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2008年7月1日火曜日

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の司祭叙階式における説教(エコンにて)1987年6月29日

アヴェ・マリア!

June 29, 1987 Ordination Sermon of Archbishop Marcel Lefebvre, Ecône, Switzerland

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 1987年6月29日、エコン (スイス)にて、ルフェーブル大司教様の司祭叙階式における説教をご紹介します。これは、1988年6月30日司教聖別式のちょうど一年前にルフェーブル大司教がなさった説教で、何故、司教聖別をする緊急状態なのかを説明しています。

 ここに紹介する1987年6月29日の司祭叙階式における説教を読んでも、1988年6月30日司教聖別式の説教を読んでも、ルフェーブル大司教には一つのことしか頭になかったとひしひしと良く伝わってきます。それは、カトリック教会をそのまま続けること。カトリック教会の信仰を変えないこと。それことが天主の御旨であり、歴代の教皇様たちと一致することである、と。

 これを読むと、ルフェーブル大司教からは、別の教会を作る(つまり離教する)などという惨めな考えなどこれっぽっちもなく、使徒継承のカトリック教会のために、教会が教え続けてきた通り、天主であるイエズス・キリストが王として全世界に統治するために、全人類が王なるイエズス・キリストに従うために、そしてそうすることによって救霊を確保するために、1988年4名の司教たちを聖別したということが分かります。

 何故なら、ルフェーブル大司教は離教を望まなかったからです。アシジに代表されるエキュメニズムと私たちの主イエズス・キリストを王位から引きずり降ろすリベラリズムに従うことは、使徒継承のカトリック教会の教えから離れること、つまり本当の意味の離教に繋がるからです。

 ルフェーブル大司教には、離教の意図が一切ありませんでした。カトリック教会をそのまま変えずに続けることしかありませんでした。「ルフェーブル大司教の離教」などというものは、いまだかつて存在したことがありません。従って、誰一人としてそのような存在していない「離教を公式に支持すること」など出来ず、従って、離教のために想定された「破門」もあり得ないのです。

 ルフェーブル大司教様のおかげで、今でもカトリック教会に、聖伝のミサが生き残ることが出来ている事実を見て、また、ルフェーブル大司教様が抵抗して下さったおかげで、ベネディクト十六世も手紙でそう言っているように、2007年7月7日に自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』を出すことが出来た事実を見て、私たちは、今年でその二十周年を迎える、ルフェーブル大司教のカトリック聖伝「生き残り作戦」に感謝します。

 最後にこれを訳して下さったマキシミリアノ岡村さんに心から感謝します。


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1987年6月29日
ルフェーブル大司教様の司祭叙階式における説教


親愛なる兄弟の皆さん、

 私達の神学校の存在理由かつ最上の行事であるこの荘厳な司祭叙階式に共に参列するため、ここエコンで私たちを再会させてくださった天主に感謝を捧げましょう。

 叙階のない神学校はもはやカトリックの神学校、公教会の神学校ではありません。そしてそれゆえに、これら司祭達の上に按手する喜びをいだきながら、私たちは天主に感謝するのです。エコンがフラヴィニーに展開し、それによってカトリックの司祭になりたいより多くの若者達が、真のかつ聖なる司祭になるために必要な養成と恩寵を見出す事ができるようになってから、天主は私たちの神学校が生き続け、拡大することさえお許しになりました。

 親愛なる友人の皆さん、まず私は皆様に対しいくつかの啓発と激励の言葉を差しあげようと思います。あなた方はカトリック・ミサにおいて叙階されようとしています。皆さんは、新プロテスタント・ミサにおいて叙階されるのではありません。そしてカトリック・ミサは過去、現在、未来と偉大な司祭的計画、キリスト教生命の偉大な計画なのです。このミサを修正することは司祭の理想とキリスト者の理想、カトリックの理想を変える事にもなるのです。実に、このミサ聖祭とは、何はさておきイエズスの十字架、イエズスの十字架の継続なのです。イエズスが十字架上で御死去されたので神殿の幕は裂けました。旧約は、新約に取って代わられたのです。

 ではすべてが変えられたのでしょうか? 答えは Yes であり No であります。 疑いなく、旧約の法の儀式と天主の法のある概念は変えられましたが、旧約の主要な点は愛の掟の生けるイメージに変容されたのです。もし天主を愛さずそして隣人を愛さないのなら、天主の十戒とは何でしょうか?
 これを私たちに教えてくださったのはイエズス・キリストご自身です。そして今後、この愛の掟はもはや石の上だけではなく、聖主イエズス・キリストの犠牲の中に刻まれるのです。彼は愛の掟であり、十字架上でそれを証明されました。十字架上で、聖父の栄光と霊魂たちの救いのために死ぬ事以上に優れた愛と愛徳の表明を、聖主は他にどんな形で私たちに与える事ができたでしょうか?

 それゆえに十字架についてイエズスが私たちに説き、彼が毎日の聖なるミサ聖祭で伝えているのは、この愛の掟なのです。 皆様の心と霊魂内に、親愛なる友人である皆様、洗礼の成聖の聖寵によって記されたのは、この愛の掟なのです。まさしくこの成聖の聖寵こそ愛の掟と愛徳を実践するために皆様を聖主イエズス・キリストに変容させ深く一致させたのです。

 善き聖主はその変容と深い一致を生み出す恩寵を皆様に与えようとしておられるので、願わくは皆様が生涯の日々に捧げることになるミサ聖祭の犠牲は、皆様の代父と代母が聖主イエズス・キリストに専心し、この世のすべての誘惑を放棄すると誓う時、洗礼にて皆さんがいただいたその成聖の聖寵を支えてくれるのです。それこそ、これからの日々皆様が繰り返す事なのです。つまり「我が天主よ、ああイエズス、私は御身を永遠に深く愛し奉る。我は御身の司祭になることを欲す。模範と言葉により愛の掟を説く司祭に。我をして、この世のすべてとその誘惑から取り去り給え。我をしてこの世のすべての影響から守り給え。なぜならそれはサタンの手先、そして天主に対する不従順によって満たされている故なり。」

 この方法であなた方の霊魂は、目前にある祭壇上であなた方が持ち、あなた方が御自身で発する聖変化の言葉によって天国から降臨させることになる聖主イエズス・キリストの十字架と、その御血と御体の御前で慰められるでしょう。なんという崇高な神秘でしょうか。天主がその犠牲を捧げ、それを継続するために人間に従うのです。それがあなた方の司祭生活の目的なのです。つまりあなた方のところにやって来て、あなた方の捧げるミサ聖祭の聖なる犠牲に与るでしょう霊魂たちを、完全にあなた方自身の犠牲に至るまで、天主と隣人に対する愛の感情をもって貫くために。そして天主は、聖主イエズス・キリストがこのためにその模範を与える事をご存知です。つまり自己の犠牲に至るまで、もし必要ならば死に至るまで、そして聖主イエズス・キリストに一致してとどまるためにあなた方が自らの血を流すに至るまでになるように。願わくはそれがあなた方の決意でありますように。そういうわけで皆様は私と共に捧げようとしているミサ聖祭の聖なる犠牲にて私たちの聖主の生命と死に結ばれなければなりません。

 世俗の引力と、ミサ聖祭のこの聖なる犠牲をまったくの人間的集会に変容させようとする世俗の魅力によって誘惑されるままにならないようにして下さい!

 これらの感情が全司祭的生活において皆様の中に留まることを私は切に望んでいます。よりお年を召した司祭方が、彼らが送られたところ至る所でそうであるように、使徒であってください。ここに集っていて皆様を共に囲み、皆様の上にその手を置くことをうれしく思っているこれらの親愛なる司祭達のように。私たちの聖主イエズス・キリストの司祭達、十字架に釘付けられた愛、十字架に釘付けにされたイエズスの司祭達であって下さい、世俗の司祭達、世俗のための司祭達ではなく。

 親愛なる兄弟の皆様、この機会を利用して、私たちが通例に従い司祭叙階式の機会に行うように、私たちが今日置かれいている状況について指摘することをお許しください。それは言及されなければならない事です。私は沈黙する事はできません。隠蔽することも出来ません。今年はカトリック教会にとって、私たちカトリック信者たち、私たちカトリック司祭達にとって非常に重大でした。

 皆様はこれをご存知で、異なる記者達がそれを報道してきました。つまり私がカトリック教会の存続に必要と思われる行動を遂行するために、御摂理からの印を待っているところであることを言及する好機があったということです。今、私はこれらの印が到来したと確信します。

 それらの印とは何でしょうか? それは2つです。まずアシジ、それから信教の自由に関して私たちが明確化した異議に対してローマが作成した返答です。


アシジの背教

 アシジ(の平和祈祷集会)は去る10月27日に開催されました。そして信教の自由と関連する第2バチカン公会議の誤謬に関する私たちの異議に対するローマからの答えは3月の始めに私たちのもとに届きました。このローマの答えは、それ自体で、アシジ以上に危険でさえありました。アシジは一つの歴史的事実、一つの行為です。しかし信教の自由に関する私たちの異議に対するその返答は、原理の主張であり、それゆえに非常に危険なのです。ある危険で躓きになる行為を単に行うのは一つの事柄です。しかし、偽りと誤った諸原理を断言するということは、単なる行為とは他の事柄です。何故なら、それは結果として、実際に破滅的結末を生み出すことになるからです。

 そういう理由で御摂理は、様々な状況のある結合によって私たちがちょうど出現した一冊の本『彼らは主を王位から引きずりおろした』(Ils L'ont Decouronné) を作成する事をお望みになりました。彼らは彼を王位から引きずりおろしたのです!誰が王位から引きずりおろしたのでしょうか? そして誰が引きずりおろされたのでしょうか?
 誰が引きずりおろされたのか? 私たちの聖主イエズス・キリストです。
 誰が彼を王位から引きずりおろしたのでしょうか? 今日のローマ当局です。

 そしてこの王位の剥奪は、アシジの儀式の時に明確な方法で表明されました。
 イエズス・キリストが王位から引きずり下ろされたのです。彼はもはや王ではなく、普遍的な王でも御降誕の大祝日からその御昇天に至るまで、私たちが宣言する王ではないのです。すべての宗教的祝日は、私たちの聖主イエズス・キリストの王権を示しているのです。だから全典礼暦年中、私たちはRex regum, et Dominus dominatium --- 王の王かつ主の聖主! と歌っているのです。

 そしてご覧下さい!私たちの聖主イエズス・キリストの王権を讃える代わりに全宗教の万神殿(パンテオン)が制定されるのです!ちょうど異教ローマ皇帝たちがあの万神教の為の神殿を造ったように、今日それを行うのは公教会のローマ当局です!

 これは霊魂たち、カトリック信者達が、目撃することになり、そして彼らを疑いに投げ込む恐るべき躓きなのです。それは厳密に言うならば自由主義と呼ばれるものです。

 自由主義とは、天主の御前での人間の自由を制定することです。結果として、いかなる宗教も自分が真のものであるという宗教と等しく尊敬すべきものになるのだと、良心に従って信じ、希望し、宣言する人間を意味します。

 「国家、市民社会は、もはやどれが真の宗教であるか知る事ができない」、これがローマから頂いた書類の中で私たちに対して述べられていたことです。「国家は宗教的事柄について無能であり、それゆえどれが真の、あるいは偽りの宗教であるか決められない」と。「この事実自体によって国家はそれが何であれ、すべての宗教をこの“自律的社会空間”に拡張させなければならない。なぜなら人間は自分の宗教をもつ事に関して自由だから」と。

 私たちは言います。違います。違います。それは間違っています。
 そしてミサ聖祭はこれを私たちに示しています。これは十字架上の聖主イエズス・キリストが私たちに要求し、説く掟、愛の掟なのです。彼は私たちに言います、「あなた方は愛の掟に従わなければいけない。誰であっても、愛の掟に従わない人は永遠の生命にふさわしくない。」

 したがってそれは義務的掟なのであります。私たちには自分の宗教を選ぶ自由はありません。あるのはたった一つ。それは私たちの聖主イエズス・キリストが十字架の高みから宣言されたその一つです。

 自由主義は現代の偶像になってしまいました。それは現在、世界中大部分の国で、しかもカトリック教国でさえ崇められています。天主に挑み、自分独自の宗教を作ろうとし、人権の宗教、独自の戒律を作り、世俗の団体、世俗的国家、世俗的教育と協力し、天主の無い独自の宗教を創りあげることを欲するのが、天主に対する人間の自由であり、それこそが自由主義なのです。

 一体全体どうやって、ローマ当局が、信教の自由に関する第2バチカン公会議の宣言のなかでこの自由主義を主張し奨励することが出来たのでしょうか? 私の考えでは、それは非常に重大な事です。ローマは暗黒の中にいます。誤謬の暗黒の中に。それを否定する事は私たちに出来ません。私たちカトリックとしての見解から、そしてなおさら司祭としての見解から、アシジ、つまり、そこで異教儀式の執行の為に仏教徒達に与えられた聖ペトロ教会で見る事のできたあの見世物を私達はいかにして黙認出来ましょう? 彼らが、私たちの聖主イエズス・キリストの御聖櫃の前で ― 疑いなく空だったのでしょうが ー しかし、彼らの偶像、つまり仏像がその上に置かれて、異教儀式を執り行っているのを、どうやってそのまま傍観していることが考えられるでしょうか。しかも、これが、カトリック教会のなかで、私たちの聖主イエズス・キリストの教会の中で執り行なわれてていたのです! 事実はそこにあります。事実は、ありのままを語っています。私たちにさらに重大な誤謬を見逃す事は出来ません。

 いかにしてあの現実は実現したのでしょうか?その答えは天主に委ねましょう! 天主こそがあらゆることを統治しているからです。つまり、事象の主であるわたしたちの聖主イエズス・キリストが統治しているからです。ローマと教皇から枢機卿達まで、さらにエキュメニズムと自由主義に関する公会議の誤った思想にしたがっている世界中の全司教を含めて、最高権威者らを掌握している様々な誤謬の将来がどうなるかを知る方は彼なのです。

 天主のみそれがどこに導こうとしているのかご存知なのです。しかし私たちにとってみれば、もし私たちがカトリックに留まり、そして公教会を存続させたいのなら、私達には破棄できない様々な義務が生じます。私たちには私たちが負っている重大な義務、つまり私たちの聖主イエズス・キリストと、その王権と、公教会の教義に従ったその社会的王位 (His social Kingship) を信じる司祭たちを増やさなければならないのです。そういうわけで、誰もがそれにより養われ私たちが遂行している戦闘をより理解できるように、自由主義に関するその本(『彼らは主を退位廃冠させた』Ils L'ont decouroné)が現れた事を私はうれしく思います。

 これは人間的な戦いではありません。私達はサタンとの接近戦の中にいるのです。それは超自然的な総力を要求する戦闘です。そして公教会を徹底的に破壊し、私たちの聖主イエズス・キリストの御業の崩壊を望むサタンと戦うために私たちはこの超自然的力を必要とするのです。私たちの聖主が御降誕されてから、サタンはこれを常に望んできました。そしてサタンはそれが何であれ、聖主の君臨と、そのすべての制度を一掃しながら、聖主の神秘体、を廃止し壊滅し続ける事を望んでいます。私達はこの悲劇的、黙示録的戦闘に気づかなければなりません。そこに私達は生きており、それを見くびってはいけません。それを見くびるだけ、私たちのその戦闘おける戦意は衰えるのです。私達はさらに弱くなり真理をもう宣言しようとしなくなるのです。 わたしたちはもはや聖主イエズス・キリストの社会的王権を敢えて主張しようとはしません。何故ならその響きは世俗的、無神論的世界の耳に心地よくないからです。私たちの聖主イエズス・キリストが社会において君臨すべきであるという事は、世界にとっては愚かに見えるのです。私達は流行おくれ、中世時代に凍結したのろま者達だとみなされています。「過去に属するものはすべて終わった。あの時代は終焉したんだ。聖主イエズス・キリストが社会で君臨することはもはや不可能だ」と。おそらく私達は、私たちに敵対する大衆意見を恐れるという傾向を少し持っています。なぜなら私たちが聖主の王権を宣言しているからです。従って聖主の社会的王権のために私たちが保持するその論証が、サタンによって導かれ、私たちの影響の拡大を妨げ、それを破壊しようとさえするするために現れる一つの敵に驚かないようにしましょう。 

 こういうわけで私達は、本日これらの司祭叙階式を執り行うことをうれしく思うのです。そして私達は、善き天主が私たちの手にお委ねになったこの業を放棄する事など不可能であると心から考えています。なぜなら実際、それを創立、しかも信じられない状況においてそれを創られたのは私ではなく、まさしく聖主だったからです。現在(聖ピオ十世会)創立後15年目にして、私たちの会は世界的規模に達しました。

 天主に感謝、他に多くの修道者もまた私たちと共に、わたしたちの周りに現れました。この叙階式に参列しているすべての男女修道者の方々もまた、私たちの聖主イエズス・キリストの王権を自ら宣言するために立ち上がりました。そして彼らは天主を見捨てないでしょう。

 私達は天主を見捨てようとしているのですか? 彼を再び十字架に釘付けにさせるのでしょうか? そして公教会をまさに今それが生きている受難の状態および私たちが救援に行く事もなく取り残すのでしょうか?

 もし誰もこれ以上聖主イエズス・キリストの天主性を宣言しなくなれば、霊魂たちは一体どうなるのでしょうか? もし私たちが彼らに彼らの救霊に必要な真の聖寵を与えなければ、彼らはどうなるのでしょうか? これは明白な緊急事態の問題です。私達はこれに気づかなければなりません。従って、私は自分自身にこの業を継続することが出来るよう、数人の後継者を与えなければならないように思うのです。なぜならローマは暗黒の中にいるからです。それは現在ローマがもはや真理の声を聞いていないからです。

 どんな反響を私達の主張は受けたのでしょうか? 
 わたしがローマに対し「聖伝に従って欲しい。聖伝に立ち戻ってください。さもなければ公教会はその滅亡に向かう事になる。公教会を確立した人たちの後継者に選ばれたあなたたちは、公教会を築き上げなければならず、それを破壊してはなりません」と言いました。しかし、彼らは私たちの主張に対して耳を閉ざしました。

 私たちが受け取った最後のローマからの回答、最後の書類は、これを完全に証明しています。彼らは自らの誤謬の中に閉じこもっています。彼らは自らを暗黒の中に閉じ込めているのです。そして彼らは霊魂たちを棄教に導き、非常に単純にですが、聖主イエズス・キリストの天主性の壊滅とカトリックとキリスト教信仰の崩壊に導いているのです。

 したがってもし天主がそれを私たちに要求するなら、私達はこの業を継続するために協力することをためらわないでしょう。なぜなら私達には、天主がその業の破壊を望み、霊魂たちが放棄される事と、この事実によって公教会がもうその司牧者を持たないことをお考えになるとは考える事は出来ないからです。私達は全く例外的な時代に生きています。これを私達は理解しなければなりません。状況はローマにおいてもはや普通ではなく、非常に異常なのです。

 エコンに来た親愛なるシスター達によって発行されているSiSINoNo(1993年以降アンジェルスプレス社のアンジェルス・マガジン誌に記載されている)という新聞を読んでください。そしてここに彼女たちが成し遂げている仕事を継続してくれるよう励まします。この新聞はローマの状況について非常に正確な指摘を与えてくれます。ある信じがたい状況が、つまり歴史が未だかつてそのような事を経験した事のない状況があるのです。

 教会の歴史上、未だかつて、教皇が自ら、自由主義の大祭司になりながら、私が皆様にお伝えしたように、すべての宗教の万神殿のある種の守護者に転ずるのを見た事がありません。こんな状況が公教会内に未だ存在したか誰か教えて下さい。このような現実を前に私達は何をすべきでしょうか? 涙を流す、疑いなく、そうするべきでしょう。あぁ、私達は嘆きます。そして心は砕かれ悲しみに沈んでいます。私達はこの状況が変わるように、私たちの生命と血を差しあげることさえ辞さないつもりです。しかしこの状況を見ると、善き天主が私たちの心に置いたその業とはどのようなものかというと、このローマの暗黒、つまりローマ権威者達のその誤謬に留まる頑なさ、真理と聖伝への帰還を拒絶しているという状況はあまりにも酷いので、善き天主が懇願しているのは、公教会を存続させることであると私には思えるのです。従って、善き天主に対しこの人生の決算報告をする前に、私はいくつかの司教聖別を執行すべきであるように思います。

 親愛なる兄弟の皆様、そして親愛なる友人の皆様、私たちの心のすべてを以っていとも聖なる童貞マリア様に祈りましょう。私達は8月22日、聖なる童貞が私たちを助けてくださるよう祈願するためにファティマに行く事になっております。

 彼らは彼女の秘密を公開することを望みませんでした。彼らは童貞聖マリア様のメッセージを葬り去ってきました。このメッセージは、間違いなく今日起きている事を防いでくれる事になっていました。もし彼女のメッセージが知られていたら、私たちはそれ程遠くまで行かなかったでしょうし、このローマにおける状況は未だ今日ほどではなかったでしょう。教皇様たちは、いとも聖なる童貞のメッセージを公開する事を拒んで来たのです。童貞聖マリア様によって告げられたその数々の天罰は来ています。聖書のなかで預言された棄教は到来しています。これは確かに事実です。

 この決定的に異例な状況に直面させられて、私達もまた異例な措置をとらなければなりません。
 いとも親愛なる兄弟の皆様、いとも親愛なる友人の皆様、この御ミサの間、私達は特別に聖なる使徒達、公教会の守護者たちなるペトロとパウロに、私たちが彼らと彼らの後継者達の業に継続するために、私たちを啓発し、助け、私たちに剛毅と知恵を与えてくださるように祈ります。

 誰よりもまず、いとも聖なる童貞マリア様にこれを祈願しましょう。そしてイエズスとマリアの聖心に対し私たち自信を、私たちの家族達、私たちのいくつもの都市を奉献しましょう。
 聖父と聖子と聖霊との御名によりて アーメン

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2008年3月4日火曜日

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の説教 1988年6月30日エコン (スイス) 司教聖別式の説教にて

アヴェ・マリア!

Archbishop Lefebvre's sermon for the Episcopal Consecration at Econe on June 30, 1988

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 1988年6月30日エコン (スイス) 司教聖別式にてルフェーブル大司教がされた御説教をご紹介します。これを訳して下さったマキシミリアノ岡村さんに心から感謝します。


聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の説教
1988年6月30日エコン (スイス) 司教聖別式の説教にて




親愛なるカストロ・マイヤー司教様、
いとも親愛なる友人、そして兄弟の皆様、

 ご覧ください、私たちは間違いなく歴史的な一つの式典の為ここに集っています。何よりも先ず皆様にいくつかのお知らせをさせてください。

 第一のものは皆様を少し驚かせるでしょう、私自身そうだったからです。昨夜、ベルンの教皇大使館から送られ、教皇様からの嘆願書の入った一枚の封筒を持ったある訪問者がやって来ました。教皇様は私が自由に使えるようにと車をよこしたのです、この車は私を昨夜ローマに連れて行くことになっていたようです。それは私が今日この司教聖別を執行する事ができないようにするためでした。私には行かなければならない理由も場所も伝えられませんでした!このような嘆願のタイミングのよさと知恵をどう判断するかは皆様にお任せいたします。

 この一年間、私は幾日も、それどころか数週間もローマに行きました。教皇様は私が来て謁見するように招いてはくださいませんでした。仮にいくつかの合意がなされたなら、彼に謁見することは私にとってきっと喜ばしい事だったでしょう。ですからここで皆様に情報としておしらせします。私は皆様にこの事実を単純にお伝えするだけです。私自身、教皇大使館からの手紙を通して知るに至った様に。

 それでは、この式典に関する幾つかの指示と、その意義にかんする重要な文書について[お話しします]。

 皆様の中でお持ちになっている方もいらっしゃる司教聖別式小冊子に見られる誓いを、司教となる者たちは既に、私の手において立てました。従って、この誓約、さらには近代主義に反対する宣誓、この宣誓は公教会が司教聖別される者達に必ずすることを命じていたそのままのものです、それから信仰宣言は、もはや行われたということになります。彼らはすでにこれらの宣誓と信仰宣言とを、数日間シエール(Sierre)にて行われていた黙想会の後で私の手の元で済ましています。ですから、この司教聖別式が、信仰に関する審問、つまりカトリック教会が司教に聖別されるべき人々に尋ねる信仰審問の儀式から始まることになりますが、驚かないようにして下さい。

 さらに皆様に知っておいて欲しいことは、聖別式の後、皆様が司教様たちの祝福とその指輪に接吻することをお願い出来るということです。昨日皆様がされたように、叙階された新司祭の両手に接吻する事は公教会内の習慣ではありません。しかし信徒の方々は司教たちからの祝福とその司教指輪に接吻をすることが出来ます。

 最後に、皆様のために、書物やパンフレットなどを入手できるスタンドを準備しました。それらの書物は、この司教聖別式が、一見ローマの意向に反して執行されるかのようなこの聖別式が何故に離教[行為]ではないかをもっと理解する事を助けるのに必要なあらゆる要素が書かれています。私たちは離教者ではありません! 

 もしも、破門宣告が中国の司教たちにたいしてなされたなら、彼らは自らをローマと絶ち、自分を中国政府の配下に置いたからであって、ピオ十二世教皇が何故彼らを破門したのかは容易に理解できるところです。

 私たちにとって、自らローマと離れることなど問題外です。私たちにとって、教会と関係のない政府の元に身を置くことも問題外です。さらには、パルマール・デ・トロヤの司教らがスペインで行ったように、ある種の別個の教会を作り上げるなどということも問題外です。パルマール・デ・トロヤの人々は、教皇さえ選出し、枢機卿団の編成などさえしたのです。

 私たちにとって、このようなことを行うのは全くの問題外です。考えにもありません。ローマから離れるというこの惨めな考えなど私たちには一切ありません!

 その反対に、私たちがこの聖別式を執り行おうとしているのは、私たちのローマへの愛着を表明するためです。

 永遠のローマ、教皇聖下、最近の教皇聖下達に先立つすべての前任の教皇たちへの愛着を表明するためなのです。最近の教皇様たちは、残念ながら第二バチカン公会議以来、カトリック教会とそのカトリック司祭職とを破壊している深刻な誤謬を支持することが自らの義務だとみなしてきているのですが。

 そういうわけで皆様方が自由に入手することが出来るように置かれたこれらのパンフレットなどのなかに、ドイツはマインツ大学で教会法学の学部長、ゲオルグ・マイ教授によってなされたすばらしい論考があります。

 この教授は何故私たちが必要の緊急事態にいるか、つまり皆様の霊魂を助け、皆様を援助する必要性の中に私たちがいるという事を見事に説明しています。私が思いますには、先程の皆様の拍手は、決して世俗的な[喜びの]現れではなく、むしろ皆様の霊的な[喜びの]現れ、霊魂の救いのため、皆様の霊魂に聖主イエズス・キリストの生命を、正統な教義、諸秘蹟、信仰、御ミサの聖なる犠牲を通して、与えるために奉献されている司教や、司祭達を、とうとう獲得するという喜びを示す、霊的表明なのです。

 天国に行くために、皆様はこの聖主イエズス・キリストの御生命が必要です。この聖主イエズス・キリストの御生命は、公会議後の教会の至る所で消えつつあります。彼らはカトリックの道ではない道に従っています。つまり彼らは単に棄教に進んでいるのです。 

 これこそ私たちがこの聖別式を執り行う理由なのです。教皇になろうなどという気は私にはまったくありません! 私は、カトリックの教義を伝え続けているカトリック教会の一司教にすぎません。
 私が思うに、そしてきっとこれはそう遠くない未来のことでしょう、つまり皆様方が私の墓石に聖パウロのこれらの言葉を刻み込むであろう事です。“Tradidi quod et accipi --- 私は受けた事をあなた方に伝えた。そして他の何物でもないのです。

 私はちょうど皆様に一通の手紙を配達する郵便配達人です。私はその手紙、メッセージ、天主の聖言葉を書きませんでした。天主御自らがそれをお書きになったのです。つまり聖主イエズス・キリスト御自身がそれをわたしたちにお与えになったのです。

 私たちに関して言えば、私たちはここにいるこれら親愛なる司祭たちを通して、さらに永遠の信仰を保ちそれを信者達に授けることにより、公教会におけるこの離教の波に抵抗するために選ばれた全ての者を通して、ただそれを後世に伝えたのです。私たちは、善き知らせの単なる伝達者、私たちの聖主イエズス・キリストが私たちにお授けになったこの聖福音の伝達者であり、同様に聖化の手段である聖なる御ミサ、真実の聖なるミサ聖祭、霊的生命を実際に与える真の秘蹟の運搬者にすぎないのです。 

 親愛なる兄弟の皆様、私には自分がこれらすべての教皇達、つまりグレゴリオ十六世から始まって、ピオ九世、レオ十三世、聖ピオ十世、ベネディクト十五世、ピオ九世、ピオ十二世の声が私たちにこういうのを聞いています。

「私たちはあなたに懇願する、あなたは私たちの教え、説教、カトリック信仰をどうしようとしているのか? それを放棄するつもりなのか? 地上からそれが消え去るままにさせておくつもりなのか? どうか、どうか、私たちがあなたに与えてきたこの財宝を守り続けなさい。信者たちを見捨ててはならない! 公教会を見捨ててはならない! 公教会を続けなさい! 実に、公会議以来、過去において断罪されていた事を、現在のローマ当局は、抱擁し公言している。どうやってそんな事が出来るのか? 私たちは、自由主義、共産主義、社会主義、近代主義、シヨン主義を、断罪した。」

 「私たちが断罪したすべての誤謬は、公教会の権威者たちによって、今や宣言され、採用され、支持されている。そのような事があり得るのか? 私たちがあなたに与えたこの教会の聖伝を存続させるためにあなたが何かしないかぎり、全ては消滅してしまうだろう。霊魂たちは失われてしまうだろう。」


 私たちは、今、緊急事態にいることがわかります。私たちは出来ることは見なしてきました。ピオ十二世教皇聖下とそのすべての前任者達の取った態度に立ち戻らなければならないということを、ローマが理解することが出来るように出来るだけの手助けをしてきました。カストロ・マイヤー司教様と私自身とは、ローマに行き、語り、何度もローマに手紙を送りました。私たちはこれらの語りかけを通して、これらの全ての手段を通して、ローマに理解してもらうようにし続けてきました。あの公会議以来、さらにアジョルナメント以来、公教会で起こって来ているこの変革は、カトリック的ではなく、永久不変の教義と一致しない、ということをローマが理解するようにと。このエキュメ二ズムと、これらのあらゆる誤謬、この司教団体主義、これら全ては公教会の信仰に反していて、公教会破壊の工程内にあるものであるということを。

 だから、本日のこの司教聖別の行為によって、私たちはこれら諸教皇の招きに従順に従い、結果として天主の呼びかけに従順であることになると確信しています、何故なら彼らが公教会内で天主の代理者であるからです。

「では大司教様は何故、或る程度は成功の見込みがあったと思われるこれらの討論を止めてしまったのですか?」

 はい、正に、私が議定書(プロトコール)にサインをしたのと同時に、ラッツィンガー枢機卿の使者が私に一通のメモをよこし、その中には、私が犯した誤謬について謝罪するようにと要求する旨が記されていたからです。

 「私が誤謬の中にいる」ということは、「私が誤謬を教えている」ということは、このメモに私がサインするように送ってきた人々の頭の中では、私が真理に連れ戻されなければならない、ということを意味するのは明らかです。「私が犯した誤謬を認める」ということは、「もしあなたが自らの過ちを認めるならば、我々はあなたが真理に立ち返るのを助けてあげよう」という意味です。

 それでは、彼らにとってこの真理とは一体何なのでしょうか? それは、第2バチカン公会議の真理、公会議後の教会の真理以外の何ものでもありません。

 従って、バチカンにとって今日存在している唯一の真理とは、公会議の真理、公会議の精神、アシジの精神である事は明らかです。これが今日の真理なのです。しかしこのようなことは、私たちとは何の関係もありません!


 だからこそ、聖伝を無におとしめ、第二バチカン公会議の精神とアシジの精神とに世界を引き込もうとする現在のローマ当局の強い意志を考えた上で、私たちは身を退かせ、このまま続行することは出来ない、と言う事を選んだのです。続けることは不可能です。私たちはまぎれもなく私たちを導いたことになろうローマ委員会の代表であるラッツィンガ―枢機卿様の権威の下にいた事でしょう。私たちは彼の手中に身を置いていました、そして結果的に私たちをして公会議の精神とアシジの精神と引き吊り込もうと望んでいる人々の手に自らを委ねていたでした。これは単純に不可能でした。 

 そういうわけで私は教皇聖下に一通の手紙を送りました。そこで教皇様にこうはっきりと申し上げました。

「私たちは、教皇様との全き交わりのうちにいたい、という全ての望みにもかかわらず、[この精神とこの提議を受け入れる事は]どうしてもできません。現在ローマにおいて全てを支配しているこの新しい精神、教皇様が私たちに伝えたいと願っているこの新しい精神が与えられるかぎり、私たちは聖伝において続けることを選びます。聖伝がローマでその地位を再び獲得するのを待ちながら、ローマ当局において、彼らの心の中で、聖伝がその元の場所を再び取り戻るのを待ちながら、私たちは聖伝を守るほうを取ります」と。これは天主様があらかじめご存じの期間、長く続くでしょう。 

 いつ聖伝がローマでその権利を再び取り戻すか、という時を知るのは私の役割ではありません。しかし、私が「生き残り作戦」聖伝の生き残り作戦と名付け、それをする手段を提供するのは、私の義務であると考えています。本日、この日は、生き残り作戦の日です。

 もし私たちがサインをしてしまった同意に従って存続し、それを実践に移すことによって、私がローマとこの取引をしていたとしたら、私は「自殺作戦 (Operation Suicide)」をしていたことになったでしょう。

 選択の余地はありませんでした。私たちは生き続けなければなりません! そういうわけで本日、これらの司教聖別によって、私は、聖伝を、つまりカトリック教会を生きたままに保ち続けているということを確信します。

カトリック聖伝の生き残りのために聖別される聖ピオ十世会の四名の司教たち

 親愛なる兄弟の皆様、あなたたちは司教なくして司祭が存在し得ないことを良くご存知です。天主が私をお呼びになる時 ―― これは間もなくであろうことは疑えないのですが ――、これらの神学生達は誰から叙階の秘蹟を授かるのでしょうか? その疑わしい意向のため、疑わしい諸秘蹟を授ける公会議後の司教たちからですか? これは不可能です。

 第二バチカン公会議に至るまで、二十世紀の間公教会が常に叙階の秘蹟を授与してきたのと同じやり方で、聖伝と諸秘蹟を真に守ってきた司教達とは一体誰なのでしょうか? カストロ・マイヤー司教様と私自身です。私は秘蹟を変えることは出来ません。変えることができないからです。

 従って、多くの神学生たちが私たちに信頼を置き、彼らは、ここには公教会の継続、聖伝の継続があると感じたのです。そして彼らは、司祭職への真の叙階を授かる為、カルワリオの真の犠牲、御ミサの真の犠牲を捧げ、そして真の秘蹟、真の教義、真の要理を皆様方に授ける為に、直面したあらゆる困難にもかかわらず私たちの神学校に来たのです。これこそが、これらの神学校の目的です。

 ですから私は、良心にかけて、これらの神学生たちを孤児にすることは出来ません。同様に、将来のために何も提供することなく死んで皆様方を孤児にする事も出来ません。それは出来ない事です。そのようなことは、私の義務に反するでしょう。

カトリック聖伝の生き残りのために聖別される聖ピオ十世会の四名の司教たち

 それ故に、私たちは天主の御恵みによって、司教の職務を果たし、皆様の子供達に堅信と、いくつもある神学校でより容易に叙階を授ける事のできるために、適した環境と職務にいると同時に、最も相応しいと思われる司祭たちを私たちの会から選び出しました。従って、天主の御恵みにより、私たち、すなわちカストロ・マイヤー司教様と私自身とは、これらの聖別によって、聖伝に継続の手段を与える事になり、両親たち、祖父母たち、祖先たちの公教会内に留まることを望むカトリック信者達に対して、その手段を授ける事になるでしょう。

 私たちの祖先たちは美しい祭壇をもつ諸々の教会を建てました。しかしながらこれらの祭壇は度々破壊され、テーブルによって取り替えられました。こうすることによって、公教会の中心であり司祭職の目的であるミサ聖祭の犠牲に関して公会議以来生じてきた急進的な変革を表明しているのです。この聖別式の遂行において私たちを支持するためにこれほどの大人数で来てくださったことに対し私たちは皆様に感謝を申し上げます。 


カトリック聖伝の生き残りのために聖別される聖ピオ十世会の四名の司教たち


 私たちは祝された童貞聖マリアに目を向けます。親愛なる兄弟の皆様、皆様が良くご存知のように、ある日「ペトロの座は邪悪の座になるでしょう」と啓示するレオ十三世の予言的な幻視について知らされているに違いありません。レオ十三世教皇は、「レオ13世による悪魔祓い」と呼ばれる悪魔祓いの祈りの中でこう言いました。

それは今日、起こっているのでしょうか? それとも、明日の話でしょうか? 私にはわかりません。しかしいずれにしても、それは予告されてきているのです。邪悪 (Iniquity) とは全く単純に誤謬のことかも知れません。誤謬は邪悪ですから。つまり、永久不変の信仰、カトリック信仰を、もはや宣言しないという事は、重大な誤謬なのです。もしもかつて何らかの邪悪があったとするならば、これがそれです。そして私は、公教会の中でアシジ以上に重大な邪悪は決して存在したことがなかったと本当に信じています。それは天主の十戒の第一戒と使徒信経の第一箇条に反しています。あのような事が、公教会の中、全教会の目前で起こりえたなどという事は信じられないことです。何と屈辱的なことでしょうか! 私たちは、未だかつてこれほどまでの屈辱をこうむった事はありません! ローマにおける現状について皆様方に情報を差し上げるべく特別に出版されたル・ルゥー (Le Roux) 神学生の書いた小冊子の中に、皆様はこの件についてのすべてを見出すでしょう。 

 このような事柄を言われたのは善き教皇レオ十三世だけではなく、我らの聖母も同様に予言した事なのです。ちょうど最近、コロンビアのボゴタの修道院を受け持つ司祭が、「良き出来事の聖母」の御出現に関する一冊の本を持って来てくれました。この聖母マリア様に、エクアドルのキト (Quito) にあるひとつの大聖堂は献堂されています。これらの啓示は、トリエント公会議の後間もなく一人の修道女が受けたもので、お分かりのように数世紀前の事であります。この御出現は既にローマと教会当局によって認可され、一つの壮大な教会が聖母マリア様のために建立されました。その内部で、エクアドルの信者たちはその御顔が奇跡的に作られた、一枚の聖母の御絵を大いなる信心をもって崇敬しているのです。それを描いた画家はこの聖母の御顔をいざ彩色する過程で、それが奇跡的に仕上げられているのを発見したという事です。さらに聖母は19世紀と20世紀の大半において誤謬が、公教会を破滅的状態に陥れながら、聖なる公教会の中でますますはびこるだろうと予言されたのです。道徳は退廃し信仰は消えて無くなるだろうと。今日それが起こっているのを見ないほうが不可能といえます。

 この御出現についてお話しを続けることをお許し下さい。しかし聖母は、真の司祭達を養成することにより司祭職を救いながら、この棄教と不敬虔の波に真っ向から立ち向かうという一人の高位聖職者について言及しています。この予言が私について言及しているとは言いません。皆様がご自身で自らの結論を出してくださって結構です。この数行を読んでいた時、私は呆然となりましたが、それを否む事が出来ませんでした。なぜなら、それはこの御出現の文書局の中に記録され保管されていることだからです。

 もちろん皆様方はラ・サレットの聖母の御出現を良くご存知であり、そこで彼女はローマが信仰を失い、ローマで一つの「陰り(eclipse)」があるだろうことを言及しています。一つの「陰り」、これをもって聖母が言わんとすることに気づいてください。 

 そして最後に、私たちに馴染みの深いファティマの秘密、ファティマの第三の秘密は、ローマを侵略し、公会議以降世界を覆ってしまったこの暗黒について言及しているに違いありません。さらに、ヨハネ23世がその秘密を公表しない方がよいと判断したことは、疑いなくきっとこれが理由であり、おそらく彼が実行不可能と感じた手段、例えば公会議を見込んで、さらに公会議のために彼が着手し始めた方針を完全に変更することなどの対策を講じる必要があったからでしょう。 

 私たちが頼ることのできる事実がある、と思います。

カトリック教会の聖伝を続けるために聖別された聖ピオ十世会の司教たち

 私たちは天主の御摂理の中に自らを置きます。私たちは天主が御自分の行っていることをご存知であると確信しています。ガニョン枢機卿様は、聖職停止の十二年後、私たちを訪問しました。十二年もの間、私たちはローマとの交わりの外にいるものとして、教皇様に逆らう反逆者にして反対者として語られてから、十二年後に、彼の訪問がなされたのです。ガニョン枢機卿ご自身、私たちが行っている事がまさに公教会の復興に必要であることをお認めになりました。さらに枢機卿様は、1987年12月8日に、私達の神学生たちの聖ピオ十世会への誓約更新のために私が捧げた御ミサに、大司祭として (pontifically) に参列さえしました。私は聖職停止のはずだったのに、です。それにもかかわらず、事実上、私は教会法上問題ないとされたのです。教皇使節たちは、私達が良くやったとおっしゃって下さいました。つまり、私達が抵抗して、良くやった、ということです!

The four new bishops after receiving their crosiers and being enthroned

 私は今も同じ状況に私達がいることを確信しています。私達の執行している行為は、見かけ上 ---- そして残念ながらマス・メディアは良い意味で私達を支持してくれないでしょう。新聞の見出しは、もちろん、「離教」「破門!」などと書きたいだけ書くでしょう。

 しかし、私達は確信しています。私達が受けるすべての非難、罰則は、全くの無効、絶対的に無効で何の意味をも持たない、と。それについて私達は無視をするつもりです。

 ちょうど私があの聖職停止を無視したように、しかし、最後には教会と進歩的な聖職者達によって良くやったと褒められたように、同様に数年後、--- 私には何年後になるかはわかりません。ただ天主のみ聖伝がローマにおいてその権利を得るために何年かかるであろうかを知っているのですが--- 私達は、ついにはローマ当局によって抱擁される日が来るでしょう。ローマ当局は、その日、より大いなる天主の栄光と霊魂の救いのために、私達の神学校、家族、市民社会、私たちの祖国、そして観想大修道院と様々な修道院において、信仰を維持したことについて感謝することでしょう。

聖父と聖子と聖霊の御名によりて。 アーメン       


カトリック教会の聖伝の生き残りのために聖別された司教たち


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