2008年7月1日火曜日

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の司祭叙階式における説教(エコンにて)1987年6月29日

アヴェ・マリア!

June 29, 1987 Ordination Sermon of Archbishop Marcel Lefebvre, Ecône, Switzerland

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 1987年6月29日、エコン (スイス)にて、ルフェーブル大司教様の司祭叙階式における説教をご紹介します。これは、1988年6月30日司教聖別式のちょうど一年前にルフェーブル大司教がなさった説教で、何故、司教聖別をする緊急状態なのかを説明しています。

 ここに紹介する1987年6月29日の司祭叙階式における説教を読んでも、1988年6月30日司教聖別式の説教を読んでも、ルフェーブル大司教には一つのことしか頭になかったとひしひしと良く伝わってきます。それは、カトリック教会をそのまま続けること。カトリック教会の信仰を変えないこと。それことが天主の御旨であり、歴代の教皇様たちと一致することである、と。

 これを読むと、ルフェーブル大司教からは、別の教会を作る(つまり離教する)などという惨めな考えなどこれっぽっちもなく、使徒継承のカトリック教会のために、教会が教え続けてきた通り、天主であるイエズス・キリストが王として全世界に統治するために、全人類が王なるイエズス・キリストに従うために、そしてそうすることによって救霊を確保するために、1988年4名の司教たちを聖別したということが分かります。

 何故なら、ルフェーブル大司教は離教を望まなかったからです。アシジに代表されるエキュメニズムと私たちの主イエズス・キリストを王位から引きずり降ろすリベラリズムに従うことは、使徒継承のカトリック教会の教えから離れること、つまり本当の意味の離教に繋がるからです。

 ルフェーブル大司教には、離教の意図が一切ありませんでした。カトリック教会をそのまま変えずに続けることしかありませんでした。「ルフェーブル大司教の離教」などというものは、いまだかつて存在したことがありません。従って、誰一人としてそのような存在していない「離教を公式に支持すること」など出来ず、従って、離教のために想定された「破門」もあり得ないのです。

 ルフェーブル大司教様のおかげで、今でもカトリック教会に、聖伝のミサが生き残ることが出来ている事実を見て、また、ルフェーブル大司教様が抵抗して下さったおかげで、ベネディクト十六世も手紙でそう言っているように、2007年7月7日に自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』を出すことが出来た事実を見て、私たちは、今年でその二十周年を迎える、ルフェーブル大司教のカトリック聖伝「生き残り作戦」に感謝します。

 最後にこれを訳して下さったマキシミリアノ岡村さんに心から感謝します。


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1987年6月29日
ルフェーブル大司教様の司祭叙階式における説教


親愛なる兄弟の皆さん、

 私達の神学校の存在理由かつ最上の行事であるこの荘厳な司祭叙階式に共に参列するため、ここエコンで私たちを再会させてくださった天主に感謝を捧げましょう。

 叙階のない神学校はもはやカトリックの神学校、公教会の神学校ではありません。そしてそれゆえに、これら司祭達の上に按手する喜びをいだきながら、私たちは天主に感謝するのです。エコンがフラヴィニーに展開し、それによってカトリックの司祭になりたいより多くの若者達が、真のかつ聖なる司祭になるために必要な養成と恩寵を見出す事ができるようになってから、天主は私たちの神学校が生き続け、拡大することさえお許しになりました。

 親愛なる友人の皆さん、まず私は皆様に対しいくつかの啓発と激励の言葉を差しあげようと思います。あなた方はカトリック・ミサにおいて叙階されようとしています。皆さんは、新プロテスタント・ミサにおいて叙階されるのではありません。そしてカトリック・ミサは過去、現在、未来と偉大な司祭的計画、キリスト教生命の偉大な計画なのです。このミサを修正することは司祭の理想とキリスト者の理想、カトリックの理想を変える事にもなるのです。実に、このミサ聖祭とは、何はさておきイエズスの十字架、イエズスの十字架の継続なのです。イエズスが十字架上で御死去されたので神殿の幕は裂けました。旧約は、新約に取って代わられたのです。

 ではすべてが変えられたのでしょうか? 答えは Yes であり No であります。 疑いなく、旧約の法の儀式と天主の法のある概念は変えられましたが、旧約の主要な点は愛の掟の生けるイメージに変容されたのです。もし天主を愛さずそして隣人を愛さないのなら、天主の十戒とは何でしょうか?
 これを私たちに教えてくださったのはイエズス・キリストご自身です。そして今後、この愛の掟はもはや石の上だけではなく、聖主イエズス・キリストの犠牲の中に刻まれるのです。彼は愛の掟であり、十字架上でそれを証明されました。十字架上で、聖父の栄光と霊魂たちの救いのために死ぬ事以上に優れた愛と愛徳の表明を、聖主は他にどんな形で私たちに与える事ができたでしょうか?

 それゆえに十字架についてイエズスが私たちに説き、彼が毎日の聖なるミサ聖祭で伝えているのは、この愛の掟なのです。 皆様の心と霊魂内に、親愛なる友人である皆様、洗礼の成聖の聖寵によって記されたのは、この愛の掟なのです。まさしくこの成聖の聖寵こそ愛の掟と愛徳を実践するために皆様を聖主イエズス・キリストに変容させ深く一致させたのです。

 善き聖主はその変容と深い一致を生み出す恩寵を皆様に与えようとしておられるので、願わくは皆様が生涯の日々に捧げることになるミサ聖祭の犠牲は、皆様の代父と代母が聖主イエズス・キリストに専心し、この世のすべての誘惑を放棄すると誓う時、洗礼にて皆さんがいただいたその成聖の聖寵を支えてくれるのです。それこそ、これからの日々皆様が繰り返す事なのです。つまり「我が天主よ、ああイエズス、私は御身を永遠に深く愛し奉る。我は御身の司祭になることを欲す。模範と言葉により愛の掟を説く司祭に。我をして、この世のすべてとその誘惑から取り去り給え。我をしてこの世のすべての影響から守り給え。なぜならそれはサタンの手先、そして天主に対する不従順によって満たされている故なり。」

 この方法であなた方の霊魂は、目前にある祭壇上であなた方が持ち、あなた方が御自身で発する聖変化の言葉によって天国から降臨させることになる聖主イエズス・キリストの十字架と、その御血と御体の御前で慰められるでしょう。なんという崇高な神秘でしょうか。天主がその犠牲を捧げ、それを継続するために人間に従うのです。それがあなた方の司祭生活の目的なのです。つまりあなた方のところにやって来て、あなた方の捧げるミサ聖祭の聖なる犠牲に与るでしょう霊魂たちを、完全にあなた方自身の犠牲に至るまで、天主と隣人に対する愛の感情をもって貫くために。そして天主は、聖主イエズス・キリストがこのためにその模範を与える事をご存知です。つまり自己の犠牲に至るまで、もし必要ならば死に至るまで、そして聖主イエズス・キリストに一致してとどまるためにあなた方が自らの血を流すに至るまでになるように。願わくはそれがあなた方の決意でありますように。そういうわけで皆様は私と共に捧げようとしているミサ聖祭の聖なる犠牲にて私たちの聖主の生命と死に結ばれなければなりません。

 世俗の引力と、ミサ聖祭のこの聖なる犠牲をまったくの人間的集会に変容させようとする世俗の魅力によって誘惑されるままにならないようにして下さい!

 これらの感情が全司祭的生活において皆様の中に留まることを私は切に望んでいます。よりお年を召した司祭方が、彼らが送られたところ至る所でそうであるように、使徒であってください。ここに集っていて皆様を共に囲み、皆様の上にその手を置くことをうれしく思っているこれらの親愛なる司祭達のように。私たちの聖主イエズス・キリストの司祭達、十字架に釘付けられた愛、十字架に釘付けにされたイエズスの司祭達であって下さい、世俗の司祭達、世俗のための司祭達ではなく。

 親愛なる兄弟の皆様、この機会を利用して、私たちが通例に従い司祭叙階式の機会に行うように、私たちが今日置かれいている状況について指摘することをお許しください。それは言及されなければならない事です。私は沈黙する事はできません。隠蔽することも出来ません。今年はカトリック教会にとって、私たちカトリック信者たち、私たちカトリック司祭達にとって非常に重大でした。

 皆様はこれをご存知で、異なる記者達がそれを報道してきました。つまり私がカトリック教会の存続に必要と思われる行動を遂行するために、御摂理からの印を待っているところであることを言及する好機があったということです。今、私はこれらの印が到来したと確信します。

 それらの印とは何でしょうか? それは2つです。まずアシジ、それから信教の自由に関して私たちが明確化した異議に対してローマが作成した返答です。


アシジの背教

 アシジ(の平和祈祷集会)は去る10月27日に開催されました。そして信教の自由と関連する第2バチカン公会議の誤謬に関する私たちの異議に対するローマからの答えは3月の始めに私たちのもとに届きました。このローマの答えは、それ自体で、アシジ以上に危険でさえありました。アシジは一つの歴史的事実、一つの行為です。しかし信教の自由に関する私たちの異議に対するその返答は、原理の主張であり、それゆえに非常に危険なのです。ある危険で躓きになる行為を単に行うのは一つの事柄です。しかし、偽りと誤った諸原理を断言するということは、単なる行為とは他の事柄です。何故なら、それは結果として、実際に破滅的結末を生み出すことになるからです。

 そういう理由で御摂理は、様々な状況のある結合によって私たちがちょうど出現した一冊の本『彼らは主を王位から引きずりおろした』(Ils L'ont Decouronné) を作成する事をお望みになりました。彼らは彼を王位から引きずりおろしたのです!誰が王位から引きずりおろしたのでしょうか? そして誰が引きずりおろされたのでしょうか?
 誰が引きずりおろされたのか? 私たちの聖主イエズス・キリストです。
 誰が彼を王位から引きずりおろしたのでしょうか? 今日のローマ当局です。

 そしてこの王位の剥奪は、アシジの儀式の時に明確な方法で表明されました。
 イエズス・キリストが王位から引きずり下ろされたのです。彼はもはや王ではなく、普遍的な王でも御降誕の大祝日からその御昇天に至るまで、私たちが宣言する王ではないのです。すべての宗教的祝日は、私たちの聖主イエズス・キリストの王権を示しているのです。だから全典礼暦年中、私たちはRex regum, et Dominus dominatium --- 王の王かつ主の聖主! と歌っているのです。

 そしてご覧下さい!私たちの聖主イエズス・キリストの王権を讃える代わりに全宗教の万神殿(パンテオン)が制定されるのです!ちょうど異教ローマ皇帝たちがあの万神教の為の神殿を造ったように、今日それを行うのは公教会のローマ当局です!

 これは霊魂たち、カトリック信者達が、目撃することになり、そして彼らを疑いに投げ込む恐るべき躓きなのです。それは厳密に言うならば自由主義と呼ばれるものです。

 自由主義とは、天主の御前での人間の自由を制定することです。結果として、いかなる宗教も自分が真のものであるという宗教と等しく尊敬すべきものになるのだと、良心に従って信じ、希望し、宣言する人間を意味します。

 「国家、市民社会は、もはやどれが真の宗教であるか知る事ができない」、これがローマから頂いた書類の中で私たちに対して述べられていたことです。「国家は宗教的事柄について無能であり、それゆえどれが真の、あるいは偽りの宗教であるか決められない」と。「この事実自体によって国家はそれが何であれ、すべての宗教をこの“自律的社会空間”に拡張させなければならない。なぜなら人間は自分の宗教をもつ事に関して自由だから」と。

 私たちは言います。違います。違います。それは間違っています。
 そしてミサ聖祭はこれを私たちに示しています。これは十字架上の聖主イエズス・キリストが私たちに要求し、説く掟、愛の掟なのです。彼は私たちに言います、「あなた方は愛の掟に従わなければいけない。誰であっても、愛の掟に従わない人は永遠の生命にふさわしくない。」

 したがってそれは義務的掟なのであります。私たちには自分の宗教を選ぶ自由はありません。あるのはたった一つ。それは私たちの聖主イエズス・キリストが十字架の高みから宣言されたその一つです。

 自由主義は現代の偶像になってしまいました。それは現在、世界中大部分の国で、しかもカトリック教国でさえ崇められています。天主に挑み、自分独自の宗教を作ろうとし、人権の宗教、独自の戒律を作り、世俗の団体、世俗的国家、世俗的教育と協力し、天主の無い独自の宗教を創りあげることを欲するのが、天主に対する人間の自由であり、それこそが自由主義なのです。

 一体全体どうやって、ローマ当局が、信教の自由に関する第2バチカン公会議の宣言のなかでこの自由主義を主張し奨励することが出来たのでしょうか? 私の考えでは、それは非常に重大な事です。ローマは暗黒の中にいます。誤謬の暗黒の中に。それを否定する事は私たちに出来ません。私たちカトリックとしての見解から、そしてなおさら司祭としての見解から、アシジ、つまり、そこで異教儀式の執行の為に仏教徒達に与えられた聖ペトロ教会で見る事のできたあの見世物を私達はいかにして黙認出来ましょう? 彼らが、私たちの聖主イエズス・キリストの御聖櫃の前で ― 疑いなく空だったのでしょうが ー しかし、彼らの偶像、つまり仏像がその上に置かれて、異教儀式を執り行っているのを、どうやってそのまま傍観していることが考えられるでしょうか。しかも、これが、カトリック教会のなかで、私たちの聖主イエズス・キリストの教会の中で執り行なわれてていたのです! 事実はそこにあります。事実は、ありのままを語っています。私たちにさらに重大な誤謬を見逃す事は出来ません。

 いかにしてあの現実は実現したのでしょうか?その答えは天主に委ねましょう! 天主こそがあらゆることを統治しているからです。つまり、事象の主であるわたしたちの聖主イエズス・キリストが統治しているからです。ローマと教皇から枢機卿達まで、さらにエキュメニズムと自由主義に関する公会議の誤った思想にしたがっている世界中の全司教を含めて、最高権威者らを掌握している様々な誤謬の将来がどうなるかを知る方は彼なのです。

 天主のみそれがどこに導こうとしているのかご存知なのです。しかし私たちにとってみれば、もし私たちがカトリックに留まり、そして公教会を存続させたいのなら、私達には破棄できない様々な義務が生じます。私たちには私たちが負っている重大な義務、つまり私たちの聖主イエズス・キリストと、その王権と、公教会の教義に従ったその社会的王位 (His social Kingship) を信じる司祭たちを増やさなければならないのです。そういうわけで、誰もがそれにより養われ私たちが遂行している戦闘をより理解できるように、自由主義に関するその本(『彼らは主を退位廃冠させた』Ils L'ont decouroné)が現れた事を私はうれしく思います。

 これは人間的な戦いではありません。私達はサタンとの接近戦の中にいるのです。それは超自然的な総力を要求する戦闘です。そして公教会を徹底的に破壊し、私たちの聖主イエズス・キリストの御業の崩壊を望むサタンと戦うために私たちはこの超自然的力を必要とするのです。私たちの聖主が御降誕されてから、サタンはこれを常に望んできました。そしてサタンはそれが何であれ、聖主の君臨と、そのすべての制度を一掃しながら、聖主の神秘体、を廃止し壊滅し続ける事を望んでいます。私達はこの悲劇的、黙示録的戦闘に気づかなければなりません。そこに私達は生きており、それを見くびってはいけません。それを見くびるだけ、私たちのその戦闘おける戦意は衰えるのです。私達はさらに弱くなり真理をもう宣言しようとしなくなるのです。 わたしたちはもはや聖主イエズス・キリストの社会的王権を敢えて主張しようとはしません。何故ならその響きは世俗的、無神論的世界の耳に心地よくないからです。私たちの聖主イエズス・キリストが社会において君臨すべきであるという事は、世界にとっては愚かに見えるのです。私達は流行おくれ、中世時代に凍結したのろま者達だとみなされています。「過去に属するものはすべて終わった。あの時代は終焉したんだ。聖主イエズス・キリストが社会で君臨することはもはや不可能だ」と。おそらく私達は、私たちに敵対する大衆意見を恐れるという傾向を少し持っています。なぜなら私たちが聖主の王権を宣言しているからです。従って聖主の社会的王権のために私たちが保持するその論証が、サタンによって導かれ、私たちの影響の拡大を妨げ、それを破壊しようとさえするするために現れる一つの敵に驚かないようにしましょう。 

 こういうわけで私達は、本日これらの司祭叙階式を執り行うことをうれしく思うのです。そして私達は、善き天主が私たちの手にお委ねになったこの業を放棄する事など不可能であると心から考えています。なぜなら実際、それを創立、しかも信じられない状況においてそれを創られたのは私ではなく、まさしく聖主だったからです。現在(聖ピオ十世会)創立後15年目にして、私たちの会は世界的規模に達しました。

 天主に感謝、他に多くの修道者もまた私たちと共に、わたしたちの周りに現れました。この叙階式に参列しているすべての男女修道者の方々もまた、私たちの聖主イエズス・キリストの王権を自ら宣言するために立ち上がりました。そして彼らは天主を見捨てないでしょう。

 私達は天主を見捨てようとしているのですか? 彼を再び十字架に釘付けにさせるのでしょうか? そして公教会をまさに今それが生きている受難の状態および私たちが救援に行く事もなく取り残すのでしょうか?

 もし誰もこれ以上聖主イエズス・キリストの天主性を宣言しなくなれば、霊魂たちは一体どうなるのでしょうか? もし私たちが彼らに彼らの救霊に必要な真の聖寵を与えなければ、彼らはどうなるのでしょうか? これは明白な緊急事態の問題です。私達はこれに気づかなければなりません。従って、私は自分自身にこの業を継続することが出来るよう、数人の後継者を与えなければならないように思うのです。なぜならローマは暗黒の中にいるからです。それは現在ローマがもはや真理の声を聞いていないからです。

 どんな反響を私達の主張は受けたのでしょうか? 
 わたしがローマに対し「聖伝に従って欲しい。聖伝に立ち戻ってください。さもなければ公教会はその滅亡に向かう事になる。公教会を確立した人たちの後継者に選ばれたあなたたちは、公教会を築き上げなければならず、それを破壊してはなりません」と言いました。しかし、彼らは私たちの主張に対して耳を閉ざしました。

 私たちが受け取った最後のローマからの回答、最後の書類は、これを完全に証明しています。彼らは自らの誤謬の中に閉じこもっています。彼らは自らを暗黒の中に閉じ込めているのです。そして彼らは霊魂たちを棄教に導き、非常に単純にですが、聖主イエズス・キリストの天主性の壊滅とカトリックとキリスト教信仰の崩壊に導いているのです。

 したがってもし天主がそれを私たちに要求するなら、私達はこの業を継続するために協力することをためらわないでしょう。なぜなら私達には、天主がその業の破壊を望み、霊魂たちが放棄される事と、この事実によって公教会がもうその司牧者を持たないことをお考えになるとは考える事は出来ないからです。私達は全く例外的な時代に生きています。これを私達は理解しなければなりません。状況はローマにおいてもはや普通ではなく、非常に異常なのです。

 エコンに来た親愛なるシスター達によって発行されているSiSINoNo(1993年以降アンジェルスプレス社のアンジェルス・マガジン誌に記載されている)という新聞を読んでください。そしてここに彼女たちが成し遂げている仕事を継続してくれるよう励まします。この新聞はローマの状況について非常に正確な指摘を与えてくれます。ある信じがたい状況が、つまり歴史が未だかつてそのような事を経験した事のない状況があるのです。

 教会の歴史上、未だかつて、教皇が自ら、自由主義の大祭司になりながら、私が皆様にお伝えしたように、すべての宗教の万神殿のある種の守護者に転ずるのを見た事がありません。こんな状況が公教会内に未だ存在したか誰か教えて下さい。このような現実を前に私達は何をすべきでしょうか? 涙を流す、疑いなく、そうするべきでしょう。あぁ、私達は嘆きます。そして心は砕かれ悲しみに沈んでいます。私達はこの状況が変わるように、私たちの生命と血を差しあげることさえ辞さないつもりです。しかしこの状況を見ると、善き天主が私たちの心に置いたその業とはどのようなものかというと、このローマの暗黒、つまりローマ権威者達のその誤謬に留まる頑なさ、真理と聖伝への帰還を拒絶しているという状況はあまりにも酷いので、善き天主が懇願しているのは、公教会を存続させることであると私には思えるのです。従って、善き天主に対しこの人生の決算報告をする前に、私はいくつかの司教聖別を執行すべきであるように思います。

 親愛なる兄弟の皆様、そして親愛なる友人の皆様、私たちの心のすべてを以っていとも聖なる童貞マリア様に祈りましょう。私達は8月22日、聖なる童貞が私たちを助けてくださるよう祈願するためにファティマに行く事になっております。

 彼らは彼女の秘密を公開することを望みませんでした。彼らは童貞聖マリア様のメッセージを葬り去ってきました。このメッセージは、間違いなく今日起きている事を防いでくれる事になっていました。もし彼女のメッセージが知られていたら、私たちはそれ程遠くまで行かなかったでしょうし、このローマにおける状況は未だ今日ほどではなかったでしょう。教皇様たちは、いとも聖なる童貞のメッセージを公開する事を拒んで来たのです。童貞聖マリア様によって告げられたその数々の天罰は来ています。聖書のなかで預言された棄教は到来しています。これは確かに事実です。

 この決定的に異例な状況に直面させられて、私達もまた異例な措置をとらなければなりません。
 いとも親愛なる兄弟の皆様、いとも親愛なる友人の皆様、この御ミサの間、私達は特別に聖なる使徒達、公教会の守護者たちなるペトロとパウロに、私たちが彼らと彼らの後継者達の業に継続するために、私たちを啓発し、助け、私たちに剛毅と知恵を与えてくださるように祈ります。

 誰よりもまず、いとも聖なる童貞マリア様にこれを祈願しましょう。そしてイエズスとマリアの聖心に対し私たち自信を、私たちの家族達、私たちのいくつもの都市を奉献しましょう。
 聖父と聖子と聖霊との御名によりて アーメン

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