2008年5月22日木曜日

聖ピオ十世会創立者マルセル・ルフェーブル大司教 近代主義の教会内への侵入史 1982年 モントリオール(カナダ)にて

アヴェ・マリア!

近代主義の教会の中への侵入の略史

マルセル・ルフェーブル大司教の講演の記録
「信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」
1982年 モントリオール(カナダ)にて


L’infiltration du modernisme dans l’Eglise --- Brève histoire ---
conférence prononcée par Monseigneur Lefebvre, en 1982 à Montréal (Canada)


The Infiltration of Modernism in the Church

(この翻訳を作るに当たって、三上教授の翻訳を参考にさせていただきました。感謝します。『近代主義の教会の中への潜入』

 私は世界中のカトリック界でどこでもカトリック信仰とカトリック教会に忠実な司祭たちの周りに勇気ある人々が集い、私たちの信仰の砦である聖伝を維持しているのを目の当たりにし、嬉しく思います。
 もしこれほどまで全世界的な規模での聖伝維持の運動があるとしたら、それは教会の状況がそれほど深刻であると言うことを意味しています。何故なら良い司祭が、しかもそのうちの多くは30年以上もいろいろな小教区で献身的に働き、その小教区民が満足するほどのすばらしい司祭たちが、また多くの良きカトリック信徒が反抗者、反逆の徒、不従順として取り扱われなければならないと言うことは、ある危機があると言うことだからです。彼らはカトリック信仰を維持するというそのために、不従順だと言われているのです。彼らは殉教の精神に於いて知りつつそうしているのです。
 教会の兄弟たち或いは教会の敵から迫害を受けると言うことは、迫害の手が誰のものであろうと信仰を守るために迫害を受けているという限りに於いてそれは殉教です。これらの司祭、平信徒はカトリック信仰の証人なのです。彼らは信仰を捨てるよりも反抗者、反逆の徒として見なされる方を好んだのです。

 私たちは世界中で悲劇的な前代未聞の状況にあります。このようなことはかつて教会の長い歴史にあったことがなかったかのような状況です。それで、ともかくこの尋常でない現象を説明するように試みてみなければなりません。良い信徒たち、良い司祭たちが、今瓦解しようとしつつあるカトリック世界に於いて必死になってカトリック信仰を維持しようと努力していると言うことは、どうしたことなのでしょうか。教会の自己破壊と言うことを話したのは、教皇パウロ六世自身でした。この「自己破壊」とは、教会が自分で、つまり自分の固有の肢体たちによって自分自身を壊していることでなくていったい何のことでしょうか。聖ピオ十世が既にその最初の回勅を書いて言っていたことが、これなのです。
「今後、教会の敵は教会の外にではなく、内部にいる」と。
 そして聖ピオ十世教皇は教会の敵がどこにいるのかを指摘するのをためらいもしませんでした。「敵は神学校の中にいる」と。
 従って20世紀の初めに既に聖ピオ十世教皇がその最初の回勅で、教会の敵どもは神学校の中に潜んでいると告発しているのです。

 近代主義やシヨニスムまた進歩主義に染まっていた神学生たちが司祭になったということは全く明らかです。彼らのうちの何人かは司教になり、そのうちの何人かは枢機卿にもなりました。今世紀初頭に神学校で学び今は死んでしまったけれどもその精神は近代主義者、進歩主義者であった人々の名前を列挙しようと思えば多く上げることが出来ます。
 聖ピオ十世教皇は既にそうすることによって教会内部の分裂、教会の中と聖職者らの内部でのある断絶を告発していたのです。

 私はもはや若くはありません。私の神学生時代、司祭時代、司教時代を通してこの分裂を目の当たりにしなければならない機会がいろいろとありました。私は天主様のお恵みによってローマで勉強をしましたが、この分裂は既にローマのフランス人神学校で既に始まっていたのです。私は本当のことを申しますとローマで勉強すると言うことにあまり気が進みませんでした。それよりも私の教区の神学生たちのようにリール市の神学校で勉強し、田舎の小教区の助任司祭になって、小さな教会の主任司祭になることを考えていたのです。私は愛する教区の人々の何か霊的父となり、彼らにキリスト教信仰とキリスト教道徳を教えたいと思っていたのです。それが私の理想でした。
 それが私の兄が1914年1918年の第1次世界大戦のために家族とは離ればなれになっており戦争の後にはローマで既に勉強していたので私の両親は私に兄と同じ所に行くようにと望んだのです。
「お兄さんがもうローマのフランス人神学校にいるのだから、おまえも言ってお兄さんと一緒に神学の勉強をしなさい。」と言われました。

 ですから私はローマに行き1923年から1930年までグレゴリアン大学で勉強し、1929年に司祭に叙階された後も1年間司祭として神学校に残って学問を続けました。

近代主義の最初の犠牲者たち

 この神学生時代の間、悲劇的なことが起こりました。そしてこの悲劇は正に公会議以降私が見た全てのことを正確に思い起こさせるのです。その当時私たちの神学校の学頭ル・フロック神父様(Père Le Floch)が置かれたのとほとんど全く同じ状況に、私は今置かれています。
 ル・フロック神父は30年間ローマのフランス人神学校の校長であり、威厳があり、ブルターニュ巌のように信仰の強く堅固な方でした。ル・フロック神父はあたしたちに教皇様たちの書いたいろいろな回勅や、聖ピオ十世によって排斥された近代主義とは何か、レオ十三世によって排斥された近代の誤謬とは何か、ピオ9世によって排斥された自由主義とは何かなどを教えて下さいました。私たちはル・フロック神父を非常に敬愛し、敬慕していました。

 しかし、ル・フロック神父の教義と聖伝とにおける堅固さのために、進歩主義者はル・フロック神父を胡散臭く思っていたのです。この当時既に進歩主義者が存在していました。教皇様たちは彼らを排斥しているのですから。ル・フロック神父を快く思わなかったのは進歩主義者だけではなく、フランス政府もそうでした。フランス政府はル・フロック神父を通して、彼が神学生たちに与えている養成を通して、聖伝主義の司教たちがフランスに着任しフランスの教会に聖伝に基づく、従って反リベラルな環境を作り出すのを恐れていたのです。フランス政府はフリーメーソン的であり、基本的にリベラルであり、リベラルではない司教たちが重要に地位につくと言うことを考えただけでも恐れていたのです。そこでル・フロック神父を神学校から追いやるためにいろいろな圧力が教皇様にかけられました。フランシスク・ゲ(Francisque Gay)という将来M.R.P.の指導者になる人がこのル・フロック神父排除の任務に就きました。フランシスク・ゲはローマに行き教皇ピオ十一世に圧力をかけました。そしてフランシスク・ゲはル・フロック神父がアクション・フランセーズの同調者であって神学生たちにアクション・フランセーズの会員になるように教えている政治家であると告訴したのです。

 これらはみな嘘でした。私はル・フロック神父の霊的講話を3年間この耳で聞きましたが、ル・フロック神父はアクション・フランセーズの話を一度もしたことがありませんでした。そして、今度は私がこう言われる番なのです。
「あなたは昔アクション・フランセーズの会員だったのでしょう」と。

 勿論、私たちはアクション・フランセーズの会員だとかナチだとかファシストだとか軽蔑的な意味を含んだラベルを付けられて断罪されています。何故なら私たちは反革命的であり、反リベラルだからです。

 そこで監査がありました。ミラノの大司教枢機卿が神学校に派遣されました。この方はベネディクト会士であり、偉大な聖徳とすばらしい知性の持ち主であり、そんじょそこらの枢機卿ではありませんでした。彼はピオ十一世によって指名されて、フランシスク・ゲの言っていたことが正確かどうかと言うことを調べるためにフランス人神学校を監査したのです。監査は実施されました。その結果は「フランス人神学校はル・フロック神父の指導の元で完璧に指導がなされている。当神学校の学頭にはいかなる点でも叱責に値することは見受けられない」でした。

それにもかかわらず、これで事は終わりではありませんでした。

 3ヶ月の後に新しい監査がありました。この時にはル・フロック神父を終わらせるという命令が付いていました。新しい監査はローマ聖省のメンバーの一人が執り行い、彼は、ル・フロック神父は実にアクション・フランセーズの友であったと言う結論が出され、神学校にとってル・フロック神父は危険人物であり、辞任を求めなければならないと言うことになりました。そして、これは実行に移されました。1926年に聖座はル・フロック神父にフランス人神学校の学頭の職を辞任するようにと求めたのです。私たちは非常に悲しみました。ル・フロック神父は政治運動をする男では決してありませんでした。ル・フロック神父は聖伝の男であり、教会の教えと歴代の教皇様たちにしっかりと結びつき、聖ピオ十世教皇が全幅の信頼を置いていた大の親友でした。そして正にル・フロック神父が聖ピオ十世教皇の友であったが為に、進歩主義者どもの敵だったのです。

 私たちがフランス人神学校にいた当時攻撃を受けていたのはル・フロック神父だけではありませんでした。ビヨ枢機卿 (Cardinal Billot) もそうでした。

 ビヨ枢機卿は第1級の神学者であり、現在でも私たちの神学校では有名で研究されています。ビヨ枢機卿は聖なる公教会の枢機卿でしたが、枢機卿の位を取り上げられてしまったのです。ビヨ枢機卿から枢機卿の紫を取り上げアルバノの近くのカステルガンドルフォにあるイエズス会の家の中に償いの為に閉じこめてしまったのです。その口実というのはビヨ枢機卿がアクション・フランセーズと関係があったと言うことでした。事実はビヨ枢機卿はアクション・フランセーズの会員ではありませんでした。しかし彼はモラス【アクション・フランセーズの創立者、シャルル・モラス】のその人を高く評価しており、自分の神学の本の中で引用したことがあります。例えば彼の『教会論(De Ecclesia) 』の第2巻で彼は自由主義(リベラリズム)についてすばらしい研究を展開しています。そこの注の中にモラスの言葉を幾つか引用しているのです。すると鬼の首でも取ったようにこれは大罪だと言われたのです。彼らはビヨ枢機卿から枢機卿の位を取り上げるためにこれを見つけたのです。その当時ビヨ枢機卿というのはもっとも偉大な神学者の一人で、その彼から枢機卿の位を取り上げ、その当時は助祭枢機卿、司祭枢機卿などがまだ存在しており、ビヨ枢機卿は司教ではなかったので単なる司祭の位に貶めてしまうというのは一大事件だったのです。これは既に迫害でした。

教皇ピオ十一世は進歩主義者達の影響を受けていた

 教皇ピオ十一世自身すでにローマにいた進歩派の人々の影響の下にありました。なぜなら私たちは彼以前と以後の諸教皇から一つのはっきりした区別を見て取るからです。しかしそれにもかかわらず教皇ピオ十一世は同時にいくつかの優れた回勅を書きました。彼は自由主義者ではありませんでした。共産主義に反対する彼の回勅「ディヴィニ・レデンプトーリス」は優れたものでした。それゆえにまた彼の王たるキリストに関する回勅もすぐれたものでした。その回勅は王たるキリストの祝日を定め、われらの主イエズス・キリストの社会的な王権を宣言しました。キリスト教教育に関する彼の回勅はまったく賞讃に値するものであり、今日もなおカトリック学校を擁護する人々にとっての一つの基本的な文書です。

 教説の面において教皇ピオ十一世は賞讃に値する人間であったとすれば、実践的行為の秩序においては弱かったのです。彼は影響を受けやすい人でした。そのようにして、彼はメキシコ市民戦争の時に非常に強い影響を受けて、カトリック宗教を擁護し、王たるキリストのために戦う過程にあったクリステロス(反共産主義のキリスト教徒たち)に、政府に信頼するように、そして彼らの武器を棄てるように命じました。彼らは、自分たちの武器を棄てたとたんに虐殺されました。この恐るべき大虐殺は今日でもなお記憶されています。教皇ピオ十一世は彼を欺いた政府に信頼を置きました。後になって彼は目に見えて非常に動転しました。彼は自分たちの信仰を守る人々を尊敬をもって取り扱うと約束した政府がどのようにしてその後彼らを大虐殺することへと進むことができるのか、想像することができませんでした。このようにして数千人のメキシコ人が彼らの信仰のために殺されました。

 今世紀の始めにすでに私たちは教会における分裂を告知するいくつかの状況を見ています。私たちは徐々にそれに達しました。しかし、分裂は公会議のちょうど前に非常にはっきりしたものでした。

 教皇ピオ十二世はその著作と彼の教会を統治するやり方において偉大な教皇でした。ピオ十二世の治世の間に信仰はしっかりと守られました。当然、自由主義者たちは彼を好みませんでした。なぜなら彼は神学の基本的諸原理と真理を精神に呼び戻したからです。

 しかし次にヨハネ二十三世がやって来られました。彼はピオ十二世とは完全に異なった気質を持っておられました。ヨハネ二十三世は非常に単純で寛大な人でした。彼はどこにも問題を見られませんでした。

 彼が公会議をローマで開催することを決定されたとき、彼らは彼に言いました。「しかし教皇様、公会議は準備しなければなりません。少なくとも一年は必要です。そしておそらく、数々の実りが得られ、諸改革が真に研究され、次に適用されて、その結果ローマのあなたの司教区がそれから利益を引き出せるように、そのような会議を準備するためには二年は必要です。これらすべてのことは二週間の会議に引き続く二、三ヶ月の時間でまっすぐになされ、それで万事がうまく行くことはできません。それは不可能です。」

「おお、もちろん、私は知っていますよ。しかしそれは小さな公会議なのだよ。われわれはそれを数ヶ月内に準備することができ、そして全てはきっとうまく行くよ。」

 このようにして公会議が急いで準備されました:ローマでのいくつかの委員会、すべての人が非常に忙しく、そしてそれから二週間の会議、そしてそれで全てが終わりました。教皇ヨハネ二十三世は彼の小さな公会議が開催されたことで非常に幸せでした。しかしその結果は何もありませんでした。ローマ司教区では何一つ変わりませんでした。状況はまさに以前と全く同じでした。

公会議と共に漂流が始まった

 公会議についてもそれはまったく同じでした。「私は公会議を開催する意向を持っています。」すでに教皇ピオ十二世は何人かの枢機卿から公会議を開催するように求められていました。しかしピオ十二世は、それが不可能であると信じて拒否しました。私たちは現代、2500人の司教たちによる一つの公会議を開催することはできません。マスメディアによって行使された圧力は、公会議を敢えて開催するにはあまりにも危険です。私たちは忙殺される危険があります。そして事実公会議は開かれませんでした。

 しかし教皇ヨハネ二十三世は言われました:「いや、開催する。われわれは悲観的であってはならない。もっと信頼してものごとを見なければならない。われわれは全世界のすべての司教を三ヶ月の間集める。10月13日に始めて、それから12月8日と1月25日の間に全ては終わり、みんなは家に帰り、そして公会議は終わったことになる。」

 そしてそのようにして教皇は公会議を開催されました! それでも公会議の準備をしなければなりませんでした。公会議はシノドゥスのようにただちに開催されることはできないのです。それは実際、先立つ二年間で準備されました。私は個人的にダカールの大司教および西アフリカ司教会議議長として中央準備委員会の一メンバーに指名されました。ですから私は中央準備委員会の会合において準備するために二年間に少なくとも十回はローマに来ました。

 中央準備委員会は非常に重要でした。なぜなら副次的委員会のすべての文書は、研究され公会議に提出されるために、ここに送られてきたからです。この会議には70人の枢機卿とおよそ20人の大司教および司教たち、さらに顧問たちがいました。これらの顧問たちは中央委員会のメンバーではなく、ただ時に委員たちから相談を受けることができるように出席しているだけでした。


分裂の出現


 これらの二年間に会合が次々に続き、そして出席しているすべての委員たちにとって教会それ自体の内部での深い分裂があることが非常に明瞭になりました。この深い分裂は偶然的あるいは表面的なものではなく、大司教や司教たちの間というよりも、枢機卿たちの間でより深いものでした。投票で決する機会には保守的な枢機卿たちはある仕方で、そして進歩的な枢機卿たちは別の仕方で投票するのを見ることができました。明らかに枢機卿たちの間には本当の分裂が存在していました。

 私は次のような出来事を私の書物の中の一冊『一司教は語る(Un évêque parle)』において描いています。私はそれについてしばしば言及します。なぜならそれは中央委員会の終わりと公会議の始まりを本当に特徴づけているからです。それは最後の会合の間のことでした。そして私たちは同じ主題について10の文書をあらかじめ受け取りました。ベア枢機卿が一つのテキスト、"De Libertate Religiosa" 「宗教的自由について」を準備しました。オッタヴィアーニ枢機卿は別のテキスト"De Tolerantia Religiosa" 「宗教的寛容について」を準備しました。

 単純な事実は同じ主題に関する二つの異なった表題が二つの異なった考え方を表しているということです。ベア枢機卿はすべての宗教に対する自由について、そしてオッタヴィアーニ枢機卿は誤謬と偽りの諸宗教の寛容に加えてカトリック宗教の自由について語りました。そのような相違がどのようにして委員会によって決定され得るでしょうか?

 最初からオッタヴィアーニ枢機卿はベア枢機卿を指さしてこう言われました。「枢機卿様、あなたにはこの文書を作る権利はありません」と。

 ベア枢機卿は答えられました。「失礼ですが、 “一致のための委員会議長” として私は文書を提出する権利を完全に持っています。従って私は承知の上でこの文書を提出している。さらに、私はあなたの見解にはまったく反対である。」

 このように最も高名な枢機卿の二人、検邪聖省長官オッタヴィアーニ枢機卿と、教皇ピオ12世の聴罪師ベア枢機卿、すべての枢機卿に対して大きな影響力を持っているイエズス会士、聖書研究所においてよく知られ、高等聖書研究に責任を持っている枢機卿です。これらの2名の枢機卿様たちは、教会における基礎的な主題に関して対立していたのです。

 すべての宗教の自由ということは、すなわち、自由と誤謬が同じ地平に置かれるということと、カトリック宗教の自由および誤謬の寛容ということはまったく異なるものです。全く違うことです。聖伝によれば、教会は常にオッタヴィアーニ枢機卿の見解に与して来たのであり、そして完全にリベラルであるベア枢機卿の見解には与して来ませんでした。

 パレルモから来たルフィニ枢機卿は立ち上がり言われました。「われわれは今教会において非常に重要である一つの問題について相互に対立している二人の同僚の前にいる。従ってわれわれはより高い権威に言及せざるを得ない。」

 教皇は非常にしばしば私たちの会合の座長を務めるためにやって来られました。しかし教皇はこの最後の会合のためには居合わせられませんでした。従って枢機卿たちは投票することを要求しました。「われわれは教皇に会いに行くなどと待ってはいられない。投票することにしよう。」

 私たちは投票しました。枢機卿たちの半数がベア枢機卿の意見に賛成投票をし、後の半数がオッタヴィアーニ枢機卿に賛成投票しました。ベア枢機卿の意見に賛成投票したのは皆オランダ、ドイツ、フランスそしてオーストリアの枢機卿たちであり、そして彼らは皆一般的にヨーロッパと北アメリカからの枢機卿でした。伝統的な枢機卿たちはローマ聖省、南アメリカ、そして一般的にスペイン語圏の枢機卿たちでした。

 それは教会における真の断絶でした。この瞬間から私は公会議が重大な点に関してそのように対立を抱えながらどのようにして進んで行くことができるのか、と自問しました。誰が勝利するのでしょうか?スペイン語あるいはロマンス諸言語圏の枢機卿たちと共にオッタヴィアーニ枢機卿なのでしょうか、それともヨーロッパと北アメリカの枢機卿たちなのでしょうか?

 実際、戦闘は公会議のまさに初日から直ちに始まりました。オッタヴィアーニ枢機卿は、各人に対してその人が望んだ人々を選ぶ完全な自由を残しながら、準備委員会に属していたメンバーたちのリストを提出されました。私たちがすべてのメンバーを一人一人知ることができないことは明らかでした。なぜなら各人は彼自身の司教区のためにやって来たのですから。どのようにして世界の2500人の司教たちを知ることができるでしょうか?私たちは公会議の諸々の委員会の委員選出のために投票を求められました。しかし誰が選ぶことができるでしょうか?私たちは南アメリカからの司教も、南アフリカからの司教もインドからの司教も知りませんでした...。

 オッタヴィアーニ枢機卿は準備委員会のためのローマの選択は公会議の教父たちのための一つの指示として役立ち得るだろうと考えられました。事実これらのことを提案することはまったく正常なことでした。

 リエナール枢機卿(Achille Cardinal Lienart †)が立ち上がって言ったのです。

「私たちはこのようなやり方を受け入れない。われわれは異なった諸々の委員会を成立させることができる人々をもっとよく知ることができるように、熟慮するための48時間を要求する。これは教父たちの判断に圧力を加えることだ。われわれはそれを受け入れない。」

 公会議はたった二日前に始まったばかりでした。そしてすでに枢機卿たちの間には猛烈な対立がありました。何が起こったのでしょうか?

 これら48時間の間にリベラルな枢機卿たちは世界のすべての国々から作成されたリストをすでに準備していました。彼らはこれらのリストをすべての公会議教父たちの郵便受けの中に配りました。私たちはそれゆえにすべての者がしかじかかくかくの委員会の委員たち、すなわち、異なった国々からのかくかくの司教と他の司教等々、を提案している一通のリストを受け取ったのです。多くの人々は言いました。「結局のところ、これでいいではないか。私は彼らを知らないのだ。リストがすでにできあがっているのだから、われわれは単純にそれを利用するだけだ」と。

 48時間後、全面に出ていたのはリベラル派のリストでした。しかしそれは公会議の規則によって要求されていた投票数の3分の2を得ていなかったのです。

 それでは教皇は何をされたのでしょうか?教皇ヨハネ二十三世(Pope John XXIII)は公会議の規則に一つの例外を作られるのでしょうか、それともその規則を適用されるのでしょうか?

 明らかにリベラルな枢機卿たちは教皇が公会議の規則を適用することを恐れていました。それで彼らは教皇のところへ走り、教皇にこう言いました。

「聴いてください、私たちは投票総数の半分以上、60% 近くを獲得しています。あなたはそれを拒否することはできません。私たちはこのように歩み続けて、別の選挙をすることはできません。私たちはそれを決してさせないでしょう。これは明らかに公会議の大多数の意志です。そして私たちは単純にそれを受け入れなければなりません。」

 そして教皇ヨハネ二十三世はこれを受け入れました。この始めから公会議の諸々の委員会のすべての委員はリベラル派から選ばれました。このことが公会議に対していかに巨大な影響を及ぼしたかを想像することは容易いことです。

 教皇ヨハネ二十三世は、二、三ヶ月の終りにはすべてのことが為されたと考えていたけれども、公会議で見聞きした出来事のために早死にされたと私は確信しています。三ヶ月の公会議のつもりでした。3ヶ月の後で、抱き合って別れを告げ、皆は家に帰る、ローマでお互いに会え、すばらしい小さな集会をして、幸せに帰る、これを考えていました。
 教皇は、公会議が一つの世界それ自体、絶えざる衝突の世界であることということを悟りました。公会議の第一会期からはテキストは何も出ませんでした。教皇ヨハネ二十三世はこのことによって圧倒されました。そして私はこのことが彼の死を早めたと確信しています。死の床で教皇は「公会議を止めろ、公会議を止めろ」と叫ばれたとさえ言われて来ました。


教皇パウロ六世リベラル派に支持を与える


 そこで教皇パウロ六世がやってきました。教皇がリベラル派に支持を与えたことは明らかです。どのようにそうしたのでしょうか?

 その教皇職のそもそもの初めから、公会議の第二会期の間に、教皇はすぐに4人公会議モデラトールら(Moderator)を指名しました。第一会期の間には、公会議議長たち(Presidentes)が10人いました。彼らのそれぞれが、代わる代わる議長として一つの会合の議長を務め、そして第2の議長が次の会合、そして別の第3番目の議長が、次の会合の議長を務めました。彼らは、他の人びとよりも一段高いテーブルに座りました。彼らが公会議を指導していたのです。

 パウロ六世教皇は、すぐに4名のモデラトールを指名し、そして公会議議長は名ばかりの名誉議長となりました。そして4名のモデラトールたちが公会議の本当の議長となってしまいました。

 では、いったい誰がこれらのモデラトールたちだったのでしょうか? まず、ミュンヘンのドップフナー枢機卿(Julius August Cardinal Dopfner †)。彼は、極めて進歩的でまた非常にエキュメニカルでした。

 次にスーネンス枢機卿(Leo Jozef Cardinal Suenens †)。彼は、そのカリスマ運動によって皆に知られており、司祭の結婚を推進してなんども訓話をしていました。

 そしてレルカロ枢機卿(Giacomo Cardinal Lercaro †)。彼は共産主義シンパとして知られており、彼の司教区の教区長代理(Vicar General)として、共産党党員として登録されていた司祭を任命していました。

 最後にアガジアニアン枢機卿(Gregoire-Pierre XV Cardinal Agagianian †)。彼は、もしそう言うことができるならば、いくぶん伝統派を代表した人でした。

 しかし、アガジアニアン枢機卿は非常に控えめで、隠れた人でした。その結果、彼は公会議には何も影響を与えませんでした。しかし他の三人は鳴り響くドラムをもって彼らの仕事を達成しました。彼らは、絶えずリベラルな枢機卿たちを常に一致させていました、そのためこれは公会議のリベラル派に極めて大きな力を与えることになりました。

 伝統的な枢機卿や司教たちは、まさにこの瞬間から明らかに脇へ押しやられ、軽蔑されるようになったのです。

 盲目であった可哀想なオッタヴィアーニ枢機卿が発言したとき、彼が割り当てられた十分間の最後にまだ話を終えていなかったにもかかわらず、若い司教たちは、この枢機卿を黙らせようと、枢機卿にもうたくさんだ、うるさい、ということを分からせようとするブーイングが聞こえていました。彼は発言を中止せねばなりませんでした。恐るべきことです。この尊敬すべき枢機卿、ローマ中で尊敬され、聖なる教会に巨大な影響を与えた、検邪聖省長官(これは、小さな職務ではありません)が、です。聖伝主義者であった人たちがどのように取り扱われたかを見るのは、スキャンダルでした。

 モンセニョール・スタッファ(Dino Cardinal Staffa †)(彼はその後枢機卿になりました)は非常にエネルギッシュで、公会議の総会議長たちによって沈黙させられました。想像も出来ない多くのことが起こっていたのです。

教会の革命


 これが公会議で起こったことです。公会議の全ての論説とテキストとがリベラルな枢機卿たちとリベラルな委員会によって影響を受けたということは明らかです。第二バチカン公会議のテキストが曖昧であり、ものごとを変えるのに都合よくできていること、教会内部で本当の革命を起こすように都合よく出来ていることは、驚くに足りません。

 私たち、司教たちと枢機卿たちの伝統的一翼を代表していた私たちが、何かすることができたでしょうか?率直に言って、私たちはほとんど何もすることができませんでした。聖伝維持を支持し、教会における大きな変化、つまり、誤った刷新、誤ったエキュメニズム、誤った司教団制度 (collegialite) に反対していたのは、250人でした。私たちはこれらすべてのことに反対しました。これら250人の司教たちは、明らかにいくらかの影響力を行使し、そしてある場合にはテキストを修正させることに成功しました。悪はいくぶん制限されました。

 しかし私たちはいくつかの誤った意見が採用される、特に信教の自由に関する論説が採用されるのを阻止することに成功することができませんでした。この信教の自由に関する文書は、5回も書き直しを受けました。

 しかし5回とも、同じ説がそのまま戻ってきました。私たちはいずれの機会にもそれに反対しました。反対投票はいつも250票でした。

 そこで、教皇パウロ六世は、このテキストに二つの小さな文章を付け加えさせたのです。それにはこうありました。「このテキストには、教会の伝統的な教えに反することは何もない、そして教会は常にキリストの真の、唯一の教会であり続ける」と。

 すると、特にスペインの司教たちがこう言いだしたのです。
「教皇がこれを付け加えたのだから、もはや何の問題もない。伝統に反するものは何もないのだから」と。

 もしもこれらの事柄が(過去の教会の教えと)矛盾するならば、この小さな章句は、テキスト内部に書かれてあることに全て矛盾します。これは一つの内部矛盾を抱えた概要文書です。それを受け入れることはできません。最後には、私の記憶が確かならば、ただ74人の司教だけが反対者として残りました。この文書は、これ程までの反対に遭遇した唯一の概要です。しかし、2500票のうちの74票というのはほとんど何でもありません!

 このようにして公会議は終わりました。私たちはそれ以来導入されてきた諸改革に驚くべきではありません。自由主義の全歴史を通して、リベラル派は公会議内部で勝利したので、彼らはパウロ六世が彼らにローマ聖省のよい地位を与えることを要求したのです。

 そして事実、諸々の重要な地位は進歩的な聖職者に与えられました。一人の枢機卿が死ぬとすぐに、あるいはある機会が生ずるやいなや、教皇パウロ六世は伝統的な枢機卿たちを脇へ押しやり、直ちにリベラルな枢機卿が彼らに取って代わるようにしました。

 このようにしてローマはリベラル派によって占領されました。これは否定できない事実です。また公会議の諸改革がエキュメニズムの精神を呼吸し、プロテスタントの精神を吸い込んだ改革であった、それ以上でも以下でもないということも否定することはできません。



典礼改革


 もっとも重大だったのは、典礼の改革でした。この典礼改革は誰もが知っているようによく知られたある一人の神父によってなされました。ブニーニ(Bugnini)です。ブニーニはこれをずっと前から既に準備していました。既に1955年にはブニーニ神父は、その当時イタリア従軍司祭の総司祭長であったモンシニョール・ピントネッロ(Mgr Pintonello)によってプロテスタントの典礼文を訳を頼んでいました。ブニーニはドイツ語を知らなかったのですが、ピントネッロはイタリアがドイツに占領されていた間、ドイツに長い間滞在していたことがあったからです。私はモンシニョール・ピントネッロ自身の口からこの耳で聞いたのですが、彼がプロテスタントの典礼書をいろいろと、当時ある典礼委員会の単なる一員に過ぎなかったブニーニ神父のために訳したのです。

ブニーニ神父


 ブニーニ神父は、何の地位もありませんでした。その後に彼はラテラン大学の典礼の教授になりました。教皇ヨハネ二十三世はしかしブニーニ神父の近代主義と進歩主義のために教授職から彼を追いやりました。ところが何とブニーニは典礼改革委員会の委員長として舞い戻ってきたのです。これは、嘘のような本当の話です。私はこの目でブニーニ神父の影響力がどれほど大きいものとなったかと言うことを知らされる機会がありました。このようなことがどうしてローマであり得たのか、不思議でなりません。

ブニーニ神父

 私はその当時、つまり第2バチカン公会議の直後、聖霊修道会の総長でローマにはいろいろな修道会の総長たちが集う「総長友好会」という会合がありました。私たち総長らはブニーニ神父に、彼の作った新しいミサとは一体どういうものかを説明してくれるように求めました。と言うのも、何と言っても典礼の改革というのは小さな出来事ではなかったからです。公会議後すぐに「規範ミサ Missa Normativa」とか新しいミサとか新しい式次第 (Novus Ordo) 等という言葉を耳にするようになりました。ですから、これが何のことか確かめたかったのです。このようなことは公会議の時には一切話しもしませんし、耳にしなかったからです。何が起ころうとしていたのか、それを知りたかったのです。ですから、私たちはブニーニ神父に、一堂に会した私たち84名のいろいろな修道会の総長たち(そして私もそのうちの一人でした)に彼自身が説明してくれるように頼んだ訳です。

 ブニーニ神父は気だてよく、私たちに「規範ミサ」とはいったい何なのかを説明してくれました。彼は、これを変えて、あそこを変えて、別の奉献文を付けて、典文(カノン)を選択することが出来るようにして、聖体拝領の祈りを簡略化して、ミサの始めにはいろいろな選択肢を付けて、ミサをいろいろな言葉で立てることが出来るようになる、等とまくし立てました。私たちは顔を見合わせて「まさか、無理な話だ!」と言いあったものです。

 話を聞いていると、まるであたかもブニーニ神父以前には教会にミサというものが存在していなかったかのようでした。ブニーニ神父は自分の作り上げた「規範ミサ」を新しい発明発見であるかのように話していました。

 個人的な話ですが、私は自分と意見を同じくしない人に反対意見を述べるのに普通ならさして困難を感じることはないのですが、この時ばかりは非常に動揺し、何も言葉を口にすることもできませんでした。一言も言葉を出すことが出来なかったのです。今私の前にいるこの男にカトリック典礼、ミサ聖祭、秘蹟、聖務日課、私たちの全ての祈りが全て任せられているなどということは許されないことだ、と思っていたのです。私たちは、どこに行くのか、教会はどこに行こうとしているのか、とばかり思っていました。

 それでも2名の総長様には立ち上がる勇気がありました。このうちの一人はブニーニ神父にこう質問しました。
「積極的なミサへの参加とは、肉体的な参加とは、声に出して祈ることですか、それとも霊的な参与のことですか。それはともかく、神父様は信徒のミサへの参加についてたくさんお話をして下さいましたが、信者の与らないミサというのはこれからはあってはならないかのようです。何故かというと、あなたのミサは全て信者が参加することを前提に作られているからです。私たちベネディクト会士は、信者が参加しないミサを立てています。私たちの私唱ミサに与る信徒がいないのですから、私たちは今後も私唱ミサを立て続けるべきなのでしょうか?」

 私はブニーニ神父が何と答えたかをそのまま繰り返して申し上げましょう。私はその言葉に衝撃を受けたので、それが今でも耳の中に残っています。
「本当のことを言うと、そのことを考えていませんでした。」
ブニーニ神父はこう言ったのです!

 その後で別の総長が立ち上がってこう言いました。
「神父様、神父様はこれを廃止して、あれを廃止して、これをあれと取り替えて、祈りはもっと短くして、等とおっしゃいました。私はあなたの新しいミサは10分かそこら、15分ほどで終わってしまうような感じを受けました。しかし、教会のかくも偉大な行為にとって、そんなに短いものは相応しくありませんし、尊敬に欠くものだと思います。」
 すると、ブニーニ神父はこう答えました。
「ミサにはいつでも何かを付け加えることが出来ます。」
 これは、本当にまじめな話のなのでしょうか?わたしは、この耳で聞いたのです。もし誰かがこのような話を私にしてくれただけでしたら、私は疑ってほとんど信じなかったでしょう。でも、私はこの耳で聞いたのです。

 その後、この「規範ミサ」が実現し始めたとき、私はあまりにもぞっとして、司祭や神学者たちと一緒に勉強会を開きました。そこで「新しいミサの批判的研究」が作られ、それはオッタヴィアーニ枢機卿(Cardinal Ottaviani)の元に提出されたのです。私がこの研究会の座長を務めました。私たちは互いに言い合いました。「枢機卿様たちを探してサインをして貰おう。このようなミサが何らの抵抗もなくなすがままにさせることは出来ない。」と。

オッタヴィアーニ枢機卿

 そこで私自身が出向いて、政務次官であったチコニャーニ枢機卿 (Cardinal Cicognani) と会い、こう申し上げました。

チコニャーニ枢機卿

「枢機卿様、このようなミサをそのまま通過させることは出来ないはずです。それは、あり得ません。この新しいミサとは一体なんですか?こんなのは教会における革命、典礼の革命ではないですか。」

 チコニャーニ枢機卿は、パウロ六世の政務次官でしたが、頭を抱えて私にこう言ったのです。
「オォ!モンシニョール、私はよく知っています。私はあなたと全く同じ意見です。でも、私に一体何が出来るというのでしょうか?ブニーニ神父は教皇様のお部屋に自由に入って自分の望むものを教皇様に署名させることが出来るのです。」

 これを私に言ったのは、政務次官の枢機卿様だったのです!
 良いですか、教皇様の次に高位な役職についておられる枢機卿様が、ブニーニ神父の下にいるです。ブニーニ神父は教皇様の所にいつでも入ることが出来、自分の欲しいままにサインをさせることが出来たのです。

 これを見ると、何故教皇パウロ六世が自分の読みもしなかった文書にサインをしてしまったかというその理由が分かります。教皇様はジュルネ枢機卿(Cardinal Journet) にこう言ったことがあります。ジュルネ枢機卿というのは考え深い方でスイスのフリブール大学の教授であり、偉大な神学者でした。ジュルネ枢機卿様が新しいミサ式次第の前に付いている「総則」の中のミサの定義を見たとき、こう言いました。

From left, monsignor Pierre Mamie, future bishop of Lausanne, Geneva and Freiburg, Cardinal Charles Journet and George Cottier in Rome during the works of Vatican Council II


「こんなミサの定義は受け入れることが出来ない。ローマに行って教皇様と会ってこなければならない。」と。
実際ジュルネ枢機卿様はローマまで足を運んで教皇様にお会いしてこう申し上げました。
「教皇聖下、こんな定義を許してはいけません。これは異端的です。こんな文書の元に聖下の署名を残し続けてはいけません。」

 すると、教皇聖下はジュルネ枢機卿にこう答えたそうです。これはジュルネ枢機卿が私に言ったことではなく、ジュルネ枢機卿がある人に言ったのですが、その人自身が私にこう言いました。
「ええと、実はね、私はそれを読まなかったのです。読まずにサインしたのです。」と。

 もしブニーニ神父が教皇様にそれほどの大きな影響力をふるっていたのなら、勿論そのようなことはあり得る話です。ブニーニ神父が教皇様に「教皇様は、これにサインすることが出来ます」とでも言えば、教皇様は「あなたはよく注意しましたね?」とでも聞かれるでしょう。するとブニーニ神父は「はい、サインすることが出来ます。」とでも答えたのでしょう。そして教皇様がサインをしたのでしょう。

 しかも新しいミサの文書は検邪聖省を通過しませんでした。検邪聖省を飛び越えて世に出たのです。私はこのことを知っています。何故なら、検邪聖省の長官であったセペール枢機卿様が私に、新しいミサの式次第が出た時セペール枢機卿は検邪聖省を留守にしていたこと、そして新しいミサが検邪聖省を通らなかったことを教えてくれたからです。ですから、ブニーニ神父が教皇様のサインを奪い取ってしまったのです。もしかしたらブニーニ神父は教皇様に強制的にサインを要求したのかも知れません。私たちには分かりません。しかし、彼には疑いもなく教皇様に特別な影響力があったのです。

 私自身がその証人に立つ第3の事実は、ブニーニ神父についてです。手による聖体拝領という、恐るべき事が許されようとしつつある時、私はこんなひどいことが実現するのを何もせずに見ているわけにはいかないと思いました。そこで、どうしてもスイス人のグート枢機卿 (Cardinal Gut) に会いに行かなければならない、と考えました。何故ならグート枢機卿こそが「典礼聖省」の長官だったからです。そこで私はローマまで足を運びました。ローマではグート枢機卿は私を非常によく歓迎してくれ私にすぐにこう言いました。

「私はすぐに私の補佐であるモンシニョール・アントニーニ (Mgr Antonini) を呼びます。モンシニョール・アントニーニがあなたの言うことを承ることが出来るようにします。」
そして、私たちは話し合いました。私はこう言いました。
「良いですか、あなたは典礼聖省の責任者です。手による聖体拝領などと言うことの許可の勅令を公布するのを許してはなりません。手による聖体拝領のために生じるであろう全ての涜聖を考えてもみて下さい。御聖体に対する尊敬の欠如が全世界の教会に広がることを考えても見て下さい。こんな事を許すことは出来ません。そのようなことを放任させておくのですか?既に手に聖体を授けだした司祭たちも何人かいます。ですから、これを今すぐ止めなければなりません。更にこの新しいミサで、司祭はいつも一番短い第二典文を使っています。」
 すると、グート枢機卿はモンシニョール・アントニーニにこう言っていました。「ほらね。私が言っていた通りそうなったでしょう。司祭はさっさとミサを早く終わらせるために一番短い典文を使うだろうって。」

 その後に、グート枢機卿は私にこう言いました。
「モンシニョール、もし誰か私の意見を聞くなら、(グート枢機卿が言っていたこの「誰か」とは教皇様のことを指していました。というのは彼の上には教皇様しか存在していなかったからです。)、しかし私は誰か私に意見を求めるかあまり確信がありませんが、(天主に対する礼拝、典礼に関する全てのことを任されているはずの典礼聖省の長官ともあろう方が、こう言うのです!) モンシニョール、私は教皇様の前に跪き、こう言うことでしょう。『教皇聖下、こんなことをなさらないで下さい。こんな勅令にサインなどしないで下さい』と。モンシニョール、私は跪いて懇願するでしょう。でも、人が私に意見を尋ねるか分かりません。何故なら、ここ典礼聖省で一番偉いのは私ではないからです。」

 これは、私がこの自分の耳で聞いたことです。彼は典礼聖省の第3番目の男であったブニーニ神父のことを暗示させていました。つまり、グート枢機卿がいて、モンシニョール・アントニーニがいてその次に典礼委員会の座長であったブニーニ神父がいたのです。(信じるためには)この言葉を直接聞かなければなりませんでした。ですから、人が私に向かって「おまえは反逆の徒だ、不従順だ、反抗者だ」等と言うときの私の態度も理解して下さらなければなりません。


彼らは教会を破壊するために教会内部に侵入した


 はい、確かに私はこのような人々に、つまりブニーニのような人々に反抗し、反逆の徒となるのです。何故なら、このような人々こそが教会を破壊しようと教会の中に侵入しているからです。それ以外あり得ません。

 では、教会の破壊に協力するとでも言うのですか?教会の敵が教皇聖下の懐まで入り込んで自分の思いのまま、一体どのような圧力の元にかは私たちは知りませんが、教皇様にサインをさせているのにも関わらず、「はい、はい、アーメン」と言うのでしょうか?勿論、私たちの知ることの出来ない隠されたことが多々あります。フリーメーソンの圧力があったという人もいます。それはあり得る話ですが、私には分かりません。ともかく、ある謎が存在します。枢機卿でも司教でもない一司祭が、しかもまだ当時非常に若かった一人の司祭が、ラテラン大学の教授職から追放したヨハネ二十三世教皇の意志に反して、教会の頂点まで上って上って上り詰め、政務次官を見下し、典礼聖省長官を見下し、教皇様の所まで直接行って自分の好きな文書にサインをさせているのです。このようなことは、かつて聖なるカトリック教会で見たこともありません。全ては常に権威当局を順序立てて通過していたものです。委員会の手を通し、書類を検査していました。しかし、この男は全権を握っているのです!

 私たちのミサを変えるためにプロテスタントの牧師たちを招待したのはこのブニーニです。グート枢機卿ではありません。政務次官の枢機卿でもありません。教皇様でもなかったかも知れません。ブニーニでした。このブニーニという男は言った何者なのでしょうか。

 ある日、典礼委員会の長に立っていた人、つまり「門外の聖パウロ大聖堂」の以前の大修道院長のベネディクト会士がにこう言いました。
「モンシニョール、ブニーニ神父の話はなさらないで下さい。私は彼についていやと言うほど知りすぎてしまいました。彼が誰かと言うことは私に聞かないで下さい。」
 しかし、私はこう返事をしました。
「さあ、おっしゃって下さい。私たちは本当のことを知らなければなりません。事実が明るみに出なければなりません。」
「私はブニーニについてあなたに話をすることが出来ません。」
しかし、彼はブニーニについて非常によく知っていました。多分に彼がヨハネ二十三世に要請してブニーニをラテラン大学から追放させたのです。

 これらのことを合わせて考えると、聖ピオ十世教皇が言っていた通り、敵は教会の内部に入り込んでいると言うことが分かります。そして、ラサレットの聖母が予告していた通り、そしておそらくファチマの第三の秘密がその内容であるように、教会の敵はそのもっとも高い頂点にいるのです。

 私には教皇パウロ六世がヴィヨ枢機卿(Cardinal Villot)によって非常に大きな影響を受けているという個人的な証拠さえあります。ヴィヨ枢機卿はフリーメーソンの会員だそうです。私には分かりません。ただいろいろな証拠があるのだそうです。ヴィヨ枢機卿宛のフリーメーソンの手紙が何通もあり、それを複写した人もいます。私にはその証拠がありません。いずれにしても、ヴィヨ枢機卿は教皇様にものすごい影響力をふるっていました。ヴィヨ枢機卿はローマの権力をその手に全て握りしめていました。そして彼こそが、教皇様に勝るローマの主人となったのです。全ては彼の手を通さなければなりませんでした。

ヴィヨ枢機卿

 このことを私は知っています。ある日私はカナダの公教要理についてライト枢機卿に会いにローマまで行きました。私は枢機卿に言いました。

ライト枢機卿

「この公教要理をご覧下さい。あなたは『断絶 (Rupture) 』という題の小冊子のことをご存じですか?これは本当にひどいものです。子供たちに断絶することを教えています。家族と、社会と、伝統と手を切り断絶しなければならないと。これがクデルク大司教 (Mgr Couderc) の印刷許可(imprimatur)を得て、カナダで子供たちに教えられている公教要理の本なのです。枢機卿様、教皇様の次にあなたこそが全世界における公教要理に関して責任がある方です。枢機卿様はこの要理の本に賛成しているのですか?」
枢機卿様は私にこう言われました。
「オォ ノー!ノー!この要理の本はカトリックではありません。」

 私は言いました。
「これがカトリックではないのですか?それではそのことをすぐにカナダの司教協議会にそう仰って下さい。彼らにこれを使うのを止めるように、この要理の本を火にくべるように、そして本当の公教要理を広めるようにとおっしゃって下さい。」
 すると枢機卿はこう答えました。
「私が司教協議会にどうやって逆らえとおっしゃるのですか?」

 私はその時こう言いました。
「万事休す。もはや全ては終った。教会の中に権威というものはもはやない。もうおしまいだ。もし司教協議会が子供たちの信仰を崩壊させている最中だというのに、ローマが司教協議会に何も言うことが出来ないとすると、それは教会の終わりを意味する。」

 私たちはそのような状況のど真ん中にいるのです。ローマは司教協議会を恐れています。これらの協議会はひどいものです。フランスでは否認を推進させるキャンペーンが司教たちによってなされています。私はフランスの司教たちが社会党政権によって取り込まれてしまったのだと思います。フランスの社会党政権は今では絶えずテレビでこのスローガンを叫ばせています。
「堕胎を避けるために避妊薬を!」

 フランスの司教団はこれ以上のことを何も見つけださず、避妊薬推進という気が狂った宣伝をしているのです。12歳の年端もいかない女の子が堕胎を避けるために避妊薬を買うとその代金は後で返済されるのです!そして司教たちはこれを認めているのです!私の昔の司教区であるチュール (Tulle) 教区報を私は受け続けているのですが、それにはサン・シュルピス会の総長であったブリュノン司教(Mgr Brunon)によって出された避妊推進のための公式文書が載っていました。彼はフランスの中でもっとも優れた司教の一人なのです。それがこうです!


何故私は「従順」ではないのか

 では、何をしなければならないでしょうか。私はこう言われます。
「あなたは従順であるべきだ。あなたは不従順だ。あなたは今していることを続ける権利がない。あなたは教会を分裂させている。」

 では、法とは何でしょうか。法令とは何でしょうか。何が私たちをして従順たらせるのでしょうか。レオ十三世教皇はこう言います。「法とは共通善のための理念の秩序である」と。つまり、法とは善のためにあるのであって悪のためにあるのではありません。もしあることが悪のためであると言うことがはっきりと分かっている場合にはそれは法ではありません。レオ十三世がそのことを「リベルタス」という回勅の中ではっきりと説明しています。共通善のためではない法はもはや法ではなく、これに従ってはならない、と。

AU MILIEU DES SOLLICITUDES
Qu’on ne l’oublie pas, la loi est une prescription ordonnée selon la raison et promulguée, pour le bien de la communauté, par ceux qui ont reçu à cette fin le dépôt du pouvoir.
Let it not be forgotten that law is a precept ordained according to reason and promulgated for the good of the community by those who, for this end, have been entrusted with power... )】

 ローマの多くの教会法学者たちは「ブニーニのミサは法ではない」と言っています。新しいミサの法はありませんでした。ただ許可、許しが与えられただけです。仮に今ローマからそのための法が、すなわち共通悪にあらず「共通善のための理念の秩序」が発布されたとしましょう。ところで、新しいミサは今まさに教会を破壊し、信仰を崩壊しているところです。これは全く明らかです。モントリオールの大司教グレゴワール大司教(Mgr Grégoire)は、ある手紙を発表しそう言っていますが、それは非常に勇気のあることでした。グレゴワール大司教はそのような手紙をあえて書き発表することの出来るまれな司教たちのうちの一人でした。その中で彼はモントリオールの教会を苦しめている諸悪を告発しています。

グレゴワール司教

「私たちは残念ながら多くの信徒たちがその小教区を去っているのを見ている。私たちはこの大部分を典礼改革の責任であるとする。」
グレゴワール大司教はこれを言ってのける勇気があったのです。

 私たちは今教会の内部で現在の枢機卿たちによる本当の意味での陰謀を前にしています。例えばノックス枢機卿(Cardinal Knox)はラテン語のミサと聖ピオ五世のと言われるミサについて全世界で有名な調査をしました。これはヨハネ・パウロ二世教皇様に影響を与えるために作られた明らかで明白な嘘の調査です。これを見て教皇様に「聖伝のミサを望んでいる人がこれほどの少数でしかないなら、何もしなくても自滅してしまうだろう。」と言わす為だったのです。こんな調査は何の価値もありません。教皇様は1978年の11月に私を迎え受けて下さった時には、司祭は自由に自分の選択で自由にミサを選ぶことが出来るという文書にサインする直前だったのです。教皇様はそこまでする準備が出来ていたのです。

カザロリ枢機卿

 しかしローマには聖伝に真っ向から反対する枢機卿たちのグループがあります。修道者聖省長官であるカザローリ枢機卿(Cardinal Casaroli)、世界中の司教たちの任命を取り仕切る非常に重要な役職の一つである司教聖省の長官であるバッジオ枢機卿(Cardinal Baggio)、それから悪名高いヴィルジニオ・レヴィ(Virginio Lévi)、彼は典礼聖省の第2の地位にいますがおそらくブニーニよりもずっと悪いと思います。また、アメ枢機卿(Cardinal Hamer)、彼は検邪聖省の第2の地位にいるベルギー人の大司教、ルーヴァン地方出身でルーヴァン大学のありとあらゆる近代主義の概念に染まっている人です。彼らは聖伝に真っ向から対立してます。彼らは聖伝について話を聞きたくもありません。もし彼らが私の息の根を止めることが出来たなら、彼らはそうしていたことだろうと思います。



少なくとも私たちに自由を残しておいてほしい

 彼らは、私が教皇様の元に出向いて聖伝の自由を勝ち取るために努力をしているのを知るとすぐさま、反対する同盟を組みました。願わくは人々が少なくとも私たちに自由を残しておいてくれるように。願わくは、以前人々が数世紀にもわたって祈りをしていたその通りのやり方でそのまま私たちが祈るのを放任するように。私たちが以前神学校で学んだことをそのままやり続けることを許してくれるように。願わくは、皆さんがまだ子供だった頃教わったことを、つまり私たちを聖化する最高のやり方をそのまま続けることを許してくれるように。

 私たちは最高の聖化の方法を神学校で学びました。私はこれを司祭だったとき実践していました。私が司教だったとき私の元にいる全ての司祭たち、神学生たちに私自身がこう言っていました。
「ミサ聖祭を愛しなさい。教会があなたたちに与えるものを、すなわち秘蹟と公教要理を愛しなさい。何も変えてはいけません。20世紀にもわたって続いている聖伝を守りなさい。これがあなたたちを聖とするのです。これが多くの聖人たちを聖としてきたのです。」

 それなのに今になると全部変えろと言うのですか?それは出来ません。少なくとも私たちには今までのことを続ける自由を残してくれるべきです。

 さて、彼らがこのことを耳にするやいなや勿論彼らはすぐさま教皇様の元に駆けつけてこう言うのです。
「ルフェーブル大司教に何も与えてはいけない。聖伝に何も与えてはいけない。とりわけ決して後ろに戻ってはいけない」と。

 彼らは例えばカザローリ枢機卿のように政務次官であり非常に重要な地位にあるので、教皇様はあえて何もしようとされないのです。ところで、ラッチンガー枢機卿のように中には聖伝に対して好意的に考えている方もおられます。セペール枢機卿(Cardinal Seper)が1981年の御降誕祭に亡くなると、ラッチンガー枢機卿がその後継者となりました。ラッチンガー枢機卿は公会議の時には非常にリベラルでした。彼はラーナーとかハンス・キュンクとかスキレベークスなどと言ったリベラル派の友でした。しかし彼がミュンヘンの大司教区の大司教という重責を任命されると、彼は少し目を開いたようです。彼は今では改革の危険に気が付いており、聖伝に基づいた規律に戻ってくることを望んでいるようです。彼と共に列聖聖省長官のパラッツィーニ枢機卿(Cardinal Palazzini)や、聖職者聖省のオッディ枢機卿(Cardinal Oddi)等がいます。これらの3名の枢機卿は聖伝に自由を残すことを望んでいます。しかしその他の方がもっと大きな影響力を教皇様に及ぼしているのです。

セペール枢機卿


 私は5週間前にローマにいました。そして教皇様によって聖ピオ十世会、私自身に関して、教皇様と私の間をつなぐ仲介者として、セペール枢機卿の後を引き継ぐように命じられたラッチンガー枢機卿と面会しました。セペール枢機卿は、ヨハネ・パウロ二世教皇が私に許された謁見の折に教皇様と私の仲介者として任命されました。ヨハネ・パウロ二世教皇様はセペール枢機卿を呼び寄せてこう言ったのです。
「枢機卿様、ルフェーブル大司教と私との間の関係をあなたが維持して下さい。あなたは私の仲介人です。」
そして、今教皇様はラッチンガー枢機卿をそれに任命したのです。

 私はローマに彼に会いに行きました。私は彼と1時間45分話し合いました。確かに、ラッチンガー枢機卿はもっと肯定的で良い解決策を引き出す能力がある人のようです。今かなり鋭い難問として一つ残っているのはミサです。そもそもの最初から、結局のところ、ミサが常に問題でした。何故なら彼らは私が公会議に反していないと言うことをよく知っているからです。公会議の中には私が受け入れることが出来ないことが幾つかあります。私は宗教の自由についての文書にサインをしませんでした。私はこの世における教会についての文書にサインをしませんでした。しかし、これを以て私が公会議に反対しているとは言うことが出来ません。ただ聖伝と反している私たちが受け入れることが出来ないことがあると言うだけです。このことのために大げさになってはなりません。教皇様ご自身も「公会議を聖伝の光によって見なければならない」とおっしゃったからです。もしも公会議を聖伝の光によって見るなら、私にとって何も問題とはなりません。私は「公会議を聖伝の光によって見なければならない」というこの文章にサインをしたいくらいです。何故なら聖伝に反することは全て明らかに排斥されなければならないからです。

 教皇様によって許された謁見の際に、ヨハネ・パウロ二世教皇様は私にこう尋ねました。
「それではあなたはこの言い回し(訳者注:「公会議を聖伝の光によって見なければならない」ということ)にサインをする準備が出来ているのですね。」
私は答えました。
「その言い回しを使ったのは教皇様自身です。私にはサインをする用意があります。」
「それでは私たちの間に教義上の難点は無いではないですか。」
「私はそう期待します。」
「では、今何が残っているのですか?あなたは教皇を受け入れるのですか。」
「勿論です。私たちは教皇様を認め、私たちは全ての神学校で教皇様のために祈っています。世界中でもしかしたら教皇様のために祈る神学校は私たちの所ぐらいしかないかも知れません。私たちには教皇様に対する大きな尊敬があります。教皇様が私に来いとおっしゃったときには私はいつもすぐに参りました。しかし、今典礼に関して問題があります。これは本当に難しい問題です。典礼は今教会を破壊し、神学校を崩壊させているとことです。これは非常に重要な問題です。」
「いや、これは規律の問題です。大したことではありません。もしこれしか問題がないのなら私は何とかなると思います。」

 そして教皇様はセペール枢機卿を呼び、枢機卿はすぐに来ました。もし彼が来なかったら私は教皇様は協定にサインをする用意があったと思います。セペール枢機卿が来て、教皇様は彼にこう言います。
「ルフェーブル大司教と話をまとめるのに、事はそれほど難しくないと思います。解決にたどり着けると思います。大して難しくもない典礼問題しかありません。」
すると枢機卿は声を上げてこう言いました。
「あぁ!ルフェーブル大司教に何も譲ってはいけません。この人たちは聖ピオ五世のミサを御旗にするのです。」
私は言いました。
「御旗、勿論ですよ。ミサこそが私たちの信仰の御旗ではないですか。Mysterium fidei 私たちの信仰の偉大な神秘です。そんなのは明らかです。これは私たちの御旗です。これは私たちの信仰の表明です。」

 これに教皇様はひどく動揺されたようです。教皇様はほとんどすぐに態度を変えられたようです。私の思うには、このことは教皇様が強い男ではないと言うことを示しています。もし強い男だったら、こう言っていたことでしょう。
「私がその面倒を見ましょう。典礼については私がまとめましょう。」
そうではありませんでした。教皇様は直ぐに恐れをなしたかのようでした。

 教皇は恐れるようになられました。そして執務室を離れられたとき、教皇様はセペール枢機卿に言われました。「さあ今から、あなたは(ルフェーブル大司教と)話をしてもよろしい。ルフェーブル大司教とことをまとめるように計らってしてよろしい。このままここにいてもよろしい。私はバッジオ(Baggio)枢機卿と会いに行かなければなりません。彼は司教たちに関して非常に多くの書類を私に見せなければなりません。私は行かなければなりません。」

 教皇は去られるとき私に言われました。「止めてください。大司教様、止めてください。」教皇は変わってしまいました。数分の間に教皇は完全に変わってしまいました。

 私が一人のポーランドの司教から受け取った手紙を教皇に示したのはこの謁見の間でした。このポーランド人司教は一年前、私に手紙を書いてよこしたことがありました。それは、エコンに設立した神学校、そして私が養成している司祭たちについてに褒めるためでした。このポーランド人司教様は、私が全聖伝と共に古いミサを守ることを望んでいました。

 彼はこうつけ加えて言いました。自分が唯一の人間ではない、複数の私たち司教は、あなたに敬服し、あなたの神学校に敬服し、あなたが司祭たちに与えている養成そしてあなたが教会内部で守っている聖伝に敬服している、なぜなら、私たちは、信徒に信仰を失わせるために新しい典礼を使うことを強いられているからだ、と。

 それがこのポーランドの司教が言ったことです。教皇様に会いに行くときにこの手紙をポケットに入れて持って行きました。何故なら「教皇様は確かにポーランドについて私に話されるだろう」と思ったからです。

 その通りのことが起こりました。教皇様は私に言われました。「しかし、知っているでしょう。ポーランドではすべてが非常にうまく行っています。なぜあなたは改革を受け入れないのですか?ポーランドでは何の問題もありません。人々はラテン語を失ったことをただ悲しんでいるだけです。私たちはラテン語に非常に愛着がありました。なぜならそれは私たちをローマに結びつけていましたし、私たちはまさにローマ的なのだからです。それは残念なことです。しかし私に何をすることを望むというのでしょうか?神学校にも、聖務日祷書にも、ミサにももはやラテン語はありません。残念です。仕方がありません。ポーランドを見て下さい。改革を受け入れましたが、問題はありません。私たちの神学校は神学生で一杯です。そして私たちの教会は信者で一杯です。」

 私は教皇様に言いました。「私がポーランドから受け取った一通の手紙をお見せすることをお許しください。」

 私はそれを教皇様に見せました。教皇は、司教の名前を見たときこう言われました。「おお、この人は共産主義者たちの敵の中で、最大の反共の人です。」--「それはよい人物証明です」と私は言いました。

 教皇はその手紙を注意深く読まれました。私はその手紙の中で二度繰り返されたそれらの言葉に教皇がどのように反応されるかを見るためにその顔に注目しました。「私たちは、信徒に信仰を失わせるために新しい典礼を使うことを強いられている」という言葉です。

 明らかに教皇はこれを容易に受け入れることはできませんでした。最後に教皇は私に言われました。「あなたはこの手紙をこうやって受け取ったのですか?」
「はい、そうです。持って来たのはコピーです。」
「それは捏造に違いない」と教皇は答えられました。


 私は何を言うことができたでしょうか?私はもはや何も言うことができませんでした。教皇様は私に言われました。
「ご存じでしょうが、共産主義者たちは司教たちの間に分裂を引き起こそうと、非常に狡猾です。」
 それゆえ、教皇様によれば、これは共産主義者たちによってでっち上げられ、そして次に私に送られた手紙だったとのことです。私は教皇様の説を非常に疑っています。何故なら、この手紙はオーストリアで投函されたものだったからです。私の思うには、それを書いた人は共産主義者がそれを途中で奪い、それが私に届かなくなることを恐れたのではないか、ということです。それが彼がオーストリアでそれを投函した理由です。私はその司教に返事を出しましたが彼からはそれ以上何の返事もありませんでした。

 私がこのことを言うのは、ポーランドにおいてさえ、重大な分裂があると私は考えるということです。さらに、パックスの司祭たち(訳者注:PAX という親共産党の団体(Stowarzyszenie PAX)に所属する司祭たちのこと)と聖伝を堅く守ることを望む司祭との間に常に分裂が存在してきたのです。これが鉄のカーテンの背後での悲劇であったのです。



ローマへの共産主義の影響

 皆さんは、イエズス会士、レピディ(Lepidi)神父による『モスクワとヴァチカン』という書物を読むべきです。これは素晴らしい本です。この本は、共産主義者たちがローマにおいて持っている影響力、そして彼らが司教たちの任命、そして二人の枢機卿さえも:レカイ(Lekai)枢機卿とトマセック(Tomaseck)枢機卿の任命さえも、どのようさせたかということを示しています。

 レカイ枢機卿はミンゼンティ(Mindszenty)枢機卿の後継者であり、トマセック枢機卿はベラン(Beran)枢機卿の後継者でした。ミンゼンティ枢機卿とベラン枢機卿は二人共、信仰の英雄そして殉教者でした。

 ミンゼンティ枢機卿とベラン枢機卿の代わりに、パックスの司祭たちを任命したのです。つまり、何よりもまず共産主義政府と同調することを求め、伝統的な司祭たちを迫害することを決心したパックスの司祭たちによって取って代わられたのです。

 密かに洗礼を授けるために田舎に行き、秘密に公教要理をするなど、カトリック教会の司牧の業を続けようとした司祭たちを、これらの新しい司教たちは告発するのです。

 司教たちは彼らにこう言うのです。「あなたたちは共産主義政府の規則を遵守しない権利を持っていない。あなたたちは、法律に反して行動することによって、私たちに害を与えている。」

 しかしこれらの司祭たちは、子どもたちの信仰を守るように、家族における信仰を守るように、そして秘蹟を必要としていた人々に秘蹟を授けるように、自分の生命を捧げる用意ができていました。
 明らかにこれらの国々においては、もし聖体の秘蹟を病院へ運ぶ、あるいは何であれ何かをしたいと思ったならば、常に許可を求めなければなりませんでした。彼らが香部屋を出るやいなや、これらの司祭たちは、共産党に、あれこれのことをする許可を求める義務を負わされていました。こんなことは不可能なことです。人々は秘蹟を授からずに死んでいくのです。子どもたちはもはやキリスト教的なやり方では教育されませんでした。

 ですから司祭たちはもちろん、これらのことを秘密裏にするのです。もし彼らが逮捕されるとすると、司教たち自身が彼らを迫害したからです。それは恐るべきことです。

 ウィシンスキー(Wyszynski)枢機卿もスリピ(Slipyi)枢機卿もミンゼンティ枢機卿もベラン枢機卿もこのようなことはしませんでした。彼らはその反対に彼らに次のように言いながら善い司祭たちを励ましていました。

「どうぞ、やりなさい。さあ、がんばってやりなさい。もしあなたたちが投獄されるなら、あなたたちは司祭としての義務を果たしたことになるのです。もしあなたたちが殉教しなければならないならば、殉教者となりなさい。」

 このことは彼ら共産主義者たちがどのように大きな影響力をローマに対して持っていたかを示しています。私たちがそのことを想像するのは非常に困難です。私たちはそのことを信じることさえできません。

私は、教皇の側に、ペトロの後継者の側に立っています。

 私は決して教皇様に反対であったことはありません。私は教皇が教皇でないと言ったことも決してありません。私は、教皇の側に、ペトロの後継者の側に立っています。私はローマから分離することを望みません。しかし私は近代主義に反対です。進歩主義に反対、改革においてプロテスタンティズム悪しき破壊的な全ての影響に反対です。私たちを毒している、そして信徒の生活を毒しているこれらすべての改革に反対です。

 ところで、私はこう言われています:「あなたは教皇に反対している」と。いいえ、私は教皇に反対ではありません。その反対です。私は教皇を助けに来ています。なぜなら、教皇は近代主義者でありえないからです。進歩主義者であることはできないからです。

 たとえ教皇様が放任していることがあったとしても、それは弱さによってです。それは起こり得ることです。聖ペトロもまたユダヤ人に関して、聖パウルの前で弱い時がありました。聖パウロは厳しく聖ペトロを叱責しました。「あなたは福音に従って歩んでいない」と聖パウロは聖ペトロに言ったのです。

 聖ペトロは教皇でした。そして聖パウロは聖ペトロを叱責したのです。そして聖パウロは力強く言ったのです。「私は教会の頭を叱責した、彼は福音の法に従って歩んでいない」と。こんなことを教皇に言うなどということは、重大なことです。

 シエナの聖カタリナもまた、数人の教皇たちを激しく非難しました。そこで、私たちは同じ態度をとるのです。私たちはこう言います。「教皇様、あなたはご自分の義務を果たしておられません。もしも教皇様あなたが、教会をもう一度栄えるようにすることをお望みならば、あなたは聖伝に戻らなければなりません。もしも教皇様あなたが、これらのすべての枢機卿や司教たち(彼らは近代主義者です)聖伝を迫害するがままにさせているなら、あなたは教会の荒廃を引き起こすことになるのです」と。

 私は、教皇が心の中では、深く心配しておられ、教会を刷新する手段を探しておられると確信しています。私たちの祈りと犠牲、そして聖なる教会を愛し、教皇を愛する人々の祈りによって私たちが(カトリック教会をして聖伝に立ち返らせることに)成功すると期待し確信しています。

 特に聖母マリアへの信心によって[可能]でしょう。もし私たちが聖母に祈るならば、聖母マリアは、自分の御子を見捨てることがおできにならず、御子が建てられた教会つまりその御子の神秘的花嫁を見捨てることがおできにならないでしょう。

 (教会が聖伝に立ち戻ること)それは難しいことでしょう。そのようなことは奇跡でしょう。しかし、私たちは成功するでしょう。


「信仰を守りなさい。信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」

 しかし、人々は私に「新しいミサがよいものである」或いは「聖伝のミサよりも劣るがそれでも良いものだ」と言わせようとしていますが、私はそう言うことを望みません。私にはそう言うことが出来ません。私には新しい秘蹟がよいとは言うことが出来ません。何故ならこれらはプロテスタントたちによって作られたからです。ブニーニによって作られたからです。ブニーニ自身が1965年3月19日にオッセルヴァットーレ・ロマーノ (Osservatore Romano) やドキュマンタシオン・カトリック (Documentation Catholique) で読むことが出来るように、そう言っているのです。
「私たちのカトリックの祈りやカトリック典礼から私たちの離れた兄弟たち、つまりプロテスタントにとって躓きの影となりうるものを全て取り除かなければなりません。」

 1965年3月19日、つまり全ての典礼改革の始まる前でした。私たちがプロテスタントの人たちに、私たちのミサ聖祭や私たちの秘蹟、私たちの祈り、私たちの公教要理について「どこが気に入らないのでしょうか?」と尋ねに行くことが一体可能なのでしょうか?「あなたたちはこれが好きではないのですね。あなたはここが気に入らない。ああそうならこれを廃止しましょう。」と言うのですか?
 それはあり得ません。もしかしたらそうしても異端にはならないかも知れません。しかしカトリックの信仰が弱められてしまいます。こんな事をしたために古聖所を信ずる人はもういなくなってしまいましたし、煉獄も地獄も原罪のことも、天使の存在ももう信じなくなってしまいました。もう聖寵について信じてもいないし、超自然について話にも上りません。これでは私たちの信仰の終わりです。

 ですから、私たちは絶対に私たちの信仰を守り、聖母マリア様に祈らなければなりません。何故なら私たちだけでは、今私たちのやろうとしていることは巨大な事業であって、天主様の御助け無しにはやり遂げることが出来ないであろうからです。

 私は自分自身の弱さと孤立状態を自覚しています。教皇様を前に、枢機卿様たちを前に、私一人で何が出来るとでも言うのでしょうか?私には分かりません。私は一人の巡礼者、巡礼の杖をついて歩く巡礼者として行きます。私はこう言います。「信仰を守りなさい。信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。秘蹟とミサ聖祭を守らなければなりません。」


 私たちはこう言うことは出来ません。「ねぇ、いいですか、変わったとしても、それほど重大だというわけではないのです、私には信仰がちゃんと染み込んでいますから。私は大丈夫です。私が信仰を失う危険はありません」と。

 新しいミサに行き、新しい秘蹟を受けるのに慣れてしまった人々は、少しずつ考え方を変えていると言うことに私たちは気が付いています。

 数年後に、この新しいミサに行っていた人に、つまりこのエキュメニカルなミサに行っていた人に質問してみると、この人がエキュメニカルな精神を学んでしまっていることに気が付くことでしょう。つまり、この人は全ての宗教を同じレベルに置いて、同等に扱うことになっているでしょう。

 彼に「プロテスタントの教えによって、仏教によって、イスラムによって人は救いを得ることが出来るのか?」と尋ねると彼はこう答えるでしょう。「もちろんですとも!全ての宗教はみな良いものです。」 ご覧下さい、彼はこうしてリベラルになってしまったのです、プロテスタントになってしまったのです、つまりカトリックではなくなってしまったのです。

 ただ一つの宗教しかありません。真の宗教は二つはありません。もし私たちの主が天主であるなら、そして天主が一つの宗教、カトリック教を創立したのなら、そのほかの諸宗教というのはあり得ません。そんなことは不可能です。その他の宗教は偽りの宗教です。誤った宗教です。だからこそオッタヴィアーニ枢機卿は第2バチカン公会議の草案に『他宗教を黙認すること (de tolerantia relisiosa)』と言う題を付けたのです。私たちは誤謬が広がるのを防ぐことが出来ないときには、その誤謬を黙認するのです。しかし誤謬を真理と同等のレベルに置くことは出来ません。そうでもなければ宣教精神というものがもはや無くなってしまうでしょう。もしこれらの偽りの宗教らによっても救いを得ることが出来るのなら、何故あえて宣教に行くのでしょうか?宣教に行って何をするのでしょうか?「自分たちが信じている宗教をそのまま信じるように彼らをそっとしておきなさい。彼らはどっちにしてもみな救われるのですから。」と言わなければならなくなってしまいます。そんなことは出来ません。

 教会はそれでは20世紀もの間一体何をしてきたのでしょうか?何故これらの多くの殉教者らがでたのでしょうか?何故彼らは全て宣教中に皆殺しにあったのでしょうか?宣教師たちは時間を無駄に使ったのでしょうか?彼らは自分の血潮と一生をむざむざと無駄にしたのでしょうか?私たちはそのように考えることを受け入れることは出来ません。

 私たちはカトリックとしてとどまらなければなりません。エキュメニズム運動に滑り込むのは非常に危険です。もはやカトリックとは言えない宗教に行くのは非常に危険なことです。

 私は皆さんが全て、私たちの主とカトリック教会の証人となることを、教皇様の証人、カトリックであると言うことの証人となることを熱烈に望みます。それはたとえ私たちが軽蔑され、マスコミに侮辱され、小教区で侮られ、いろいろな教会でバカにされたとしてもです。そんなことはどうでも良いのです。私たちはカトリック教会の証人であり、カトリック教会の本当の子供らであり、童貞聖母マリア様の本当の子供たちであるからです。

(講演終わり)

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