同性愛にノーと言ったとして、アメリカのカトリックは教皇様を攻撃している、ウソのような話です。アメリカの司教たちは司祭の結婚を要求しているし、女性司祭を求めているのです。アメリカの司教たちは! 私たちは一体どこにいるのでしょうか? 教会に何が起こったのでしょうか?

 教会に何も起こらなかったなどと言わないようにしましょう。
「間違っているのはあなただ、あなたは自分のやり方を変えようとしない、自分の見方に固執している。あなたは間違っている。あなたは適応しなければならない!」とよく言われます。
 一体何に適応するのでしょうか?私は言ったことはこうです。
「もしも私が現在、神学校を現代に適応させるなら、もう神学校のドアに鍵をつけることができます。そうなったらもう終わりです。他の神学校と同じように、もう成功しなくなってしまいます。もしも彼らが新しいやり方のために、召命がなく、多くの神学校を閉鎖せざるを得なかったのなら、同じことが私の神学校にも起こるでしょう。もしも同じ原理を適応させるならそういう結果になります。反対に、信仰において、聖伝において神学校を守るなら、召命はやってきます。真面目な召命が多くやってきます。そして仕事はなされるのです。」

 淑女、紳士の皆さん、以上です。皆さんを励まし、私たちが反抗しているのでもなければ教皇様に反対しているのでもないということを理解するために、以上のことを言うことが出来ると思います。私はいつもその通りでしたし、私はそれを神学生たちや司祭たちに繰り返して言います。「教皇制度に忠実であれ!」と。
「あれっ、でもあなたは教皇様に忠実ではありませんね!」
 教皇様が私たちの信仰を守らないなら、私たちの信仰を助けようとしないなら、そのことにおいて私は教皇様に従うことが出来ません。残念です。しかしこれは、家庭の父親が子供達に、デパートで物を盗んでこい、と言うのと全く同じです。例えば食べ物が必要だ、デパートでかっぱらってこい、と。子供達は行かなくてはならないのでしょうか? いいえ。盗んではなりません。盗むことは禁止されています。同じことです。
 エキュメニズムをしなければならない、といいます。全ての宗教と兄弟関係を結ばなければならない、と言います。全ての宗教は同じであるかのようにしなさい、といいます。出来ません。私たちは信仰を失ってしまいます。それはなりません。
 私たちの信仰に毒を盛ろうとしているのでしょうか?私たちはそれに同意は出来ません。私たちは信仰を守ることを望みます。たとえ教皇様がエキュメニズムの道を奨励していたとしても、です。
「でも、教皇様は不可謬です。教皇様は間違いません。」といわれるかもしれません。

正確な一定の条件を満たしている場合、確かにそうです。教皇様が全世界に、真理を信ずることを、あるいは道徳の面であれこれの態度を取るべきであると要求するとき、そうです。しかしそれ以外で教皇様がなされることが全てそうであるとは限りません。教皇様でも背教へと導くような、背教に導くような司牧をすることがあり得ます。もしかしたら無意識のうちに、でもあり得ます。私は個人的に教皇様の良心の中を読むわけではありません、しかし教皇様の行動の事実の中を読みます。
 もしも天主様が黙示録の中で、全世界での背教があるだろうと予知しているのなら、もしも聖ルカの聖福音のなかで私たちの主イエズス・キリストが自分が再び戻ってくるときに地上に信仰を見出すだろうかと自問しているのなら、聖ルカの福音で私たちの主イエズス・キリスト御自身が言われている言葉です、「人の子が来るとき、地上に信仰を見い出すだろうか・・・」と言われたのなら、この信仰が消え去ってしまうためには、この全世界での背教と棄教があるのなら、ローマが揺るがされなければなりません。もしもローマが揺るがなかったならば、もしも教皇様がいつも堅く立っていたならば、もしも全ローマが、その全ての聖なる機関において、いえ、私は「ローマの聖職者たち」と言いましょう、もしもローマの聖職者たちが信仰において堅く立っていたなら、信仰は消え去ることはないでしょう。それはあり得ません。
 天主様がこの信じられないような試練を教会に起こることをおゆるしになったとしたら、ローマが、曖昧な表現の雲に、ハッキリしない言い回しの雲に、リベラリズムの雲に揺るがされるのを許されたのでしょう。現実がこうです。私たちは大きな神秘を生きています。
 だからといって私たちが絶望して「何だ!もしもそうなら、カトリック信者であっても仕方がない、信仰を守っても仕方がない、宗教を実践しても仕方がない、祈っても無意味だ」などという理由にはなりません。
 私たちは自分の霊魂を救わなければなりません。今までに優ってそうです。私たちの義務は、反対に信仰を守ることです。信仰をよく守ることです。危険が大きいとき、その時こそ注意して私たちの決意を表し、殉教者のようにしなければなりません。
 殉教者たちは、信仰を守るために自分の血を流しました。私たちはまだ血を流したわけではありません。私たちは、私たちの活動、祈り、犠牲、熱心を信仰という目的のために捧げることが出来ます。
 ファチマの聖母マリア様に、もう一度言います、私が今朝申し上げた通り、ファチマの聖母マリア様に信頼致しましょう。ファチマの聖母マリア様は現代のために特別に来られました。聖母マリア様は今世紀のために来られました。天主の童貞母は1917年に来られたのです。聖母マリア様が来られてもう70年ですね。だから私たちはファチマに巡礼に行きました。聖母マリア様に祈りに。マリア様に私たちを助けて下さるように願いに行ったのです。
 しかしむしろ聖母マリアこそが私たちにあらかじめこう警告することを望んでいたようです。私たちの手をお取りになって、「気をつけなさい、さあ気をつけるのですよ、あなたたちは極めて大変な時代に向かっていますよ、共産主義が全世界に広がるでしょう、注意しなさい、気をつけなさい、祈りなさい、いけにえを捧げなさい、犠牲しなさい、信仰において堅く立ちなさい、ロザリオの数珠を取って祈りなさい!」と私たちに語っているようです。
 私たちは天主の御母聖マリアの助言を聞きましょう。そうすれば聖母マリア様は、私たちをして真のカトリックとして留まるように助けて下さるでしょう。

 ご静聴ありがとうございました。