2008年3月1日土曜日

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の説教 1979年9月23日司祭五〇周年記念ミサ、パリ(フランス ) にて

アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 1979年9月23日にルフェーブル大司教様がパリで祝った司祭五〇周年記念のミサ聖祭の御説教をご紹介します。

Sermon du jubile sacerdotal - Paris, le 23 septembre 1979

英語訳 JUBILEE SERMON of Archbishop Lefebvre on the occasion of his sacerdotal jubilee, September 23, 1979


親愛なる兄弟の皆様、

 この美しい五〇周年の儀式の際に皆さんに申し上げたい言葉を言い始める前に、この素晴らしい催しを成功させた全ての方々に感謝するのを許して下さい。

 個人的にはエコンの神学校の祭壇の周りで、私の司祭叙階記念をひっそりと個人的に祝おうと考えていました。しかしサン・ニコラ・ドゥ・シャルドネ教会の親愛なる神父様たちと私の周りにいる愛する司祭たちが、何度も何度もこの司祭叙階五〇周年の機会に私の感謝と祈りに一致したい全ての人びとがそうすることができるようにと私を招いたので、私はそれを拒むことが出来ませんでした。そこで私たちは今日、こんなにも多くの人々が集まって、この司祭叙階記念にいろいろなところから、アメリカ、ヨーロッパのまだ自由な国々から、私たちはここに集ったわけです。

 それではこの集いを、この集会を、この儀式を、私はどう定義したらよいでしょうか? それはこうです。カトリック司祭職とカトリックミサ聖祭を信ずる皆さんの信仰の献上です。


Sermon du jubile sacerdotal - Paris, le 23 septembre 1979

 皆さんが集まったのはこのためであると私は本当にそう考えています。皆さんはカトリック教会に対する、そしてその最も美しい宝物に対する、天主が人間になさり給うた最も崇高な賜物、つまり司祭職といけにえのための司祭職、私たちの祭壇で今も続く私たちの主のいけにえのための司祭職に対する愛着を表すためにここに集まりました。

 これが皆さんがここに集まった理由です。今日、世界中の至る所からやはり来たこれらの全ての親愛なる司祭たちに囲まれて、私たちがここにいる理由です。これらの司祭たちはもしも今日が主日ではなかったら、もっと多く集まることが出来たでしょう。何故なら、これらは自分の持ち場でミサ聖祭を捧げる義務を果たさなければならないからです。しかし心では私たちと共にいる、と私たちに言ってくれました。

 もし許して下さるのなら、私はこの半世紀の存在の間私がその証人となった幾つかのできごとを思い返したいと思います。それはカトリック教会のミサ聖祭が私たちの生において、司祭の生において、司教の生において、教会の生命において、どれ程重要であるかということを示すためです。

 ローマのフランス人神学校サンタキアラの神学生であった私たちは、典礼儀式を愛するように教えられました。私は神学生時代、式長である特権を得ました。私たちが「大式長」と呼びならわしたこの役目は、昔オタン教区の司教であったルブラン司教(Bishop Lucien-Sidroine Lebrun)や、今でもリヨン教区の補佐司教であるアンセル司教(Bishop Alfred-Jean-Felix Ancel)などが神学生時代に果たした責務です。私はそこで、典礼に関する知識で有名であった敬愛するエギ神父様(Pere Henri HAEGY)の指導の元で、この大式長でした。

 そして私たちは祭壇を準備することを愛し、典礼儀式の準備を愛していました。荘厳な大儀式が私たちの祭壇の周りで執り行われるその日の前日などは私たちは大喜びでした。私たちは神学生として、祭壇を愛することを学んだのです。

"Domine dilexi decorem domus tuae
et gloriam habitationis tuae."

 この詩篇の一節は、(ミサの時)祭壇で私たちが手を洗うときに唱える言葉です。

 その通りです。「主よ、われは御身の家である神殿の輝く装飾を愛せり、われは御身の住まいの栄光を愛せり。」

 これが、敬愛するル・フロック神父様の素晴らしい指導の元で、ローマのフランス人神学校で私たちに教えてくれたことです。ル・フロック神父様は愛された司祭で、歴代の教皇様の回勅を解説することで、その当時のできごとをハッキリ見ることを教えてくれました。

 1929年9月21日、リールのロワヤル通りにある聖心聖堂でリエナール司教様(Achille Cardinal Lienart)によって司祭として叙階され、私はその少し後、つまり2年後に、既にガボンにいた兄と一緒に働くために宣教に行きました。そしてそこガボンで、私はミサが何であるかを知り始めたのです。

 確かに、勉学によって私たちの信仰のこの偉大な神秘が何であるかを私は知っていました。しかしその全ての価値、その効果、その深さは理解していませんでした。そのことは、このアフリカで、特に宣教師としてまず神学校で次に現地の人々と共にアフリカの人々のまっただ中でジャングルで過ごした十三年のガボンで、日を経るごとに、年を経るごとに体験により知っていったのです。

 その地で私はこの目で見ました。はい、その通りです。ミサ聖祭の聖寵がなし得ることを見ました。私たちのカテキスト(公教要理を教える教師たちのこと)の幾人かがそうであったこの聖なる霊魂たちの中にその効果を見ました。洗礼の恵みによって変化を受けたもと異教徒達の霊魂は、ミサ聖祭に与ることによって、御聖体によって、変わっていったのです。これらの霊魂たちは十字架のいけにえの神秘を理解し、十字架の苦しみにおいて私たちの主イエズス・キリストと一致していたのです。彼らは自分の犠牲と苦しみを私たちの主イエズス・キリストと共に捧げていました。彼らはキリスト者として生きていました。

 私は名前を挙げることが出来ます。ンジョレのポール・オッシマ(Paul Ossima, de Ndjole)、ランバレネのユジェヌ・ンドン(Eugene Ndong de Lambarene)、ドンギラのマルセル・ムバレ (Marcel Mebale de Donguila)、そしてセネガル人の名前を挙げて続ければ、フォレスチエ氏(Monsieur Forster)、彼はセネガルの会計長であり、このデリケートで重要な職務をするように、同僚から、そしてイスラム教徒たちからも選ばれたのです。何故なら彼の誠実さと潔癖さのためです。

 これがミサ聖祭の恵みが生み出した人々です。毎日ミサ聖祭に与り、熱烈に御聖体拝領をし、彼らは模範となり、周りにいる人々にとって光となった人々です。この他にも聖寵によって変化を受けた多くのキリスト者の男女がいます。

 私はキリスト教となったもともと異教の村が、霊的に超自然的に変わっていったのみならず、肉体的にも社会的にも経済的にも政治的にも変わっていったのを見ることが出来ました。何故ならこれらの人々は、以前は異教徒でしたが、自分の義務を果たさなければならないことを自覚し、試練にもかかわらず、いろいろな犠牲があったにもかかわらず、自分の約束を特に婚姻の約束を守る必要性を自覚していったのです。その時、村は少しずつ聖寵の影響の下、ミサ聖祭のいけにえの恵みの影響を受けて変わっていきました。これらの村はみながみな自分の聖堂を建てることを望みました。これらの村はみな司祭の訪問を待ち望んでいました。宣教師の訪問を!彼らはミサ聖祭に与ることが出来るように、罪の告白をして御聖体拝領することが出来るように、司祭が来るのを待ち望んでいたのです。
 多くの霊魂は天主様に捧げられもしました。修道士、修道女、司祭として自分を天主様に捧げ、天主様に聖別したのです。これがミサ聖祭の実りです。

 何故でしょうか?

 私たちはこの変化の深い動機を少し調べてみる必要があります。その答えは「犠牲」です。

 いけにえ・犠牲という概念は、深くキリスト教的な概念であり、深くカトリック的な概念です。天主御自身である私たちの主イエズス・キリストが私たちと同じ肉体を取り私たちに「もしも救われたいのなら、自分の十字架を担って私に従え」と言われたのなら、そして私たちの主が十字架の上での死という模範を私たちに与えたのなら、御自分の御血を流されたのなら、私たちの生活はいけにえ・犠牲なしに過ごすことはできません。天主の哀れな被造物であり罪人に過ぎない私たちが、私たちの主の後に従わないなどと、私たちの主の苦しみと十字架の後に従わないなどと、敢えて言うことが出来るでしょうか。これがキリスト教文明の全神秘です。これがキリスト教文明の、カトリック文明の根本にあるものです。

 つまり、人生における、日常生活における犠牲を理解すること、キリスト教的な苦しみを知性的に理解すること、苦しみを悪としてではなく、たえることのできない苦痛としてではなく考えること、私たちの主イエズス・キリストの苦しみと共に自分の苦しみと病苦を分かち合うこと、十字架を見つめながら、カルワリオにおける私たちの主イエズス・キリストの御受難の続きであるミサ聖祭に与りながらそう理解することです。

人生における、日常生活における犠牲を理解すること、キリスト教的な苦しみを知性的に理解すること、苦しみを悪としてではなく、たえることのできない苦痛としてではなく考えること、私たちの主イエズス・キリストの苦しみと共に自分の苦しみと病苦を分かち合うこと、十字架を見つめながら、カルワリオにおける私たちの主イエズス・キリストの御受難の続きであるミサ聖祭に与りながらそう理解すること

 苦しみをそのように正しく理解すると、その時苦悩は喜びになります。苦痛は宝になります。何故なら私たちの主の苦しみと一致したこれらの苦しみ、殉教者や全ての諸聖人、全てのカトリック信徒、この世で苦しむ全てのカトリック信者と一致した苦しみ、私たちの主の十字架の苦しみと一致した苦しみは、説明することの出来ない宝、えも言われない宝となるからです。苦しみは霊魂の回心のために、私たちの霊魂の救いのために特別の効果を持つことになります。

 キリスト教の聖なる多くの霊魂たちは、苦しみたいという同じ望みを持っていました。彼らは私たちの主の十字架ともっともっと一致するために苦しむことを望んでいたのです。これがキリスト教文明です。

 聖性のために苦しむ者は、幸いなるかな、
 貧しいものは、幸いなるかな、
 柔和なものは、幸いなるかな、
 憐れみ深いものは、幸いなるかな、
 平和をもたらすものは、幸いなるかな、

 これが、十字架が私たちに教えてくれるものです。これが私たちの主イエズス・キリストが私たちに十字架の上から教えてくれることです。

 つい最近まで異教に染まっていたこれらの国々に浸透したキリスト教文明は、彼らを変えていき、カトリックの首長として自分を与えることを望むまでに成長しました。私自身、これらの国々のカトリックの首長に援助し、知ることが出来ました。カトリック国民はカトリックの首長を望みます。それは自分たちがその政府と国の全ての法律を私たちの主イエズス・キリストの掟と天主の十戒に従わせるためです。

 もしもフランスがあの当時、カトリックと言われていたフランスが本当に自分の持っていたカトリック勢力としての役割を果たしていたら、これらの国々の信仰において、別のしかたで支援していたことでしょう。もしもフランスがカトリック信仰においてこれらの国々を支援していたなら、これらの国々は今のように共産主義に脅かされていることはなかったでしょう。もしもそうであったら、アフリカは今のようなアフリカではなかったでしょう。

 (今のアフリカの苦しみは)アフリカの人々自身のせいというわけではありません。むしろアフリカの諸民族に深く根を下ろしていたキリスト教信仰を活用することを知らなかった植民国家の責任です。それを知っていたら、信仰を維持し共産主義を追放するために助けるべきであったこれらの国々にたいして兄弟的な影響力を持ち続けるために力があったでしょう。

 もしも今、私たちの眼差しを歴史に向けると、私が今しがた言ったことはコンスタンティノ皇帝の後の始めの数世紀に私たちの国々で起こったことでした。私たちはカトリックに改宗しました。私たちの先祖はカトリックとなりました。国々の首長たちは回心しました。数世紀の長きにわたって彼ら王たちは、私たちの主イエズス・キリストに自分の国を捧げたのです。彼らは自分の国をイエズス・キリストの十字架に従わせたのです。聖母マリア様が自分たちの国の元后(女王)であることを望んだのです。

 英国王であった聖エドワルドの素晴らしい手紙を読むことが出来ます。またフランス王であった聖ルイ、ゲルマンの王であった聖ヘンリコ、ハンガリーの聖エリザベト、また全てこれらの聖なる王の書いた文章を読むことが出来ます。彼らは私たちカトリックの国の頭であり、キリスト教世界を作り上げたのでした。

 フランス王であった聖ルイは、ミサ聖祭に対する何と大きな信仰を持っていたことでしょうか! 彼は毎日二回ミサに与っていました。王が旅をしている間でも、ミサの聖変化の時に教会の鐘が鳴るのを聞くと、馬から下りたり馬車から降りて跪いたのです。そしてその瞬間になされる聖変化と一致していたのです。これがカトリック文明でした。ああ、私たちは何と遠くにいることでしょうか。今では遙か遠くになってしまいました!

 アフリカと私たちの歴史、特に私たちのフランスの歴史におけるキリスト教文明のこれらの描写の後で私たちが思い起こすべきもう一つの出来事は、教会に起きた最近の出来事、大きな出来事です。つまり第二バチカン公会議という出来事です。

 私たちは教会の敵はカトリックのミサ聖祭の価値をよく知っている、もしかしたら私たちよりもよく知っているということを認めなければなりません。このことについて一つの詩が作れました。その詩の中で、サタンが言う言葉があります。それによるとサタンは、一つのミサ、本当のカトリックのミサが捧げられるたびに震え上がると言うのです。何故ならミサは十字架を思い出させ、サタンは十字架によって敗北を喫したとよく知っているからです。そこで教会の敵、いろいろなセクトで冒涜的なミサをする人々k共産主義者自身でさえも、一つのミサの価値が何であるか、カトリックのミサがどれ程の力を持っているかをよく知っていると明らかになります。

 最近、ポーランドで共産党、礼拝監視員は、古いミサを捧げるポーランド人司祭を監視しているが、新しいミサをする司祭には自由を与えている、彼らは古いミサ、永遠のミサをたてる司祭を迫害していると私に教えてくれた人がいます。外国人に対しては政府はどのミサでも自由にさせています。それは自由があるという印象を与えるためです。しかしポーランド人司祭に関しては、聖伝を守ろうとするならば迫害をします。

 私は最近、パックス(PAX)に関する公文書を読みました。この文書は、ウィンスジンスキー枢機卿(Cardinal Wyszynski)の名前で1963年6月に教皇大使を通して伝えられたものです。この文書によると「一般に私たちには自由があると思われている、私たちに自由があると人びとに信じさせようとしている。しかし事実は、共産主義政府に追従するパックスに連なる司祭たちが、この「自由」という噂を拡げているだけだ。何故なら彼らは自分の出版局を持ち、フランスの進歩的マスメディアも彼らの見方だからだ。しかしそれは真実ではない。私たちには自由がない。」

 ウィンスジンスキー枢機卿(Stefan Cardinal Wyszynski)は詳細な点を与えてくれています。それによると共産主義者たちによって組織された青少年のキャンプでは、主日に子供達は鉄条線の中に入れられてミサに与ることが出来ないようにされるそうです。またその報告によると、カトリック司祭によって組織された夏休みのコロニーでは、子供達がミサに与るかどうかヘリコプターで監視するそうです。

 一体何故? 何故そこまでして子供達がミサに与らないように監視する必要があるのでしょうか? 何故なら彼らはミサが本質的に反共産主義的であると知っているからです。ミサはそうでないわけにはいきません。何故なら、次の理由があるからです。共産主義とは何でしょうか? 共産主義とは、すべてが共産党のためであり、全ては革命のためです。ところがミサは全てが天主のためです。その他のためではありません。全て天主のためです。

 これがカトリックのミサが何かということです。カトリック・ミサは党のプログラムに対立しているのです。そのプログラムとはサタン的なプログラムです。これがミサとは何か、いけにえとは何かということの深い理由です。

 皆さんもよく知っている通り、私たちには全て試練があります。私たちは全て人生において、私たちの存在において困難を感じています。私たちは何故苦しむのかその理由を知る必要があります。何故この試練があるのか、何故この苦しみがあるのか、何故このカトリック信者が、何故この病の床に俯せる人たちが苦しんでいるのか? 何故病院は病者で溢れているのか? 何故?

 キリスト者はこう答えます。この苦しみは、聖なる祭壇において自分の苦しみを私たちの主イエズス・キリストの苦しみと一致させるためである、と。自分の苦しみを聖なる祭壇で一致させそうすることによって私たちの主イエズス・キリストの贖いの業に参与するため、私と霊魂たちのために天国の救いの功徳を積むため、と。

 ところが第二バチカン公会議に教会の敵が侵入しました。彼らがねらっていた最初の標的はある意味で何らかのしかたでミサ聖祭を崩壊させ打ち崩すことでした。

 皆さんはマイケル・デイヴィスさんの本を読むことが出来ます。彼はイギリスのカトリック信者であり、第二バチカン公会議の典礼改革が正にクランマーの時代に起きたこと(註:クランマーが英国聖公会の新しい典礼を作った)とどのように同じであるかということを、イギリスのプロテスタント主義の誕生と全く同じであることを示すために素晴らしい本を書きました。

 もしも(聖公会での)典礼の変化の歴史を読むと、またルターのした典礼の改革を見ると、正に全く同じ工程であり、同じやり方が取られています。つまり外見はまだよく見える、見かけはカトリックに残されたゆっくりとした変化です。ミサからいけにえの性格を取り除き、私たちの主イエズス・キリストの御血による罪の贖いという性格を取り除き、私たちの主イエズス・キリスト御自身といういけにえによる贖いという性格を捨て去りました。そしてミサを単なる集会に変え、司祭が座長となる集会にしてしまいました。しかしミサはそのようなものではありません。

 (新しいミサでは)十字架がもはや凱旋していないのですが、これは驚くに当たりません。何故ならいけにえが強調されていないのですから。ですから、人々がもはや自分の生活のスタンダードを上げ、お金をかき集め、この世の富や快楽や快適さ便利さだけを追求する用になってしまっているとしても、いけにえの意味を失ってしまったとしても驚くに値しません。

 私たちは何をしなければならないのでしょうか?私の愛する兄弟の皆様、もしも私たちがミサ聖祭のこの偉大な神秘をこのように深めるとしたら、何をすべきでしょうか。よく聞いて下さい。私はこう言うことが出来ると思います。私たちは、ミサの聖なるいけにえに寄りかかる十字軍、私たちの主イエズス・キリストの御血に頼む十字軍を起こさなければなりません。ミサ聖祭という、この誰も打ち勝つことが出来ない岩、この尽きることを知らない恵みの泉に寄りかかる十字軍です。

 このことは私たちは毎日のように体験しています。皆さんが今ここにいるのは、何故なら皆さんはミサ聖祭を愛しているからです。ここにいる神学生たちは、エコンの神学校、アメリカの神学校、ドイツの神学校に在籍しています。彼らは神学校にやってきました。何故でしょうか? 彼らが神学校に入学したのは、ミサ聖祭のためです。聖寵の泉であるミサ聖祭、聖霊の源であるミサ聖祭、キリスト教文明の源泉であるミサ聖祭、永遠のミサ聖祭のためです。そして司祭とはまさにそのようなものです。

 私たちは、正しく昔ながらのいけにえという概念によった十字軍を起こすべきです。それはもう一度キリスト教世界を作るためです。教会がそう望んでいるように、教会がいつも同じ原理を持って打ち立てたように、キリスト教世界をまた創るためです。この原理とは、昔と同じミサ聖祭であり、昔と同じ同じ秘跡であり、同じ公教要理、同じ聖書です。

 私たちはキリスト教世界を再創造しなければなりません。愛する兄弟の皆様、それはあなたたちです。あなたたちこそが地の塩であり、世の光です。私たちの主イエズス・キリストはあなたたちにこそこう言われるのです。「私の血潮の実りを失うなかれ、私のいけにえを捨て去るなかれ」と。

 童貞聖マリアも、十字架のすぐ側に佇み、あなたたちに同じことを言っています。刃にて差し貫かれた童貞聖マリアの御心は苦しみと悲しみに満ちています。それと同時に天主なる御子のいけにえと一致する喜びで満ちています。この童貞聖マリアもあなたたちにこう言われます。「キリスト者たりましょう。カトリックたりましょう」と。

 世俗的な考えに引き流されないようにしましょう。私たちをして罪へとそして地獄へと流すこの世で流行っている思潮に流されないように。もしも私たちが天国に行こうと望むなら、私たちは私たちの主イエズス・キリストに従わなければなりません。私たちは自分の十字架を担い、私たちの主イエズス・キリストの後に従い、十字架において、苦しみにおいて、いけにえにおいて私たちの主に倣わなければなりません。

 そこで私は青少年に、このホールに集う青年達に求めます。そして司祭たちには彼らにかくも美しく、かくも偉大な召命ということを説明してくれるように求めます。彼らが選ぶことの出来る全ての召命を、それが司祭であれ、修道者であれ、修道女であれ、結婚生活であれ、彼らがよく選ぶことが出来るように。

 婚姻の秘跡による結婚は、私たちの主イエズス・キリストにおける結婚であり、イエズス・キリストの御血における婚姻です。彼らは私たちの主イエズス・キリストの聖寵の元に結ばれるのです。願わくは彼らが婚姻の偉大さを理解し、純潔と貞潔と祈りと考察とによってふさわしく婚姻の準備をするように。願わくは彼らがこの世を騒がす全ての情念・欲情によって流されないように。真の理想を追求する青年達の十字軍です。

 またキリスト教家庭の十字軍を起こすべきです。ここにいるキリスト教家族たちよ、あなたたちの家庭をイエズス・キリストの聖心に奉献して下さい。聖母の汚れ無き御心に奉献しなさい。家族で祈りなさい。おお、皆さんの家族の中でどれ程多くの家庭がいつも家族で祈っているかを知っています。しかしもっともっと多くの家庭が熱心に一緒に祈るようにしなさい。私たちの主イエズス・キリストがあなたたちの家庭を本当に統治しますように!

 お願いです。子供達があなたたちの家庭に来ることを妨げる全てを遠ざけて下さい。天主様があなたたちの家庭になしたもう賜物中で、沢山の子供達より美しい賜物はありません。子宝にみちた家庭を築いて下さい。子供の多い家庭とは、カトリック教会の栄光です。カナダでも、オランダでも、スイスでも、フランスでもそうでした。世界中どこでも子供の多い家庭は、教会の喜びであり教会の繁栄でした。

 子供が多ければ多いほどそれだけ天国に行く人々の数が増えると言うことです。お願いです。天主様の賜物を制限しないで下さい。家庭を崩壊させ健康を害し家族を壊し離婚へと挑発させるおぞましいスローガンに耳を貸さないで下さい。

 この困難に満ちた時代に、都会の中で、その中で私たちが生きているこの有毒な環境において、出来るならば大地に戻って下さい。大地は健全であり、大自然は天主様を知ることを教えてくれます。大地は性格のバランスを取り、子供達が労働するように励ましてくれます。

 そしてもしも必要ならば、あなたたちが自分の子供達に自分で学校を建ててあげて下さい。もしも学校が子供達を腐敗させるなら、あなたたちは何をするつもりですか?子供達をそのような腐らせる人たちの元に預けるつもりですか? 学校で怖ろしい性の実践を教える人たちに元に? それがブラザーやシスターの経営するカトリック校であっても、そこで正に罪を犯すことを教えられるところに? 実際問題に、子供達に性教育を施すところは、年端のいかない子供達を既に腐らせてしまうことです。あなたたちはそれを援助するのですか?

 それは出来ません。あなたたちの子供達がむしろ貧しい方が、罪を犯すよりもましです。皆さんの子供達がこの世が持つ見せかけの科学から遠ざかっている方がましです。それよりも、彼らがよい子供達であるように、キリスト教的な子供達であるように、カトリックの子供達であり、聖なる宗教を愛する子供達、祈り働くことを愛する子供達であるように、天主様がお作りになった大自然を愛する子供達であるように。

 最後に家族の家長たちの十字軍を起こさなければなりません。家長であるあなたたちは、あなたたちの祖国において重大な責任を担っています。あなたたちは、祖国が社会主義や共産主義に侵略されるのを見過ごす権利はありません。あなたたちはそうすることが出来ません。さもなければあなたたちはもはやカトリックではありません。

 あなたたちは、カトリックの市長、カトリックの代議士が出るように、そしてフランスがついにカトリックの国になるように、選挙の時に戦わなければなりません。これは「政治」をすることではありません。これは良い政治をすることです。つまり聖人達がしたように、アッティラに対立した教皇様たちが過去したように、聖レミジオがフランク王クローヴィスを回心させたように、聖ジャンヌ・ダルクがフランスをプロテスタント主義から救ったように、聖なる政治をすることです。もしもジャンヌ・ダルクがフランスに出なかったなら、私たちはみなプロテスタントになってしまっていたことでしょう。フランスをカトリックとして保つために、私たちの主イエズス・キリストはジャンヌ・ダルクという17,18歳の子どもを輩出させ、イギリス人をフランスの外に追い出したのです。これも、聖なる政治です。

 そうです。私たちはこの政治を求めます。私たちは私たちの主イエズス・キリストが統治することを望みます。皆さんは先ほどこう歌っていました。"Christus vincit, Christus regnat, Christus imperat!". キリストは勝利したもう、キリストは統治したもう、キリストは命じたもう、と。

 これはただの歌詞だけなのでしょうか? 歌だけの問題でしょうか? 言葉だけなのでしょうか? いいえ違います! これが現実にならなければなりません。

 家族の長たちよ、あなたたちこそがその責任を持っています。あなたたちの子供達のために、将来の世代のために。あなたたちはフランスがもう一度キリスト教国家になるように、カトリック国家になるように、組織し、集まり、あなたたちの主張が聞かれるようにしなければなりません。これは不可能ではありません。さもなければ、ミサ聖祭はもう恵みではなくなった、天主はもはや天主ではない、私たちの主イエズス・キリストはもう私たちの主イエズス・キリストではない、と言わなければなりません。

 私たちの主イエズス・キリストの聖寵に信頼しなければなりません。私たちの主は全能です。私はこの恵みが働いているのをアフリカでこの目で見ました。ここで、この国で、聖寵が同じように働かないという理由は一つもありません。これが私があなたたちに言いたいことです。

 親愛なる司祭たちよ、私のこの声を聞いているあなたたちは、この十字軍を広めるために、この十字軍を生き生きとさせるために、深い司祭的な一致を作り出して下さい。それは、私たちの主イエズス・キリストが統治するためです。

 そしてそのためには、あなたたち司祭は、聖人でなければなりません。あなたたちはこの聖性を求め、この聖性を、あなたたちの霊魂と心の内で働いている聖寵を示し、御聖体の秘蹟を通して、あなたたちが捧げる、あなたたちだけが捧げることが出来るミサ聖祭を通して受ける聖寵を証しなければなりません。

 愛する兄弟の皆様、私は最後に、いわば私の遺言ともいうものによってこの説教を終わりにします。遺言 Testament、これは大げさな言い方ですが、この言葉を選んだのは、これが私たちの主イエズス・キリストの遺言・契約 Testament つまり Novi et aeterni testamenti (新しい永遠の契約) のこだまとなることを願うからです。

 
"Novi et aeterni testamenti"


 この言葉を御血の聖変化の時に唱えるのは、司祭です。司祭はこう言います。"Hic est calix sanguinis mei, novi et aeterni testamenti" と。イエズス・キリストが私たちに下さる遺産、それはそのいけにえ、その御血、その十字架です。そしてこれが全キリスト教文明のパン種であり、これこそが私たちを天国に連れて行ってくれるものです。

 私は皆さんにこうも言います。聖三位一体の栄光のため、私たちの主イエズス・キリストへの愛のため、天主の御母聖マリアへの信心のため、教会への愛のため、教皇様への愛のため、司教・司祭・全信徒の方々への愛のため、この世の救いのため、霊魂の救いのため、私たちの主イエズス・キリストのこの遺言・契約を守りなさい!

 私たちの主イエズス・キリストのいけにえを守りなさい。永遠のミサ聖祭を守りなさい!

 そうすればあなたたちはキリスト教文明がもう一度開花するのを見るでしょう。この世のためのものではない文明が、カトリックの国へと人々を連れて行く文明が。このカトリックの国とは、地上のそれが準備する天国のカトリックの国のことです。地上のカトリックの国は、他でもないそのために作られるのです。この地上のカトリックの国は、天国のカトリックの国以外のためにあるのではありません。

 ですから、私たちの主イエズス・キリストの御血を守りながら、そのいけにえを守りながら、このミサ聖祭を守りながら、私たちの祖先によって私たちに遺産として伝えらたこのミサ聖祭、使徒達から現在に至るまで遺産相続されたミサ聖祭を守りながら、--- もうすぐ、私は自分の叙階式の時に使ったのと同じカリスを使ってそこでこの同じ言葉を唱えます。私が叙階を受けた五十年前このカリスで唱えた聖変化の言葉とは別の言葉をどうして唱えることが出来るでしょうか、それは出来ません、--- 先祖が私たちに教えてくれた通り、教皇様たちや司教様たち、私たちの先生であった神父様たちが教えてくれた通り、私たちはその同じ聖変化の言葉を唱え続けることでしょう。それは私たちの主イエズス・キリストが統治するためです。そして霊魂が私たちの天の良き母である聖母マリア様の御取り次ぎによって救われるためです。

聖父と聖子と聖霊との聖名によって、アメン。

【関連記事】

0 件のコメント: