2008年3月4日火曜日

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の説教 1988年6月30日エコン (スイス) 司教聖別式の説教にて

アヴェ・マリア!

Archbishop Lefebvre's sermon for the Episcopal Consecration at Econe on June 30, 1988

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 1988年6月30日エコン (スイス) 司教聖別式にてルフェーブル大司教がされた御説教をご紹介します。これを訳して下さったマキシミリアノ岡村さんに心から感謝します。


聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の説教
1988年6月30日エコン (スイス) 司教聖別式の説教にて




親愛なるカストロ・マイヤー司教様、
いとも親愛なる友人、そして兄弟の皆様、

 ご覧ください、私たちは間違いなく歴史的な一つの式典の為ここに集っています。何よりも先ず皆様にいくつかのお知らせをさせてください。

 第一のものは皆様を少し驚かせるでしょう、私自身そうだったからです。昨夜、ベルンの教皇大使館から送られ、教皇様からの嘆願書の入った一枚の封筒を持ったある訪問者がやって来ました。教皇様は私が自由に使えるようにと車をよこしたのです、この車は私を昨夜ローマに連れて行くことになっていたようです。それは私が今日この司教聖別を執行する事ができないようにするためでした。私には行かなければならない理由も場所も伝えられませんでした!このような嘆願のタイミングのよさと知恵をどう判断するかは皆様にお任せいたします。

 この一年間、私は幾日も、それどころか数週間もローマに行きました。教皇様は私が来て謁見するように招いてはくださいませんでした。仮にいくつかの合意がなされたなら、彼に謁見することは私にとってきっと喜ばしい事だったでしょう。ですからここで皆様に情報としておしらせします。私は皆様にこの事実を単純にお伝えするだけです。私自身、教皇大使館からの手紙を通して知るに至った様に。

 それでは、この式典に関する幾つかの指示と、その意義にかんする重要な文書について[お話しします]。

 皆様の中でお持ちになっている方もいらっしゃる司教聖別式小冊子に見られる誓いを、司教となる者たちは既に、私の手において立てました。従って、この誓約、さらには近代主義に反対する宣誓、この宣誓は公教会が司教聖別される者達に必ずすることを命じていたそのままのものです、それから信仰宣言は、もはや行われたということになります。彼らはすでにこれらの宣誓と信仰宣言とを、数日間シエール(Sierre)にて行われていた黙想会の後で私の手の元で済ましています。ですから、この司教聖別式が、信仰に関する審問、つまりカトリック教会が司教に聖別されるべき人々に尋ねる信仰審問の儀式から始まることになりますが、驚かないようにして下さい。

 さらに皆様に知っておいて欲しいことは、聖別式の後、皆様が司教様たちの祝福とその指輪に接吻することをお願い出来るということです。昨日皆様がされたように、叙階された新司祭の両手に接吻する事は公教会内の習慣ではありません。しかし信徒の方々は司教たちからの祝福とその司教指輪に接吻をすることが出来ます。

 最後に、皆様のために、書物やパンフレットなどを入手できるスタンドを準備しました。それらの書物は、この司教聖別式が、一見ローマの意向に反して執行されるかのようなこの聖別式が何故に離教[行為]ではないかをもっと理解する事を助けるのに必要なあらゆる要素が書かれています。私たちは離教者ではありません! 

 もしも、破門宣告が中国の司教たちにたいしてなされたなら、彼らは自らをローマと絶ち、自分を中国政府の配下に置いたからであって、ピオ十二世教皇が何故彼らを破門したのかは容易に理解できるところです。

 私たちにとって、自らローマと離れることなど問題外です。私たちにとって、教会と関係のない政府の元に身を置くことも問題外です。さらには、パルマール・デ・トロヤの司教らがスペインで行ったように、ある種の別個の教会を作り上げるなどということも問題外です。パルマール・デ・トロヤの人々は、教皇さえ選出し、枢機卿団の編成などさえしたのです。

 私たちにとって、このようなことを行うのは全くの問題外です。考えにもありません。ローマから離れるというこの惨めな考えなど私たちには一切ありません!

 その反対に、私たちがこの聖別式を執り行おうとしているのは、私たちのローマへの愛着を表明するためです。

 永遠のローマ、教皇聖下、最近の教皇聖下達に先立つすべての前任の教皇たちへの愛着を表明するためなのです。最近の教皇様たちは、残念ながら第二バチカン公会議以来、カトリック教会とそのカトリック司祭職とを破壊している深刻な誤謬を支持することが自らの義務だとみなしてきているのですが。

 そういうわけで皆様方が自由に入手することが出来るように置かれたこれらのパンフレットなどのなかに、ドイツはマインツ大学で教会法学の学部長、ゲオルグ・マイ教授によってなされたすばらしい論考があります。

 この教授は何故私たちが必要の緊急事態にいるか、つまり皆様の霊魂を助け、皆様を援助する必要性の中に私たちがいるという事を見事に説明しています。私が思いますには、先程の皆様の拍手は、決して世俗的な[喜びの]現れではなく、むしろ皆様の霊的な[喜びの]現れ、霊魂の救いのため、皆様の霊魂に聖主イエズス・キリストの生命を、正統な教義、諸秘蹟、信仰、御ミサの聖なる犠牲を通して、与えるために奉献されている司教や、司祭達を、とうとう獲得するという喜びを示す、霊的表明なのです。

 天国に行くために、皆様はこの聖主イエズス・キリストの御生命が必要です。この聖主イエズス・キリストの御生命は、公会議後の教会の至る所で消えつつあります。彼らはカトリックの道ではない道に従っています。つまり彼らは単に棄教に進んでいるのです。 

 これこそ私たちがこの聖別式を執り行う理由なのです。教皇になろうなどという気は私にはまったくありません! 私は、カトリックの教義を伝え続けているカトリック教会の一司教にすぎません。
 私が思うに、そしてきっとこれはそう遠くない未来のことでしょう、つまり皆様方が私の墓石に聖パウロのこれらの言葉を刻み込むであろう事です。“Tradidi quod et accipi --- 私は受けた事をあなた方に伝えた。そして他の何物でもないのです。

 私はちょうど皆様に一通の手紙を配達する郵便配達人です。私はその手紙、メッセージ、天主の聖言葉を書きませんでした。天主御自らがそれをお書きになったのです。つまり聖主イエズス・キリスト御自身がそれをわたしたちにお与えになったのです。

 私たちに関して言えば、私たちはここにいるこれら親愛なる司祭たちを通して、さらに永遠の信仰を保ちそれを信者達に授けることにより、公教会におけるこの離教の波に抵抗するために選ばれた全ての者を通して、ただそれを後世に伝えたのです。私たちは、善き知らせの単なる伝達者、私たちの聖主イエズス・キリストが私たちにお授けになったこの聖福音の伝達者であり、同様に聖化の手段である聖なる御ミサ、真実の聖なるミサ聖祭、霊的生命を実際に与える真の秘蹟の運搬者にすぎないのです。 

 親愛なる兄弟の皆様、私には自分がこれらすべての教皇達、つまりグレゴリオ十六世から始まって、ピオ九世、レオ十三世、聖ピオ十世、ベネディクト十五世、ピオ九世、ピオ十二世の声が私たちにこういうのを聞いています。

「私たちはあなたに懇願する、あなたは私たちの教え、説教、カトリック信仰をどうしようとしているのか? それを放棄するつもりなのか? 地上からそれが消え去るままにさせておくつもりなのか? どうか、どうか、私たちがあなたに与えてきたこの財宝を守り続けなさい。信者たちを見捨ててはならない! 公教会を見捨ててはならない! 公教会を続けなさい! 実に、公会議以来、過去において断罪されていた事を、現在のローマ当局は、抱擁し公言している。どうやってそんな事が出来るのか? 私たちは、自由主義、共産主義、社会主義、近代主義、シヨン主義を、断罪した。」

 「私たちが断罪したすべての誤謬は、公教会の権威者たちによって、今や宣言され、採用され、支持されている。そのような事があり得るのか? 私たちがあなたに与えたこの教会の聖伝を存続させるためにあなたが何かしないかぎり、全ては消滅してしまうだろう。霊魂たちは失われてしまうだろう。」


 私たちは、今、緊急事態にいることがわかります。私たちは出来ることは見なしてきました。ピオ十二世教皇聖下とそのすべての前任者達の取った態度に立ち戻らなければならないということを、ローマが理解することが出来るように出来るだけの手助けをしてきました。カストロ・マイヤー司教様と私自身とは、ローマに行き、語り、何度もローマに手紙を送りました。私たちはこれらの語りかけを通して、これらの全ての手段を通して、ローマに理解してもらうようにし続けてきました。あの公会議以来、さらにアジョルナメント以来、公教会で起こって来ているこの変革は、カトリック的ではなく、永久不変の教義と一致しない、ということをローマが理解するようにと。このエキュメ二ズムと、これらのあらゆる誤謬、この司教団体主義、これら全ては公教会の信仰に反していて、公教会破壊の工程内にあるものであるということを。

 だから、本日のこの司教聖別の行為によって、私たちはこれら諸教皇の招きに従順に従い、結果として天主の呼びかけに従順であることになると確信しています、何故なら彼らが公教会内で天主の代理者であるからです。

「では大司教様は何故、或る程度は成功の見込みがあったと思われるこれらの討論を止めてしまったのですか?」

 はい、正に、私が議定書(プロトコール)にサインをしたのと同時に、ラッツィンガー枢機卿の使者が私に一通のメモをよこし、その中には、私が犯した誤謬について謝罪するようにと要求する旨が記されていたからです。

 「私が誤謬の中にいる」ということは、「私が誤謬を教えている」ということは、このメモに私がサインするように送ってきた人々の頭の中では、私が真理に連れ戻されなければならない、ということを意味するのは明らかです。「私が犯した誤謬を認める」ということは、「もしあなたが自らの過ちを認めるならば、我々はあなたが真理に立ち返るのを助けてあげよう」という意味です。

 それでは、彼らにとってこの真理とは一体何なのでしょうか? それは、第2バチカン公会議の真理、公会議後の教会の真理以外の何ものでもありません。

 従って、バチカンにとって今日存在している唯一の真理とは、公会議の真理、公会議の精神、アシジの精神である事は明らかです。これが今日の真理なのです。しかしこのようなことは、私たちとは何の関係もありません!


 だからこそ、聖伝を無におとしめ、第二バチカン公会議の精神とアシジの精神とに世界を引き込もうとする現在のローマ当局の強い意志を考えた上で、私たちは身を退かせ、このまま続行することは出来ない、と言う事を選んだのです。続けることは不可能です。私たちはまぎれもなく私たちを導いたことになろうローマ委員会の代表であるラッツィンガ―枢機卿様の権威の下にいた事でしょう。私たちは彼の手中に身を置いていました、そして結果的に私たちをして公会議の精神とアシジの精神と引き吊り込もうと望んでいる人々の手に自らを委ねていたでした。これは単純に不可能でした。 

 そういうわけで私は教皇聖下に一通の手紙を送りました。そこで教皇様にこうはっきりと申し上げました。

「私たちは、教皇様との全き交わりのうちにいたい、という全ての望みにもかかわらず、[この精神とこの提議を受け入れる事は]どうしてもできません。現在ローマにおいて全てを支配しているこの新しい精神、教皇様が私たちに伝えたいと願っているこの新しい精神が与えられるかぎり、私たちは聖伝において続けることを選びます。聖伝がローマでその地位を再び獲得するのを待ちながら、ローマ当局において、彼らの心の中で、聖伝がその元の場所を再び取り戻るのを待ちながら、私たちは聖伝を守るほうを取ります」と。これは天主様があらかじめご存じの期間、長く続くでしょう。 

 いつ聖伝がローマでその権利を再び取り戻すか、という時を知るのは私の役割ではありません。しかし、私が「生き残り作戦」聖伝の生き残り作戦と名付け、それをする手段を提供するのは、私の義務であると考えています。本日、この日は、生き残り作戦の日です。

 もし私たちがサインをしてしまった同意に従って存続し、それを実践に移すことによって、私がローマとこの取引をしていたとしたら、私は「自殺作戦 (Operation Suicide)」をしていたことになったでしょう。

 選択の余地はありませんでした。私たちは生き続けなければなりません! そういうわけで本日、これらの司教聖別によって、私は、聖伝を、つまりカトリック教会を生きたままに保ち続けているということを確信します。

カトリック聖伝の生き残りのために聖別される聖ピオ十世会の四名の司教たち

 親愛なる兄弟の皆様、あなたたちは司教なくして司祭が存在し得ないことを良くご存知です。天主が私をお呼びになる時 ―― これは間もなくであろうことは疑えないのですが ――、これらの神学生達は誰から叙階の秘蹟を授かるのでしょうか? その疑わしい意向のため、疑わしい諸秘蹟を授ける公会議後の司教たちからですか? これは不可能です。

 第二バチカン公会議に至るまで、二十世紀の間公教会が常に叙階の秘蹟を授与してきたのと同じやり方で、聖伝と諸秘蹟を真に守ってきた司教達とは一体誰なのでしょうか? カストロ・マイヤー司教様と私自身です。私は秘蹟を変えることは出来ません。変えることができないからです。

 従って、多くの神学生たちが私たちに信頼を置き、彼らは、ここには公教会の継続、聖伝の継続があると感じたのです。そして彼らは、司祭職への真の叙階を授かる為、カルワリオの真の犠牲、御ミサの真の犠牲を捧げ、そして真の秘蹟、真の教義、真の要理を皆様方に授ける為に、直面したあらゆる困難にもかかわらず私たちの神学校に来たのです。これこそが、これらの神学校の目的です。

 ですから私は、良心にかけて、これらの神学生たちを孤児にすることは出来ません。同様に、将来のために何も提供することなく死んで皆様方を孤児にする事も出来ません。それは出来ない事です。そのようなことは、私の義務に反するでしょう。

カトリック聖伝の生き残りのために聖別される聖ピオ十世会の四名の司教たち

 それ故に、私たちは天主の御恵みによって、司教の職務を果たし、皆様の子供達に堅信と、いくつもある神学校でより容易に叙階を授ける事のできるために、適した環境と職務にいると同時に、最も相応しいと思われる司祭たちを私たちの会から選び出しました。従って、天主の御恵みにより、私たち、すなわちカストロ・マイヤー司教様と私自身とは、これらの聖別によって、聖伝に継続の手段を与える事になり、両親たち、祖父母たち、祖先たちの公教会内に留まることを望むカトリック信者達に対して、その手段を授ける事になるでしょう。

 私たちの祖先たちは美しい祭壇をもつ諸々の教会を建てました。しかしながらこれらの祭壇は度々破壊され、テーブルによって取り替えられました。こうすることによって、公教会の中心であり司祭職の目的であるミサ聖祭の犠牲に関して公会議以来生じてきた急進的な変革を表明しているのです。この聖別式の遂行において私たちを支持するためにこれほどの大人数で来てくださったことに対し私たちは皆様に感謝を申し上げます。 


カトリック聖伝の生き残りのために聖別される聖ピオ十世会の四名の司教たち


 私たちは祝された童貞聖マリアに目を向けます。親愛なる兄弟の皆様、皆様が良くご存知のように、ある日「ペトロの座は邪悪の座になるでしょう」と啓示するレオ十三世の予言的な幻視について知らされているに違いありません。レオ十三世教皇は、「レオ13世による悪魔祓い」と呼ばれる悪魔祓いの祈りの中でこう言いました。

それは今日、起こっているのでしょうか? それとも、明日の話でしょうか? 私にはわかりません。しかしいずれにしても、それは予告されてきているのです。邪悪 (Iniquity) とは全く単純に誤謬のことかも知れません。誤謬は邪悪ですから。つまり、永久不変の信仰、カトリック信仰を、もはや宣言しないという事は、重大な誤謬なのです。もしもかつて何らかの邪悪があったとするならば、これがそれです。そして私は、公教会の中でアシジ以上に重大な邪悪は決して存在したことがなかったと本当に信じています。それは天主の十戒の第一戒と使徒信経の第一箇条に反しています。あのような事が、公教会の中、全教会の目前で起こりえたなどという事は信じられないことです。何と屈辱的なことでしょうか! 私たちは、未だかつてこれほどまでの屈辱をこうむった事はありません! ローマにおける現状について皆様方に情報を差し上げるべく特別に出版されたル・ルゥー (Le Roux) 神学生の書いた小冊子の中に、皆様はこの件についてのすべてを見出すでしょう。 

 このような事柄を言われたのは善き教皇レオ十三世だけではなく、我らの聖母も同様に予言した事なのです。ちょうど最近、コロンビアのボゴタの修道院を受け持つ司祭が、「良き出来事の聖母」の御出現に関する一冊の本を持って来てくれました。この聖母マリア様に、エクアドルのキト (Quito) にあるひとつの大聖堂は献堂されています。これらの啓示は、トリエント公会議の後間もなく一人の修道女が受けたもので、お分かりのように数世紀前の事であります。この御出現は既にローマと教会当局によって認可され、一つの壮大な教会が聖母マリア様のために建立されました。その内部で、エクアドルの信者たちはその御顔が奇跡的に作られた、一枚の聖母の御絵を大いなる信心をもって崇敬しているのです。それを描いた画家はこの聖母の御顔をいざ彩色する過程で、それが奇跡的に仕上げられているのを発見したという事です。さらに聖母は19世紀と20世紀の大半において誤謬が、公教会を破滅的状態に陥れながら、聖なる公教会の中でますますはびこるだろうと予言されたのです。道徳は退廃し信仰は消えて無くなるだろうと。今日それが起こっているのを見ないほうが不可能といえます。

 この御出現についてお話しを続けることをお許し下さい。しかし聖母は、真の司祭達を養成することにより司祭職を救いながら、この棄教と不敬虔の波に真っ向から立ち向かうという一人の高位聖職者について言及しています。この予言が私について言及しているとは言いません。皆様がご自身で自らの結論を出してくださって結構です。この数行を読んでいた時、私は呆然となりましたが、それを否む事が出来ませんでした。なぜなら、それはこの御出現の文書局の中に記録され保管されていることだからです。

 もちろん皆様方はラ・サレットの聖母の御出現を良くご存知であり、そこで彼女はローマが信仰を失い、ローマで一つの「陰り(eclipse)」があるだろうことを言及しています。一つの「陰り」、これをもって聖母が言わんとすることに気づいてください。 

 そして最後に、私たちに馴染みの深いファティマの秘密、ファティマの第三の秘密は、ローマを侵略し、公会議以降世界を覆ってしまったこの暗黒について言及しているに違いありません。さらに、ヨハネ23世がその秘密を公表しない方がよいと判断したことは、疑いなくきっとこれが理由であり、おそらく彼が実行不可能と感じた手段、例えば公会議を見込んで、さらに公会議のために彼が着手し始めた方針を完全に変更することなどの対策を講じる必要があったからでしょう。 

 私たちが頼ることのできる事実がある、と思います。

カトリック教会の聖伝を続けるために聖別された聖ピオ十世会の司教たち

 私たちは天主の御摂理の中に自らを置きます。私たちは天主が御自分の行っていることをご存知であると確信しています。ガニョン枢機卿様は、聖職停止の十二年後、私たちを訪問しました。十二年もの間、私たちはローマとの交わりの外にいるものとして、教皇様に逆らう反逆者にして反対者として語られてから、十二年後に、彼の訪問がなされたのです。ガニョン枢機卿ご自身、私たちが行っている事がまさに公教会の復興に必要であることをお認めになりました。さらに枢機卿様は、1987年12月8日に、私達の神学生たちの聖ピオ十世会への誓約更新のために私が捧げた御ミサに、大司祭として (pontifically) に参列さえしました。私は聖職停止のはずだったのに、です。それにもかかわらず、事実上、私は教会法上問題ないとされたのです。教皇使節たちは、私達が良くやったとおっしゃって下さいました。つまり、私達が抵抗して、良くやった、ということです!

The four new bishops after receiving their crosiers and being enthroned

 私は今も同じ状況に私達がいることを確信しています。私達の執行している行為は、見かけ上 ---- そして残念ながらマス・メディアは良い意味で私達を支持してくれないでしょう。新聞の見出しは、もちろん、「離教」「破門!」などと書きたいだけ書くでしょう。

 しかし、私達は確信しています。私達が受けるすべての非難、罰則は、全くの無効、絶対的に無効で何の意味をも持たない、と。それについて私達は無視をするつもりです。

 ちょうど私があの聖職停止を無視したように、しかし、最後には教会と進歩的な聖職者達によって良くやったと褒められたように、同様に数年後、--- 私には何年後になるかはわかりません。ただ天主のみ聖伝がローマにおいてその権利を得るために何年かかるであろうかを知っているのですが--- 私達は、ついにはローマ当局によって抱擁される日が来るでしょう。ローマ当局は、その日、より大いなる天主の栄光と霊魂の救いのために、私達の神学校、家族、市民社会、私たちの祖国、そして観想大修道院と様々な修道院において、信仰を維持したことについて感謝することでしょう。

聖父と聖子と聖霊の御名によりて。 アーメン       


カトリック教会の聖伝の生き残りのために聖別された司教たち


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10 件のコメント:

pinpinkorori さんのコメント...

フランス司教協議会の教令1988年7月1日付によれば、教会法1364-1,1382の違反。聖座の意志に逆らいそして聖座の委任なく4人司教を叙階したことにより破門(excommunication)となっています。教令では以下計6名です。
Lefebvre,
Bernard Fellay,BernardTissier de Mallerais,RichardWilliamson,Alfonsode Galaretta(戒告monitioncanoniqueに従わなかった4人の司祭),
Antonio de Castro Mayer(参加司教)
そしてLefebvreに従う司祭信徒は重大な破門となるのでLefebvreに従わないように警告しています。(Lefebvreに従うのではなく,聖座に従い第2バチカン公会議の光を受け入れる人々は喜んで向い入れ助ける姿勢となっています。)
聖座とその意思を尊重しないという致命的な欠陥により、この時からカトリック教会の外に存在しています。
(破門後の93年に叙階?された小野田氏について出身地の教区長は聖職の行使は許されないとしました。)
現在大阪東京で勝手におこなわれているカトリック教会を破門されている小野田氏の「ミサ」?は、ミサ聖祭が、当該地司教と教皇とカトリック教会に一致すべきものですからカトリックの聖なるミサではありません。
Mgr.CamillePERL(2002.04.15)によればカトリック信者は参加してはなりません。たとえ葬儀や結婚式等やむをえず参加した場合にも聖体拝領?は禁じられています。それは聖体拝領の秘跡は、教会の一致でもあるからです。(教会一致を破った司祭・聖祭では、教会一致ができません。)
カトリック教会(教会が御聖体の秘跡を、そして御聖体の秘跡が教会をつくる)から自ら離反してしまったからです。それがこのビデオの意味です。
この1988年6月30日の「破門」以降、聖ピオ十世会はまったくの「離教」団体なので「カトリック」の名をつけることは許されていません。
カトリック信者も参加したり等関係を持つことが大罪になる(カテシズムn.2180-2183)とされています。
「教会の外には救いはない」という第2バチカン公会議以前の考えによれば、Lefebvreは、破門され教会の外におかれ救いはなくなった。
彼らの救いは彼らの好む公会議以前の考えに沿って文字どうり自ら首をしめる結果となり救いのないことになったのだ。木は実によって知ることができるとはLefebvreが好んだ聖句だが、破門という実によってLefebvreの全業績を知ることができる。
このカトリック教会の第2バチカン公会議の光の輝きを愚弄してきたLefebvreの罪はほんとうに重い。
どのように神の前でかれらは申し開きできようか?
破門され「教会の外には救いはない」のだから。
それとも自分たちの救いに関しては公会議の光に入れてもらい「教会の外にも救いはある」(諸宗教アシジの集まり)を適用してもらうように懇願するのだろうか?
フランス人のカトリック司教に「破門されたLefebvreのものを訳す日本人がいてしかも破門後に叙階までした日本人が存在する」ときいたら腰が抜けるくらい驚くだろう。アジアの非キリスト教国で破門されたLefebvreにこだわる理由を見出せず全く驚愕するだろう。
時代錯誤以上に救いを求める霊魂にとって危険といっても過言ではない。

Fr Thomas Onoda FSSPX さんのコメント...

アヴェ・マリア!

pinpinkorori さん、コメントを感謝します。

【一】まず、ルフェーブル大司教様は、カトリック教会法典によれば「聖座の委任なく4人司教を叙階したことにより破門」ではありません。

 (1)何故なら、カトリック教会法典1323条の4により、必要の状態(緊急状態)に迫られて法を犯す人は、刑罰の対象にならない(カトリック教会法1323条の4)
(Can. 1323 - Nulli poenae est obnoxius qui, cum legem vel praeceptum violavit:
4°metu gravi, quamvis relative tantum, coactus egit, aut ex necessitate vel gravi incommodo, nisi tamen actus sit intrinsece malus aut vergat in animarum damnum)
とあるからです。

 (2)何故なら、ルフェーブル大司教様は、別の教会を創ろうとしたのではなく、カトリック教会の伝統(聖伝)をそのまま続けようとしただけだったからです。過去の教会の教導職の教え、過去の歴代の教皇様の教えをそのまま信じ・実践しようとしただけだったからです。

【2】たしかに、1988年7月2日の「エクレジア・デイ」には次のような文章があります。

c) 現在の状況において、私は特に、今迄ルフェーブル大司教の運動に色々なやり方で結ばれてきた全ての人達に、彼らが、カトリック教会の一致においてキリストの代理者に一致して留まるという重大な義務を、そしてこの運動に対するどのような支持も停止するという重大な義務を果すように、と荘厳で心からの、父としてまた兄弟としての呼びかけをしようと望みます。離教への形相的な【訳註:formal とは、material に対立する概念で、見かけの上(=material)のみではなく、別の教会を創ろうとする意図を持って、分かりやすく言えば「本当の」ということ】固執が天主に対する重大な侮辱であって、教会法によって命じられる破門という罰をもたらすことを誰もが知っていなければなりません。

c) In the present circumstances I wish especially to make an appeal both solemn and heartfelt, paternal and fraternal, to all those who until now have been linked in various ways to the movement of Archbishop Lefebvre, that they may fulfil the grave duty of remaining united to the Vicar of Christ in the unity of the Catholic Church, and of ceasing their support in any way for that movement. Everyone should be aware that formal adherence to the schism is a grave offence against God and carries the penalty of excommunication decreed by the Church's law.(8)

 過去の教会の教導職の教え、過去の歴代の教皇様の教えをそのまま信じ・実践しようとすることが、ルフェーブル大司教の運動なのでしょうか? もしそうなら、何故、過去の教会の教導職の教え、過去の歴代の教皇様の教えをそのまま信じ・実践しようとすることが、「カトリック教会の一致においてキリストの代理者に一致して留まるという重大な義務」に反することになるのでしょうか? 何故、「この運動に対するどのような支持も停止するという重大な義務」が生じることになるのでしょうか?

 離教への形相的な固執が天主に対する重大な侮辱であって、教会法によって命じられる破門という罰をもたらすことは、誰もが知っています。聖ピオ十世会の誰も、新しい教会を創って離教をしようという意図を持っているのではありません。ただ、過去の教皇様の教えに忠実であろうとしているだけです。

 何故なら、「この文書(=「現代世界憲章」のこと)の全体的評価を求めるなら、信教の自由に関する文章と世界における諸宗教に関する文章との関連において、この文書はピオ九世の『シラブス』の修正であり、ある意味で『反シラブス』であると言うことが出来るだろう。・・・この文書は、教会が、フランス革命以降このようになった世界と公式に和解しようと試みている意味において、シラブスの反対の役を果たしている」【Cardinal Ratzinger, Principes de Theologie catholique, Tequi 1985, p. 426-427.】からです。

 「『教会憲章』は、カトリック教会だけが排他的に唯一の教会であるという説を放棄した」【Yves Congar, Essais oecumeniques, le Centurion 1984, p. 216.】 からです。

 「第二バチカン公会議の公文書である『エキュメニズムに関する教令』が、数世紀にもわたって教会が理解してきた意味においての『教会の外に救いなし』という格言とは別のことをいろいろ言っていると言うことは、明らかであり、隠すのも虚しい」【Yves Congar, Essais oecumeniques, le Centurion 1984, p. 85.】 からです。

 「エキュメニズムに関する教令」がピオ十一世教皇の「モルタリウム・アニモス」と明らかに矛盾している【Yves Congar, Essais oecumeniques, le Centurion 1984, p. 85.】からです。

 「信教の自由に関する宣言は、(ピオ九世の)1864年のシラブスとは内容的に別のことを、ほとんど正反対のことを言っていると言うことを私たちは否定することが出来ない。」【Yves Congar, La crise de l’Eglise et Mgr Lefebvre, le Cerf, 1977 p. 54.】からです。


 「第二バチカン公会議の教会は、『信教の自由に関する宣言』と、教会および現代世界に関する『現代世界憲章』とによって、過去において偉大であったことを否定せず、明らかに今日の多元的世界の中に自らを置き、中世から脈々と繋がりを持ち得たその絆を断ち切った」 【Yves Congar】からです。

「第二バチカン公会議の信教の自由に関する宣言は、その限界と不完全さを持つにもかかわらず、一歩の前進であった。この宣言は、シラブスによって象徴される過去の概念との断絶である、また同時に、教会の現実主義的な断言であり教会が現代世界において受け入れられることの出来る唯一の場所の証言である。」【Abbe Laurentin, Bilan du Concile, le Seuil, 1967, p. 207 et 213.】からです。

 だから「エクレジア・デイ」は「第二バチカン公会議が聖伝と継続しているということを明確に明らかにするためにより深く研究する決意を刷新することを求めている」と言い、「特に、教えの幾つかの点が新しいものなので」と第二バチカン公会議で今までになかった「新しい教え」が導入されたと認めているのです。そしてその新しい教えが「おそらく教会の一部においてよく理解されていなかった」ので、深く研究するようにと励ましているのです。

 つまり、「エクレジア・デイ」は、第二バチカン公会議に「新しい教え」が存在していることを認めているのです。

 むしろ、第二バチカン公会議こそが、「新しい教え」を導入することにより、「過去と断絶」した新しい「第二バチカン公会議の教会」(Conciliar Church)を創ろうとする運動ではなかったでしょうか。

 私たち聖ピオ十世会は、新しい教会・第二バチカン公会議の教会ではなく、カトリック教会に留まることを望みます。そして聖座はそのような人々を破門できるはずがありません。ルフェーブル大司教様は、カトリック教会の全聖伝をそのまま体現してきた人でした。もしも「何か新しいこと」の名前によって教会は、ルフェーブル大司教様が本当に「破門」することはできません。


【三】「何か新しいこと」とは、第二バチカン公会議の、新教の自由の新しい教えであり、エキュメニズムの新しい運動です。

 pinpinkorori さんは、アングリカンのことを「聖公会」と呼ぶことはどう思いますか?彼らに言わしめれば、ローマ教皇のもとにいるのは、Roman Catholic Church であり、イギリス王を首長とする教会が、Anglican Holy Catholic Church である、と主張しています。全くの離教教会です。

 何故、カトリック教会は、この「カトリック」と名乗る英国の離教教会と合同の儀式をすることが出来るのでしょうか?

 ルフェーブル大司教様は、カトリック聖伝信仰と聖伝のミサを続けさせようとしたがために「制裁」を受けたのでしょうか、コーランに接吻した教皇様によって。アシジの教皇様によって。

 もしも、アシジの集いが正しく、「公会議の光」が正しいのなら、pinpinkororiさんの言うように、「公会議の光に入れてもらい「教会の外にも救いはある」(諸宗教アシジの集まり)」が正しいのなら、pinpinkororiさんをはじめ、エキュメニカルな人々は、ルフェーブル大司教様や聖ピオ十世会の救いについて心配する必要もないでしょう。公会議の光によれば「教会の外にも救いはある」(諸宗教アシジの集まり)からです。


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

pinpinkorori さんのコメント...

小野田氏の教会法の「緊急事態」(ETAT DE NESSECITE)適用を破門宣告の教会法1364および1382違反にあてはめることは、客観的に(誰が見ても)とても「緊急事態」とは認めらない以上、無理であるといわざるをえない。
世界平和を祈るために他の宗教の人々と力を合わせて祈ることは神の栄光をたたえることであり神は喜ぶことであって何の問題はない。
神の愛は被造物におよび、神の偉大な救いの意思の働きは他宗教にも及んでいるはずだと考えることがなぜいけないことなのか?それを十戒の第一戒にそむくこと?だとするのは非寛容ないいがかりでしかない。誠に偏狭かつ排他的理解でしかない。
小野田氏は前教皇の破門されたルフェ―ブル派への呼びかけを載せています。
Dans les circonstances présentes, je désire avant tout lancer un appel à la fois
solennel et ému, paternel et fraternel, à tous ceux qui, jusqu'à présent, ont été, de
diverses manières, liés au mouvement issu de Mgr. Lefebvre, pour qu'ils réalisent le
grave devoir qui est le leur de rester unis au Vicaire du Christ dans l'unité de l'Eglise
catholique et de ne pas continuer à soutenir de quelque façon que ce soit ce
mouvement. Nul ne doit ignorer que l'adhésion formelle au schisme constitue une
grave offense à Dieu et comporte l'excommunication prévue par le droit de l'Eglise(8).
現在の状態(破門直後)において、私(前教皇)はまず何よりも、荘厳かつ心の底からの、父としてまた兄弟としての呼びかけをしたい。これまでルフェーブル大司教の運動にさまざまなやり方で結合した全ての人達に。彼らが、カトリック教会の一致においてキリストの代理者(前教皇)に一致して留まるという厳粛な義務を、そしてこの運動にどのようなやりかたにせよ支持を続けないという重大な義務を果すように、と。
離教への正式な同意が神に対する重大な侮辱であって、教会法によって想定される破門をもたらすことを誰もが知っていないはずはありません。(8)(教会法1364)
小野田氏は、前教皇の以上の文をすばらしく訳されています。
どうかこの前教皇のよびかけに答えられて教会に一致してくださいますように。真摯に受け入れられるようにとお祈りします。
破門の事実を事実としてまず率直に認めることがすべての出発点でしょう。
それをいいかえたりごまかしたりしてもはじまりません。真実は「髪の毛一本まで」神はご存知なのですから。
破門の事実を認めなければ同情のしようがないですよ。
何万回も教会のせいや他のせい(ミサのやり方のせい)にしても自分と他人を何万回も空回りして欺くだけではないでしょうか。
神は、ご自身を教会の歩み(発展)のなかで実現してきました。キリストの花嫁である教会は生きた教会なので死んで固定したものではありません。教会の絶対性は、その教会の歩みのなかで実現してきました。この教会の絶対性の運動の論理が著しく欠如しているのがLefevbreでした。生きた教会の姿をとらえることができなかったのです。

Fr Thomas Onoda FSSPX さんのコメント...

アヴェ・マリア!

Pinpinkororiさん、

 カトリック教会法典をよく読んで下さい。客観的な目で。

 ルフェーブル大司教様は、緊急事態であるからまたカトリック教会の聖伝を続けるため、という訴えました。

 カトリック教会法典の刑罰に関する条項、カトリック教会法典(1323条の4)によれば、たとえ、必要の状態が客観的に存在しなかったとしても、そのようなことを過失的な思いこみにすぎなかったとしても、少なくとも、いわゆる「自動破門」は成立しない、とあります。(カトリック教会法1324条§3及び§1の8)

Can. 1324 - § 1. Violationis auctor non eximitur a poena, sed poena lege vel praecepto statuta temperari debet vel in eius locum paenitentia adhiberi, si delictum patratum sit:
8° ab eo, qui per errorem, ex sua tamen culpa, putavit aliquam adesse ex circumstantiis, de quibus in can. 1323, nn. 4 vel 5;

Can. 1324 - § 3. In circumstantiis, de quibus in § 1, reus poena latae sententiae non tenetur.)

 このカトリック教会法典の条項が存在することは客観的事実です。これは客観的事実ですのでこれを否定して第三者に伝えることは虚偽となります。

 ガンタン枢機卿は、このカトリック教会法典の基本的な条項を無視してルフェーブル大司教様を断罪しました。

 カトリック教会法1324条§3及び§1の8が存在するにもかかわらず、「伴事的破門 (=ipso facto l'excommunication latæ sententiæ)」という制裁が適応された、と「確認する」する形を取りました。つまり、法に従わず、法の見せかけをとっただけでした。

 だから、ルフェーブル大司教様は冤罪をかけられたのです。だから、ルフェーブル大司教様のいわゆる「破門」といわれるものは、冤罪にすぎないのです。

 Pinpinkororiさん、カトリック教会法典をよく読み、たとえ、必要の状態が客観的に存在しなかったとしても、そのようなことを過失的な思いこみにすぎなかったとしても、少なくとも、いわゆる「自動破門」は成立しない、とあることを、事実を事実としてまず率直に認めることがすべての出発点でしょう。

 その条項が存在することを客観的事実として認めたうえで、ガンタン枢機卿が冤罪を着せかけて「破門」をしようとした事実を事実としてまず率直に認めることがすべての出発点でしょう。

 それをいいかえたりごまかしたりしてもはじまりません。「髪の毛一本まで」天主はご存知なのですから。

 カトリックの聖伝を何万回も不従順だ、非合法だ、と告発し、それと同時に、本当に不従順法であり非合法な人々とはエキュメニカルに兄弟だと呼ぶ。教会を使わせる。同じキリストを信じている、同じ交わりの中にいる、という。これこそ、何万回も空回りして人々を欺くだけです。

 Pinpinkororiさん、「神は、ご自身を教会の歩み(発展)のなかで実現してきました。キリストの花嫁である教会は生きた教会なので死んで固定したものではありません。教会の絶対性は、その教会の歩みのなかで実現してきました。」もしもこれが本当なら、私たちは明日を待ちます。教会が「死んで固定したものではなく」その教えをコロコロ変えるなら、今日断罪されたルフェーブル大司教様も、明日にはきっと正しかったと言うことになるのでしょうね。

 もしも本当に「この教会の絶対性の運動の論理」を信じているのなら、「生きた教会の姿をとらえる」ように、明後日の教会をお待ち下さい。


 Pinpinkororiさん、いいえ、天主は永遠に不変。真理は変わることがありません。

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

Fr Thomas Onoda FSSPX さんのコメント...

アシジの平和祈祷集会についてどう考えればよいのでしょうか?

 アシジの「祈祷集会」は、ヨハネ・パウロ2世の「個人的な発案」であるとのことです。「個人的な」発案として、このような催しは「全てのキリスト者の牧者及び教師」(第1バチカン公会議)の使命にかかわることでは全くなく、また国連によって今年1986年が「国際平和の年」として提案されている政治的なテーマに従っていることですから、教義にかかわることでもありません。

 来る10月27日にはアシジにカトリック信者のみならず「世界中の他の諸宗教の代表者たちが平和のために集うために」(オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙1986年1月26/27日号)会合する予定です。

 ヨハネ・パウロ2世が「世界中の他の諸宗教の代表者たち」と呼んだ人々のことを、カトリック教会は常に「未信者infideles」とふさわしく呼び慣わしてきました。「未信者とは、広い意味において真の信仰を持っていない全ての人々のことを言い、固有的な意味においては洗礼を受けていない人々のことを言います。そしてこの意味においては未信者は一神教信者(ユダヤ人やイスラム教徒)、多神教信者(ヒンズー教など)そして無神論者に分けられます」(Roberti-Palazzini, Dizionario di teologia morale, p. 813より)。

 またヨハネ・パウロ2世が「他の諸宗教」と呼んだことを、カトリック教会が常に「邪教」と呼んできたものです。キリスト教以外の全ての宗教は「天主が啓示しそれを実践することをお望みになる宗教ではないという意味で」(Roberti-Palazzini, Dizionario di teologia morale, p. 813より)邪教なのです。

 以上のことを述べた後に、この種の「祈祷集会」はカトリック信仰の光に当てたとき、次のようなものとしてしか考えられないと言えます。

天主に対する侮辱
贖いが誰に対しても必要であると言うことの否定
未信者に対して当然なすべき義務と愛徳との欠如
カトリック信者たちにとっての危険と躓き
教会の使命と聖ペトロの使命とに対する裏切り
天主に対する侮辱

 全ての祈りは、願い事をする祈りであっても、礼拝行為(actus cultus)です(聖トマス・アクイナスの神学大全II-II q. 83)。祈りは礼拝行為として、礼拝を受けるべき方に、なされるべきやり方で、礼拝が捧げられなければなりません。

 「礼拝を受けるべき方」とは、唯一の真の天主であり、創造主、すべての人の主です。私たちの主イエズス・キリストがその真実のお方を知るための智慧を私たちに授けられた(1ヨハネ5:20)のです。私たちの主イエズス・キリストはまた「私はおまえの天主、主である。… 私以外のいかなる神々をも持ってはならない。… これらを拝んではならず、これらに礼拝を捧げてはならない。」(脱出20:2, 5. マテオ4:-10、ヨハネ17:3、ティモテオ2:5)律法の第1戒を確認されました。

 「なされるべきやり方で」とは、啓示の充満に対応するように、いかなる誤りもなく、と言うことです。「まことの礼拝者が、霊と真理とを持って御父を拝むときが来る、いやもう来ている。御父はそう言う礼拝者を望んでおられる。」(ヨハネ4:23)

 偽りの神々に捧げられた祈り、或いは、天主の啓示とその全て或いは一部が対立するような宗教の憶測に基づいてなされた祈りは、礼拝行為ではなく迷信と呼ばれるべきであり、迷信は天主を敬わないばかりでなく、天主を、少なくとも客観的に、犯すものです。迷信は天主の十戒の第1戒に背く罪です。(神学大全II-II qq. 92-96)

 アシジに集う人たちは、一体誰にどのように祈るのでしょうか?招かれた「他の諸宗教の代表者たち」はそれぞれの宗教行事の服を着て「彼らに固有のやり方と固有の形式でそれぞれが祈るだろう」とのことです。これが非キリスト者のための事務局長であるウィルブランド枢機卿(Cardinal Willebrands)が説明したことです。(オッセルヴァトーレ・ロマーノ紙1986年1月27/28日号)このことは1986年6月27日にエッチェガライ枢機卿が記者会見で確認したことであり、これは1986年9月7/21日号のDocumentation Catholiqueに「聖座発表」の見出しのもとで「それぞれの祈りを尊重し、それぞれに自分の信仰と信じていることをそのまま表明することを許す」と発表されました。

 ですから10月27日にアシジでは迷信がその最も忌々しい形で大きく実践され、聖寵の時代にありながら天主のキリストを否定しつつ天主を敬っているとうそぶいているユダヤ人の偽りの礼拝(神学大全II-II qq. 92 a. 2 ad 3 et I-II q. 10 a.11)に始まって、創造主に捧げるべき礼拝をヒンズー教徒や仏教徒が被造物に礼拝を捧げるという偶像崇拝(使徒17 :16)に至るまで許されることになるでしょう。

 少なくとも見かけ上、カトリックの権威が彼らを承認することは、天主が迷信でさえも、真の礼拝行為と同じく嘉し給い、真の信仰の表明と同様に不信仰の表明でさえも同じく嘉し給うということ、つまり真の宗教も邪教も嘉し給い、真理も偽りも嘉し給うということを前提とする、或いは暗黙の了解と考えさせるのであり、これは天主に対して非常に大きな冒辱となります。(神学大全II-II q. 94 a. 1)

贖いが誰に対しても必要であると言うことの否定

 天主と人々をつなぐ仲介者はだだ一人しかいません。すなわちまことの天主かつまことの人である私たちの主イエズス・キリスト(1ティモテオ2:5)です。本来なら人は「怒りの子」(エフェゾ2:3)でありましたが私たちの主イエズス・キリストによって御父と和解しました(コロ1:20)そして私たちの主イエズス・キリストに対する信仰によってのみ人は信頼して天主に近づくことができる(エフェゾ3:12)のです。

 天と地の全ての権能が私たちの主イエズス・キリストに与えられました(マテオ28:18)そして天と地と地の下にあるものは全て私たちの主イエズス・キリストの聖名に膝をかがめなければなりません(フィリッピ2:10-11)。

 私たちの主イエズス・キリストを通らずに誰一人として御父の元に行くことができません(ヨハネ14:6)。私たちの主イエズス・キリストの名前以外に人が救われることのできる聖名は天下にありません(使徒4:12)。私たちの主イエズス・キリストはこの世に来るすべての人を照らす光であり(ヨハネ1:9)、私たちの主イエズス・キリストに従わないものは誰であれ暗闇を歩く(ヨハネ8:12)のです。私たちの主イエズス・キリストの味方をしないものは主に逆らうものであり(マテオ13:30)、私たちの主イエズス・キリストを敬わないものは、私たちの主イエズス・キリストをお遣わしになった御父を冒辱するのです --- そしてまさしくこのことをユダヤ教徒たちがしているのです(ヨハネ5:23)。天主御父がすべての人を裁く権能をお委ねになったのは私たちの主イエズス・キリストにであり、私たちの主イエズス・キリストを信じないものは、天主の唯一の御子の聖名を信じなかったがために、すなわち御子を遣わした御父(ヨハネ17:3)を私たちの主イエズス・キリストにおいて信じなかったために既に裁かれたのです(ヨハネ3:18)。

 更には、私たちの主イエズス・キリストこそ平和の君主です(イザヤ9:6、エフェゾ2:14、ミケア5:5)。何故なら、全ての分裂、対立、戦争などは、人が贖い主の御血の力によるのではなければ自分の力ではそこから解放されることのできない罪の苦い果実であるからです。

 私たちの主イエズス・キリストは、アシジにおいて、非キリスト者たちの「他の諸宗教の代表者たち」の祈りとどのような関係があるのでしょうか?全くありません。

 何故なら私たちの主イエズス・キリストは彼らにとって、或いは知られざる人であり、或いは躓きの石であり、或いは逆らいのしるしだからです。世界平和のために祈るようにと言う彼らに対してなされた招待は、次の誤りを前提とし、それを避けることなく暗黙の了解としていることを認めてしまっています。

 つまりその誤りとは、一方では私たちの主イエズス・キリストの仲介によってイエズス・キリストの聖名によって天主に近づくことのできる人たち(つまりキリスト信者たち)があり、他方で私たちの主イエズス・キリストという仲介者の介入なく自分自身の名前によって天主に直接行くことのできる人々(つまりその他の全人類)がいる、ということです。別の言い方をすると、私たちの主イエズス・キリストの前に膝をかがめなければならない人々とそれを免れている別の人々がいると言うこと、私たちの主イエズス・キリストの御国において平和を求めなければならない人々と私たちの主イエズス・キリストの御国の外に平和を見出し、しかも主の御国に対立してさえも平和を得ることができる人々がいると言うことです。このことはウィルブランド枢機卿とエッチェガライ枢機卿との宣言から結論づけられることです。「もし私たちキリスト者にとってキリストが私たちの平和であるなら、信じるすべての人にとって平和は天主の恵みである」(ウィルブランド枢機卿オッセルバトーレ・ロマーノより)。「キリスト者たちにとっては祈りはキリストを通る」(エッチェガライ枢機卿Documentation Catholiqueより)。

 アシジの「祈祷集会」は、ですから、贖いが誰に対しても必要であると言うことを公に否定することです。

未信者に対して当然なすべき義務と愛徳との欠如

 かつてピー枢機卿(Cardinal Pie)は、「イエズス・キリストはオプションではない」と言っていました。私たちの主イエズス・キリストに対する信仰によって義とされる人が一部で存在し、私たちの主イエズス・キリストと関係なく義とされる人が他方で存在するのではないのです。すべての人はキリストにおいて救われ、すべての人はキリスト無くしては滅びてしまうのです。天国という唯一の超自然の究極の目的とは別の「自然の最終目的」という選択肢が人間にあるわけでもありません。罪を犯すことによって人は道を外れてしまうのですが、もしキリストにおいて唯一の道(ヨハネ4:6)を見出すことができなければ、人間が創造されたその最終目的に到達するための道を見出すことが出来なかったと言うことですから、人には永遠の滅びしか残っていないのです。

 ですから、異教徒たちをも含めて全ての人々にとって救いの主観的な条件は真の信仰なのであって、たんなる「善意」ではないのです。何故なら真の信仰こそが手段として必ず必要なものであり、「もし(たとえ故意にではなかったとしても)真の信仰がない場合には、永遠の救いを期待することが絶対的に不可能(ヘブレオ11:6)」(Roberti-Palazzini, op. cit. p. 66)だからです。

 聖トマスは次のように説明しています。故意の不信仰は過失であり、不本意の不信仰は罰である、と。実際に未信者は不信仰の罪によって永遠に滅びるのではありません。つまり彼らが全く知りもしなかったキリストを信じなかったという罪によって滅びるのではなく、真の信仰無くしては誰も赦しを得ることができないその他の罪によって滅びるのです(マルコ16:15-16、ヨハネ20:31、ヘブレオ11:6、トリエント公会議Dz 799, 801、第1バチカン公会議 Dz 1793、神学大全II-II q. 11, a. 1)。

 人間にとって贖い主を受け入れ、仲介者と一致することよりも重要なことはありません。これこそが永遠の生死にかかわる問題です。天主の命に従って(マルコ6:16、マテオ28:19-20)未信者はカトリック教会によってこれが告げ知らされるのを聞く権利があります。これこそが、カトリック教会が常に未信者たちに、彼らのために祈りつつ(彼らと共に祈るのではなく)、告げ知らせてきたことです。

 アシジでは何が起こるのでしょうか?アシジでは彼ら未信者のためには祈りません。それは暗黙のうちにそして公に、彼らにはもはや真の信仰が必要ではない、と言うことを前提としているからです。彼らのために祈る代わりに、彼らと交わって祈る、ラジオ・バチカンのユダヤ教師のような言い方によると、彼らのそばに祈るためにいる、ことになっています。こうすることによって暗黙のうちにそして公然と、“誤りの教える祈りも、「霊と真理とにおける」祈りと同じように天主に嘉されるものである” と言うことを前提としてしまっているのです。

 「それぞれの祈りを尊重する」とエッチェガライ枢機卿はその短い宣言の中で説明しています。つまりアシジに集う未信者は「信仰について何も知らないジャングルの中で育った未開人」(神学者たちは未信者の救いの問題を論じるときに彼らの仮説のもとになっている前提がこれです。例えば聖トマスDe veritate XIV 11)ではないのですから、彼らは「尊重されて」「闇と死の陰に」(ルカ1:79)取り残されることになるのです。

 「他の諸宗教の代表者たち」は、自分の宗教色豊かな服装で、宗教に関して誤って信じていることに合うように祈ることを許され、彼らは更に、少なくとも形のうえでは (materialiter) 信仰に対する罪、不信仰、異端、などに踏みとどまるようにと奨励されているのです。

 世界平和が「基本的な」そして「最高の」善であると定義され(ヨハネ・パウロ2世 オッセルバトーレ・ロマーノ1986年4月7/8日号 とウィルブランド枢機卿 オッセルバトーレ・ロマーノ1986年1月27/28日 の発言)、その世界平和のために祈るように招待を受けた彼らは、永遠の善からこの世の善へと、すなわち自然的な副次的な善へと道をそらされてしまっています。あたかも彼らには超自然の究極の目的を得る必要がないかのようです。しかし、この超自然の究極目的こそ真に基本的で最高のものなのです。

 「天主の御国とその正義を求めよ。そうすれば、それらのこと(地上のこと)も加えておまえたちに与えて下さる」(マテオ6:33)。

 以上の理由によって、アシジでの「祈祷集会」は、少なくともその見かけだけでも、未信者に対して当然なすべき義務と愛徳とを欠く行為であると言えます。

カトリック信者たちにとっての危険と躓き

 救いのために真の信仰がどうしても必要となります。カトリック信者は自分の信仰を危うくするような全ての危険な機会を避けなければなりません。そのような外的な危険のうちの一つが、どうしても避けられない必要もないにもかかわらず未信者と接触することです。このような接触は教会法を待つまでもなく、そして教会法がたとえば社交上のこととして禁止していない場合でも、自然法と神法によって許されないことなのです。聖パウロは言います。Haereticm hominem divita. 異端者を避けよ、と(ティト3:10)。

 教会は母の心を持ってカトリック信者にとって信仰に対する危険になりうることのみならず躓きの動機になりうることさえも常に禁止してきました。(1917年の教会法は数世紀に亘る教会の掟を採用しています。1258条、2316条を参照して下さい。神学大全II-II q. 10 aa. 9-10)

 教会はまた常に邪教に対して公の宗教儀式の権利を拒否してきました。もし必要なときには教会はそれを黙認しました。しかし、この「黙認」は常に「その悪を許すそれ相当の理由がある」(Roberti-Palazzini, op. cit. p. 1702)ためでした。それがいかなる場合であれ、非カトリックの宗教儀式を見かけ上であっても承認するようなことを教会は常に避けてきましたし、禁止してきました。

 アシジでは何が行われるのでしょうか?確かに、言葉の綾によって「一緒に祈るため」ではないかも知れませんが、カトリック信者と未信者とが「祈るために一緒になる」でしょう。このことはとどのつまりアシジで共に祈ると言うことなのです。まずそれそれが同時に自分たちのいるところで祈り、次に閉会式では聖フランシスコのバジリカの前に集まって順番に祈るのです。

 ところで、このようなことはカトリック信者の信仰を守るためにすることではなく、カトリック信者を少なくとも躓かせないためにすることではありません。

 これはそれぞれが「彼らに固有のやり方と固有の形式でそれぞれが祈る」のを許すために、「それぞれの祈りを尊重」するために、そして「それぞれに自分の信仰と信じていることをそのまま表明することを許す」ためになされるのです。ですから少なくとも見かけ上、次のことを承認しているのです。

教会が常に権利を否定してきた偽りの宗教儀式の承認
教会が常に「宗教無差別主義」或いは「宗教拡大主義」の名の下に排斥してきた「宗教主観主義」の承認
です。

「宗教主観主義」とは「人間の理性或いは啓示の光によって明らかにされる客観的な真理だけが権利を持つことを理解せずに、いわゆる “自由の要求” によって自己を正当化しようとする態度です(Roberti-Palazzini op. cit. p. 805)。」

「宗教無差別主義」とは「最も恐るべき異端の一つであり」「全ての宗教を同じレベルに置き」規則正しい生活と永遠の救いとの存在理由を宗教的に信じることが真理であることを認めないものです。「『宗教無差別主義』のためについに人は宗教を全く個人的なものと看倣してしまい、個人の好みの違いによって好きなものを選び、「私にとっての」宗教を形成することを許し、たとえ宗教が互いに矛盾しあっているにもかかわらず、全ての宗教はみなどれもこれも良いものであると結論させるのです。」(Roberti-Palazzini op. cit. p. 805)これはカトリック信仰と言う行為の外でのことです。

 天主の啓示は現実の事実であり、確かな徴という手段を持って信じるに値する真理と天主によって確立されたのですから、この領域に関する誤りは人にとって最も重大な結果をもたらします(レオ13世 1888年回勅『リベルタス』)。

 「全く明らかな真理という現実の事実を前に、それらがあたかも存在していないか或いは誤りであるかのような態度を承認するほどの黙認はいかなる人にもできません。そのようなことは私たちが全く信じていないか、或いは私たちの立場の真理に完全に納得していないか、或いは私たちが全く無関心でいることができる些細な事柄であると考えているか、或いはまた私たちが真理も誤謬も全く相対的な立場にすぎないと考えているかのいずれかを前提とするからです。」(Roberti-Palazzini op. cit. p. 1703)

 まさに「祈祷集会」これら全てを含んでいるので、これはカトリック信者にとって躓きの機会であり、彼らの信仰を大きな危険にさらすものとなるのです。エキュメニズムの事実からついにはカトリック信者は未信者と合流するかも知れませんが、それは彼らの「共通の破滅 」(ピオ12世 1950年『フマニ・ジェネリス』)においての合流になることでしょう。

教会の使命と聖ペトロの使命とに対する裏切り

 教会は全ての国々に次のことを告げ知らせる任務があります。

唯一の真の天主が存在すること、この唯一の天主は全ての人々のために私たちの主イエズス・キリストにおいてご自分を啓示されたこと。
真の宗教はただ一つしかないこと、天主がそこであがめられることを望んでおられる宗教はただ一つであること。何故なら天主は真理であり偽りの諸宗教において真理に背くものは、教義上の誤り、掟の不道徳性、宗教儀式の不適合性など、全て天主に背くこと。
天主と人との仲介者はただ一人しかおられないこと。人間が彼によって救われることを期待することのできるのはただ私たちの主イエズス・キリストだけであること。なぜならすべての人は罪人であり、キリストの御血によらずしては全ての人は罪のうちに留まるからです。
真の教会はただ一つしかないこと。そしてこの教会が永久に私たちの主イエズス・キリストの御血を守っていること、「救いの唯一の方舟である使徒継承のローマ教会の外においては誰も救われることができないこと、このローマ教会に入らないものは大洪水に滅ぼされてしまうことを信じなければならない」(ピオ9世 Dz 1647)こと。もし彼らの無知がどうしてもしかたのないものだったとしても彼らの心の状態が、明らかに或いは暗黙のうちに天主のみ旨を全て成し遂げたいという少なくとも望みによって、教会の中に入っている必要がある(ピオ9世 Dz 1647)ということ。
 教会の固有の使命は、これら全てを告げ知らせることです。

「あなたたちは諸国に弟子を作りに行き、聖父と聖子と聖霊との聖名によりて洗礼を授け、私があなたたちに命じたことを全て守るように教えよ。」(マテオ28 :19-20)「あなたたちは全世界に行って全ての人々に福音をのべ伝えよ。信じて洗礼を受ける人は救われ、信じない人は滅ぼされる。」(マルコ16 :16)

 教会が確かに数世紀にも亘ってこの使命を果たすことができるために私たちの主イエズス・キリストは聖ペトロとその後継者たちに目に見える形で主の代理となる使命を与えました。(マテオ16 :17-19、ヨハネ21 :15-17)

 「イエズス・キリストの代理者は、新しい啓示の力を借りて新しい教義を作る使命もなく、新しい事態を創造する任務もなく、新しい秘蹟を制定するための任務もない。そのようなことは彼の任務ではない。彼はイエズス・キリストの教会の頭としてイエズス・キリストを代表している。イエズス・キリストの教会は既に完成している。教会の本質的な構造、つまり教会を創造することはイエズス・キリストに固有な業であった。イエズス・キリストはご自分でそれを成し遂げそれを聖父に言われた。「私はあなたが行わせようと思し召した業を成し遂げました。」(ヨハネ17 :4)主の業に何も付け加えることはない。この御業をそのまま維持し、教会の業を保持し、その機関がうまく働くようにすることだけである。従って必要なことは2つであり、それは教会を統治し、真理の教えを永久に守ることである。第1バチカン公会議はイエズス・キリストの代理者の最高職務の対象としてこの2つをあげている。ペトロはイエズス・キリストをこの2つの観点の下で代表するのである。」(Don Adrien Grea, De l’Eglise et de sa divine constitution : 第1バチカン公会議の使徒憲章『パストル・エテルヌス』第4章)

 並ぶものもない程のペトロの権能は、代理者としての権能であり、代理者の権能としては絶対のものではなく自分が代表するイエズス・キリストの天主の権によって制限を受けています。

「主はペトロにペトロの羊ではなくご自分の羊を委ねた。それは自分の利益のためにでなく天主の利益のために牧させるためであった。」(聖アウグスチヌス 説教第285の3)

 ですから教会の使命とローマ教皇の使命にそぐわないような「個人的な発案」を(アシジでの「祈祷集会」のような明らかにご自分の使命とはそぐわないようなものを)促進させると言うことはペトロの権能に属するものでは全くありません。

 私たちの主イエズス・キリストはこう言いました。「サタン退け! “あなたの天主なる主を礼拝し、ただ天主にだけ仕えなければならない” と書かれてある」(第2法6:13、マテオ4:10)と。

その主イエズス・キリストの代理者たるものが、どうして真の天主への信仰のために聖別された聖なる場所に、邪教の「代表者たち」を招いて彼らの偽りの神々に祈らせることができるでしょうか?

 聖ペトロはこう言って信仰を宣言しました。「御身は、生ける天主の御子、キリストです」(マテオ16:16、ヨハネ6:69-70)と。そしてこの信仰宣言故に首位権を得たのです。その後継者たるものがどうして私たちの主イエズス・キリストがあたかもいないかのように立ち振る舞うことができるのでしょうか。

 聖ペトロは兄弟たちの信仰を固める任務を受けました(ルカ22:32)。その後継者がその兄弟、子供たちの信仰にとって躓きの石となるべきではありません。(了)

pinpinkorori さんのコメント...

フランス司教協議会は、すでに10年前に「破門教令」に対して小野田氏の主張する教会法1323-1324を適用することはできないとしています。Murrayの学位論文を暗に批判し司教協議会の「破門教令」は有効で揺るぎのないものであるとしています。教会法違反者に関する責任の帰属の無効や情状酌量の余地をlefebvreに見いだすことは認められない。(小野田氏のこれまでのすべての破門教令批判の根拠はすでにフランス司教団により根拠なしの混乱とされています。)例えばひとつだけ取り上げれば
1)教会法の「緊急事態」(小野田氏訳では「必要の状態」)に関して次のことを思い起こさなければいけないとしています。
1そのような状態が客観的に存在しなければならないこと。
2司教団長のローマ教皇の意思に逆らって司教たちを叙階する「必要性」は、決して生じていないこと。
以上は次のことを意味するでしょう。つまり教会の一致の根本自体に密接に結びついている主題(司教叙階)について、その一致を攻撃しながら(司教叙階しておきながら)、なおかつしかも教会に「奉仕する」ことが可能といえるのだろうか。とんでもない話であるとしています。

Fr Thomas Onoda FSSPX さんのコメント...

アヴェ・マリア!

Pinpinkororiさん、
 繰り返しになりますがカトリック教会法典をよく読んで下さい。客観的な目で。

 カトリック教会法典の刑罰に関する条項、カトリック教会法典(1323条の4)によれば、たとえ必要の状態であれ「緊急状態」であれ、それが客観的に存在しなかったとしても、そのようなことを過失的な思いこみにすぎなかったとしても、少なくとも、いわゆる「自動破門」は成立しない、とあります。(カトリック教会法1324条§3及び§1の8)

 もう一度読んで下さい。「それが客観的に存在しなかったとしても、そのようなことを過失的な思いこみにすぎなかったとしても」です。ab eo, qui per errorem, ex sua tamen culpa, putavit aliquam adesse ex circumstantiis, 間違って、過失を持って、ないのにもかかわらずあると思いこんでいた、ことに付いて語っているのです。

 このカトリック教会法典の条項が存在することは客観的事実です。これは客観的事実ですのでこれを否定して第三者に伝えることは虚偽となります。

 そして、カトリック教会法1324条§3及び§1の8が存在するにもかかわらず、「伴事的破門 (=ipso facto l'excommunication latæ sententiæ)」という制裁が適応された、いわゆる「自動破門」が成立した、と「確認する」する形を取りました。つまり、法に従わず、法の見せかけをとっただけでした。

 だから、ルフェーブル大司教様は冤罪をかけられたのです。だから、ルフェーブル大司教様のいわゆる「破門」といわれるものは、冤罪にすぎないのです。

 何故、冤罪を着せて「破門」しなければならなかったのでしょうか? ルフェーブル大司教様は何故、一致していないと攻撃されているのでしょうか? 何故なら、アシジの背教の集会に同意しなかったからです。アシジの精神の新しい教えに「奉仕する」ことが出来なかったからです。カトリック教会の破壊に協力することが出来なかったからです。私たちの主イエズス・キリストの唯一の花嫁の名誉を汚すことに協力することは、とんでもない話であるからです。

 Pinpinkororiさん、天主は永遠に不変。真理は変わることがありません。

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

pinpinkorori さんのコメント...

小野田氏は、聡明なのでぜひともHEGELの絶対精神が自らを展開しているのが世界史であり、世界史は真理を自ら運動として表現する」という弁証法論理学をすすめます。そうでないと第2バチカン公会議の論理が理解できないと思います。
イエスキリストの真理は、あるいは教会の絶対性は、Lefevbreや凡庸な人々が考えるような静的で固定化したものでなく、動的な運動のなかで自らを実現するということです。当然自らのうちに対立物をはらみ(いわゆる矛盾をはらみ)それによって発展し統合されるのです。そのなかには新しいものもあり古いものも当然あるわけです。しかし統合されたときには真理が自らを実現したときには一つとなります。この生きた論理が第2バチカン公会議の論理なのです。
たとえば「教会の外に救いはない」と静的に固定化してとらえることは第2バチカン公会議の論理ではなく、と同じく「教会の外にも救いはある」ということを単純かつ平板に固定化して考えることも間違いです。
「教会の外にも救いがある」ということは、教会の内部にいる信者にとってこれまで教会に外面的に属するだけで救いが保証されていたこと(教会の外に救いはないのだから教会の内部にいれば救われる)が、救いの論理が内面化されて外面的に所属するだけでは救いを保証しなくなったことを意味します。キリストのように愛しあいなさい。神を全身全霊で愛し隣人を自分と同じように愛さなければ、救いの保障がなくなったのです。第2バチカン公会議により信者は内面の基準によって(「ほんとうに」(内面から)神を愛したか?)救いが量られることになった。かえって厳しくなったのです。他宗教との関係も相互理解の運動になっています。つまり他宗教への理解が深まれば深まるほど自分のイエスキリストへの信仰が深まるという相互の運動なのです。これをとらえなければ他宗教との対話などは無意味です。もちろんイエスキリストを信じれば早く一気に救われます。これは疑いのないことです。

pinpinkorori さんのコメント...

そのように教会への批判・文句・苦情を続ける以上教会が受け入れるのは無理でしょう。教皇と教会に従順でないことが問題なのですから。
Hoyos枢機卿がFellayを迎え入れるための確認事項に「教皇よりも優れているとの教導権を主張しないこと。教皇に反する、また教会に反するいかなる団体も作らない」「教皇の位を尊重しない、教会の愛に対して否定であるようないかなる公的な活動も避けること」「完全な教会の愛とキリストの代理者(教皇様)への尊敬において誠実に行動する意志をはっきりしめすこと」とあります。
教皇の寛大さにみあう回答(6.30まで)を約束することありました(2008.06.04)が、最後の機会?を失いました。
教会法はよく知りませんが、破門の事実と教令は有効で続くでしょう。それは以下のとうりです。
第333条
(3) ローマ教皇の判決又は決定に反対して上訴することも訴願することも許されない。

第1382条
教皇の指令なしに、司教叙階を行う司教、かつ、その司教から司教叙階を受ける者は、使徒座に留保された伴事的破門制裁を受ける。
第1404条
教皇は、なんぴとによっても裁判されない。
第1629条
次の裁判に対しては、上訴権を生じない。
1. 教皇自ら行った判決、又は使徒座署名院の行った判決。
以上です。

Fr Thomas Onoda FSSPX さんのコメント...

アヴェ・マリア!

Pinpinkororiさん、

 Pinpinkororiさんも気が付かれているように、第二バチカン公会議には、カトリック教会の信仰とは相容れない、カントの概念論、ヘーゲルの弁証論、あるいは現象論などを基礎とする、近代主義がその基礎になっています。

 しかし、歴史の主は三位一体の天主です。歴史は、天主の愛の業であり、天主の自由な愛にもかかわらず、悪魔にそそのかされた人間が自由を乱用して罪を犯し、天主を離れ、それにもかかわらず、天主が人間を救おうとされています。歴史の中心は、私たちの主イエズス・キリストです。歴史が弁証法で動いていると措定して、革命を起こしたのが、共産主義者たちで共産主義革命です。


 私たちの主イエズス・キリストは宣言しました。この世は過ぎ去るが私のことばは過ぎ去らない、と。聖パウロはいいます。イエズス・キリストは、昨日も今日も代々に同じである、と。

 私たちの主イエズス・キリストは、道、真理、命、真の天主です。天主には変化や矛盾があり得ません。私たちはイエズス・キリストを信じます。変わらない真理を信じます。これがカトリック信仰であり、私たちの信仰です。


 「他宗教への理解が深まれば深まるほど」私たちは他宗教が誤謬の暗闇にいることが分かります。本当に他宗教を信じている方々を愛し、その永遠の救いのことを思えば思うほど、キリストのように愛することを望めば望むほど、誤謬を誤謬といわない第二バチカン公会議が愛に反していることが分かります。

 私たちは、カトリック教会の不可謬の全ての公会議の決議と歴代の教皇様の教えに従います。それに従順たることを選びます。だから、過去の教えに反し、歴代の教皇様の教えに矛盾する新しい教えを受け取ることが出来ないのです。

 しかし、アシジの集会に代表さるような「動的に進化する」新しい第二バチカン公会議の教えは、正に「歴代の教皇やカトリック教会の不可謬の教えよりも優れているとの教導権を主張」することではないでしょうか。

 アシジの集会は、「歴代の教皇の教えに反する、またカトリック教会の信仰に反する団体」が望んでいた集会そのものです。

 アシジの集会は「イエズス・キリストの唯一の花嫁であるカトリック教会の唯一性を否定し、カトリック教会の愛に対して否定であるようないかなる公的な活動」ではないでしょうか。


 教皇様といえども、「歴代の教皇やカトリック教会の不可謬の教えよりも優れているとの教導権を主張」することは出来ないはずです。

 教皇様といえども、「歴代の教皇の教えに反する、またカトリック教会の信仰に反するいかなる団体」の集会に参加してはなりません。

 教皇様といえども「イエズス・キリストの唯一の花嫁であるカトリック教会の唯一性を否定し、カトリック教会の愛に対して否定であるようないかなる公的な活動」もするべきではありません。

 だからカトリック教会への本当の愛と、キリストの代理者への本当の愛と尊敬は、私たちをして聖伝のカトリック信仰を守ることを選ばせるのです。

 カトリック教会の不可謬の全ての公会議の決議と歴代の教皇様の教えに従います。それに従順たることを選ばせるのです。

 だから、カトリック教会への本当の愛と、キリストの代理者への本当の愛と尊敬故にこそ、私たちはアシジの集会に同意することが出来ないのです。カトリック信仰を守るためにルフェーブル大司教様の司教聖別を緊急事態による仕方がないものだったのです。


 私たちは明日を待ちます。もしも本当にPinpinkororiさんがいうように、教会が「死んで固定したものではなく」その教えをコロコロ変えるなら、ヘーゲルの弁証法論的に変わっていくのなら、今日断罪されたルフェーブル大司教様も、明日にはきっと正しかったと言うことになるでしょうね。

 もしも本当に「この教会の絶対性の運動の論理」を信じているのなら、「生きた教会の姿をとらえる」ように、明後日の教会をお待ち下さい。

 Pinpinkororiさん、いいえ、天主は永遠に不変。真理は変わることがありません。

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.