2007年12月27日木曜日

ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話(1987年9月27日)

アヴェ・マリア!
 兄弟姉妹の皆様、 1987年9月27日、ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話をご紹介します。
1987年9月27日、ルフェーブル大司教様のアンシーにおける講話
(フランス語からの翻訳:トマス小野田圭志神父)

(これは既に Credidimus Caritati にて発表されました。)

Conference of Archbishop Lefebvre at Annecy (France) on September 27, 1987.

 淑女、紳士の皆様、
 私はこのご招待に与り大変うれしく思います。この頃ではあまり多くの講話会をすることはありません。何故なら、私の声を聞かなくとも、皆さんが必要とする現在の危機と私たちが今体験している問題に関して全ての情報は、約二年前にした出版物を通して手にすることが出来ると思うからです。
 私は「迷える信徒への手紙 --- 教会がどうなったのか分からなくなってしまったあなたへ --- 」を出版しました。この本はかなり版を重ね、私たちの態度、私たちの立場、ローマと私たちとの関係を理解するのに困難を感じている人々のため、教会の危機をよく知らない人々のために書かれました。この本の中に、これは比較的に読みやすい本だと思いますが、この本の中に皆さんが抱く疑問、或いは皆さんのお友達や知人がいわゆる「エコンの問題」に関して抱く疑問に対する答えがあります。

 ところが最近では危機は発展しています。ハッキリとこう言わなければならないのですが、より重大により悲劇的になっており、私たちの戦いの深い理由、定義するのがかなりデリケートで把握するのがデリケートな理由を強調するのが大切であると思われました。哲学的な用語や神学用語に慣れていない人々にとって、私たちが何故第二バチカン公会議の幾つかの文書に反対しているのか良く理解することは容易なことではありません。第二バチカン公会議の文書とは、例えば信教の自由に関する宣言とか『現代世界憲章』のことです。決定的に問題となるのは、これらの議論の余地のある二つの公会議文書ではありません。とどのつまり、それはかなりデリケートな問題で、自由主義(リベラリズム)の問題です。

 教会の現状況の問題をよりよく理解しようとしている全ての人々にとって、新しい本を作るのが良いだろうと思ったのです。これが「彼らは主を退位廃冠させた」(Ils L'ont decouronne)という本で最近私たちがしたことです。

 私はこの題名が十分意味深いと思います。「彼らは主を退位廃冠させた」(Ils L'ont decouronne)。
 「彼ら」とは誰のことでしょうか? 皆さん、彼らとは教会の聖職者達です。教会の聖職者達は、誰を退位させ廃冠させたのでしょうか? 彼らは私たちの主イエズス・キリストを王座から退位させ、その王冠を取り去ったのです。はい。私たちの主イエズス・キリストをです。これは極めて重大なことです。
 だからこそ、正にそれが理由で、私たちはこの本にこの題をつけたのです。何故ならこれが真理であり、これが私たちの闘いの最も深い理由だからです。

 私たちの抵抗の深い理由、それはラテン語の問題ではありません。それは司祭が着るスータンの問題ではありません。典礼の二次的な典礼様式の問題ではありません。信仰の問題です。
 私たちの主イエズス・キリストが天主であるということの信仰、それが問題になっているのです。
このことは私たちにとって最も重要な点です。

 私は7月14日、ラッツィンガー枢機卿との最後に会話をしたときにこのことを言う機会がありました。私は、私たちの信教の自由(第二バチカン公会議の『信教の自由に関する宣言』の文書)に対する反論にたいして、枢機卿がした答えに私たちの答えを与えるためにこの会話に臨んだのでした。枢機卿は、以前、私たちに反論を書くように要求しました。そこで私たちは140ページからなる小論を書きました。そして枢機卿は私たちの反論に、綿密なやり方で返答しました。そこで私たちはその返答に対する答えを作り、7月14日にラッツィンガー枢機卿に持っていったのです。そして、私たちは枢機卿が信教の自由を定義するその定義のしかたに同意することが出来ないと言うためでした。同意できません。
 何故なら、その理由を説明して私は枢機卿に言いました。「ご覧下さい、たとえ枢機卿様が私たちに多くのことを与えようとされていても、ある意味で多くの特権を、聖伝のミサを捧げる特権、1962年のヨハネ二十三世教皇の典礼書、1962年版の典礼書を守る特権を与えようとしても、私たちの神学校がそのまま続くことが出来るようにしてくれたとしても、私たちはそれでも協力するのが難しいことでしょう。大変難しいでしょう。何故なら、私たちは同じ方針し従っていないからです。あなたは、第二バチカン公会議以後、私たちの主イエズス・キリストの社会統治が減少するように働いています。あなたは、市民社会を、国家を非キリスト教化することを望んでいます。(それこそ彼らが現実にしていることです。)」

 ご静聴の皆さん、よくご存じの通り、私がすることが出来たこの講話会のことをマスメディアで読むことが出来たのならば、よくご存じでしょう。新聞で読みましたでしょう。イタリアの驚くべき例を読んだことでしょう。聖座が自らイタリア政府に、イタリアがもうカトリック国家ではないように、宗教に関して中立であれと求めたのです。
 昨年の3月、イタリアの政教条約に関する議論があったとき、聖座はイタリア政府と、社会主義政府と同意の署名をしました。これによって、今後は政府もイタリアも排他的にカトリックではなくなる、ということになりました。カトリック教について、カトリックの宗教は国家によって公式に認められた宗教ではなくなり、イタリア国家は宗教に関して中立にならなければならない、従って、その事実から、その領土内に全ての宗教を受け入れなければならなくなりました。そしてこの行為は、聖座によって要求されたのです。このことを頭の中に良く入れておかなければなりません。イタリア政府ではなく、聖座によって要求されたことだったということです。
 同じことはスペインにもありました。南アメリカの全てのカトリック国家についても同じです。アイルランドでもそうです。スイスのカトリックのカントン(州)でもそうです。カントンは各自の憲法を持つスイスの国々です。これらはみな、聖座がその政府へ要請して国家が厳密にカトリックであることは、公式にカトリック国家であることは、もはや受け入れられないとしたのです。

 私はそのことについてヨハネ・パウロ二世教皇様と話す機会がありました。この謁見はもう8年、9年前になります。何故なら1978年に教皇に選ばれ、1978年の11月に謁見したからです。その時私は教皇様にこう言って説明しました。
「聖下、教会が社会においてもう私たちの主イエズス・キリストの社会統治を追求しなくなってしまい本当に驚いています。」
 私は教皇様に(スイスの首都)ベルンの教皇大使と私との会話の例を出しました。この会話は私の書いた本の中で読むことが出来ます。)
 ベルンの教皇大使に私は会う機会があり、教皇大使は自分がスイスの司教たちに圧力をかけてカトリックの州(カントン)が投票するように、憲法からカトリック州であることを放棄するように国民投票させたと私に理解させてくれました。憲法本文にはこうあります。「例えばヴァレー州、フリブール州は、この州における唯一の公式の宗教としてカトリック宗教を認める。」
 これを廃止させなければならなかったのです。これは社会の非キリスト教化です。私は教皇様に言いました。
「ご覧下さい。プロテスタントの州(カントン)は何も変えていません。プロテスタントの州は今でも同じ憲法の文言を使っています。」
 スイスのプロテスタント州は“この州は公式の宗教としてプロテスタントの宗教を認める」としています。彼らは変えません。オランダ、英国、ノルウェー、スエーデン、デンマークなどではプロテスタントが国家の唯一の公式宗教として認められています。
 例えば、皆さんも事実を知っていますように、オランダの女王ジュリアナの長女はブルボン家のプリンスであるザビエルの息子の一人と結婚しました。しかし、本来ならジュリアナに王位継承権があるのにもかかわらず女王となることが出来なくなりました。ジュリアナがカトリック信者と結婚したからです。オランダにプロテスタントではない女王がいるのは考えられないということです。これは今でもそうです。
 デンマークでも同じことです。フランス人の青年がデンマークの王位継承権を持つプリンセスと結婚しました。しかしフランス人青年は、カトリックを背教してしまいました。デンマークのプロテスタントの女王と結婚するためにカトリックの宗教を捨ててしまったのです。何故なら、デンマークの女王がカトリックと結婚することは考えられなかったからです。

 良く見て下さい。何という違いでしょうか! プロテスタントの国々では、習慣になっているものは何らも変えようとはしません。問題外です。そのことを私は教皇様に申し上げました。
 そしてイスラム国家です。カトリック信者をイスラム国家の元首においてみて下さい。カトリック信者と共産主義国家の元首においてみて下さい。共産主義国家は党のための人間を望んでいます。共産党党員でない誰かが、共産主義ソビエトの元首になることなど考えられません。イスラム教徒のところに、カトリック信者の元首をおいてみて下さい。何が起こるか分かるでしょう。考えられないことです。つまり、真の宗教だけが、唯一の本当の宗教である私たちの主イエズス・キリストの宗教が、国家を持つ権利がない、つまり私たちの主イエズス・キリストが数世紀も統治したようにイエズス・キリストが統治するためのカトリックの国家を持ってはならないのでしょうか。

 私はこのことを何度も言いましたが南アメリカのコロンビアという国が司教たちの圧力の下で宗教的中立になったとき、その瞬間私はコロンビアにいました。司教たちの圧力の下で、とはコロンビアの司教会議の事務総長が私に言ったことです。私は彼のことをよく知っています。彼は私にこう言いました。
「その通りです。二年の間私たちはコロンビア共和国の大統領官邸に座り込みをして憲法の文章から "カトリック宗教が国家によって公式に認められた唯一の宗教" とうところを削除するようにしたのです。」
 これを変えるために、コロンビアの司教会議の事務総長が、コロンビア共和国の大統領官邸に座り込みをした? 私たちの主イエズス・キリストがコロンビアの王ではないようにするために?
 この削除が行われていろいろな演説があったとき、三つの演説がありました。私はコロンビアにいました。私はそれらの演説を新聞で読むことが出来ました。コロンビアの大統領の演説、教皇大使の演説、司教会議の代表の演説でした。
 カトリックらしい演説は大統領の演説でした。司教たちの演説は単に「私たちは第二バチカン公会議を適応させる、すなわち第二バチカン公会議の信教の自由の意味を適応する」というものでした。
 ところが教皇大使の演説はフリー・メーソンの演説でした。進歩、人間、文化。本物のフリー・メーソンの演説でした。
 大統領はその反対にこう言いました。「私たちはカトリックの宗教が私たちの国家において公式に認められた宗教として見なさないようにと要求されたので、大変に残念に思います、確かに私たちの国民は、この変化を極めて残念がるでしょうし、多くの国民は驚くことでしょう。しかしカトリック教会の要求に従って、私たちはカトリック教がコロンビア国によって認められた唯一の宗教ではなくなるということを受け入れました。しかし私が大統領としてあるかぎり、私はカトリック宗教がコロンビアに継続し、常に最高に敬意を受ける宗教としてとどまるように私は全力を尽くすことを約束します」と。
 大統領はカトリックの演説をしました。自分の社会、自分の国の非キリスト教化という行為への聖座からの圧力を残念に思いつつこの演説をなしました。それにしても、聖座が社会を非キリスト教化するように要求するとはやり過ぎのようです。しかしこれは今日バチカンが理解している信教の自由の原理に適うことなのです。

 そしてこれが7月14日にラッツィンガー枢機卿が私に自己弁護をして言ったことなのです。ラッツィンガー枢機卿が私に言った最初のことがこれです。
「しかし大司教様、社会はカトリックではあってはなりません。社会は宗教を持ってはなりません。何故なら社会は天主様の被造物ではないからです。何故なら市民社会というものは、家族が天主様によって作られたようには、天主様によって作られたわけではないからです。だから社会は宗教を持ってはなりません。ダメです。社会は宗教に関して無能なのです」と。枢機卿は私にこう言いました。「宗教に関して無能である」と。
 しかし、1500年の間何があったのでしょうか?コンスタンティノ大帝からフランス革命までの間、そしてその後もそうだといえますが、何が起こったのでしょうか? 教皇様たちは、諸侯たちに、王たちに、国家元首たちに、国民が信仰を守るように、無信心の侵略や無神論の侵略、セクトの侵略、全ての誤謬の侵略に反対して、国民の信仰を保護するように全力を尽くすようにと要求して止みませんでした。教皇様たちは王たちに懇願したのです。
 そして王の聖別があります! 王を聖別するという宗教儀式です。スペインの君主ホワン・カルロスは王として聖別されました。ホワン・カルロスは、言ってみれば教会の手から王冠を受け取りました。王のために捧げられた全ての祈り、全ての祈願文は正しく、王がカトリック教会に忠実であるように、王が信仰を守るように、王が信仰においてその信者と国民たちを守るように、と祈っていたのです。
 そこで私はこのことを枢機卿に言いました。「それなら、これらのこと全ては何を意味するのでしょうか?」と。
 枢機卿の答えはこうです。「ああ、そうですね。でもこれは特別の事情でのことです」と。

 1500年の間、特別の事情であって、今では私たちは福音を参照する、と言うのです。あたかも聖福音が私たちの主イエズス・キリストの王権に反対しているかのようです。ウソのような話です。彼らは社会の非キリスト教化を望んでいます。しかし社会の非キリスト教化とは、フリー・メーソン的であり、フリー・メーソンの原理です。
 フリー・メーソンは常にそのことを目的をしてきました。社会の非キリスト教化。この社会の非キリスト教化に付け加えて、良心の非キリスト教化があります。まさにこれが信教の自由です。誤った信教の自由、リベラルな信教の自由です。良心を非キリスト教化するとは、良心が自由であるということです。各人がそれぞれの良心を持つということです。従って、各人が(自分の好みに合わせて)自分の宗教を持つことができるということです。
「あなたは仏教徒になりたいのですか、仏教を望むのですが、大変よろしいことです。あなたはイスラム教を望みますか、素晴らしいことです。あなたはキリスト教を望むのですね、なおさら良いことです、などなど。」各人が自分の好きな宗教を持ち、誰も何も言えない。

 では真の天主である私たちの主イエズス・キリストの掟はどうなってしまうのでしょうか? 私たちの主イエズス・キリストは、私たちが主に従順であるようさせる権利が、私たちに命じる権利が無いのでしょうか? 私たちの主は言いました。「信じる者は救われる。信じない者は滅ぼされる」と。イエズス・キリストは、すべての人間の良心に、全ての良心にこう言ったのです。イエズス・キリストは「信じないキリスト者は」とも「信じない私の弟子達は」とも言いませんでした。イエズス様は「信じない者は」といったのです。つまり全ての人間、誰であれ私たちの主イエズス・キリストを信じない者は、滅ぼされると言ったのです。私たちは自由ではないのです。自由ではありません。
 良心が自由になると、各々の良心が好みの宗教をもつ自由があるなら、国家は、それぞれ個別の宗教を持つ私たちの各人に「社会的自律空間」と呼ばれるものを与えなければならなくなります。「あなたはイスラム教徒ですか?あなたには社会的自律空間を持つ権利があります」と。
 この「社会的自律空間」とは、彼らの使う正確な言い回しです。彼らが私たちにした回答の中で使った言葉です。この「自律空間」とは、何を意味しているのでしょうか? これは社会において、イスラム教徒は、彼らの学校、ラジオ、新聞、礼拝、自分の考えを広める権利などを持つ、ということです。この「社会的自律空間」での唯一の制限は、公の秩序です。しかし、公の秩序とは、好きなように定義することが出来ますから(結局は無制限であり)、全くの自由です。
 従って、社会の社会秩序において、一夫多妻も存在する権利を持つことになります。何故ならこれはイスラム教の一部ですから。プロテスタントにとって、堕胎も避妊も離婚も社会的自律空間の権利を持ちます。何故ならこれらは彼らの宗教の一部ですから。これが私たちが今生きている世界です。
 「信教の自由」という原理によって、カトリック的に理解された信教の自由とは何だったのでしょうか? 全ての教皇様たちは第二バチカン公会議までこのこの意味において使っていました。本当の信教の自由とは、市民社会において真の宗教が実践し行使することの出来る自由、真の宗教のもつ自由、ということです。真の宗教が市民社会における行使の自由とは、(今の理解のしかたとは)全く別のものです!
 (カトリック的理解における真の)信教の自由とは、全ての諸宗教の自由ではありません。全ての考え、全ての思想・道徳の自由ではありません。全く違うものです。私たちは今、正に、自由主義(リベラリズム)のまっただ中にいます。これは極めて大変なことです。
 これは私たちの信仰を攻撃します。私たちの主イエズス・キリストの王冠は奪われました。この言い方は決して言いすぎではないと保証します。私たちの主イエズス・キリストはいったい誰によって王冠を奪われたのでしょうか?もう一度言いますが、教会の聖職たちによって、司教たちによって、ローマによって王冠を奪われたのです。ありのままをそのまま言わなければなりません。ローマが教皇大使に、全ての教皇大使に奨励して、国家がもはやカトリックではないように、中立であるように要求するようにさせたのです。
 その結果は? その結果は、ありとあらゆる想像するかぎりのセクトが繁殖したことです。これらのセクトが所有するお金を持って、とくにアメリカのセクトは世界中どこでも広がっていきました。皆さんもご存じでしょう。非常にしばしばいろいろなところでエホバの証人、アドヴェンティスト、モルモン教、などなどの建物が建てられています。今ではどこでもそうです。
 そのために以前、マスメディアは六千万の(ラテン)アメリカ人が、1968年以後、つまり第二バチカン公会議以後、カトリックからセクトに移ったことを報道したことがあります。
 この時以来、正に、カトリック国家を廃止し、聖座がカトリック国家に要求して、全ての宗教に門戸を開くようにさせたのです。その結果、セクトが繁殖したのです。この通りです。これにより六千万の南アメリカ人が背教したのです。セクトに入信するためにカトリック宗教を捨てたのです。これは公式の記録です。何という巨大な数でしょうか!
 もしもヨーロッパで計算すると、数百万のカトリック信者らがイスラム教に、或いは実際上の無神論に移ってしまっている、あるいは宗教を捨ててしまったのをみて驚くでしょう。数百万人もの多くの人々が!
 見て下さい。社会と良心の非キリスト教化の結果です。だから私たちは同意することが出来ないのです。私が枢機卿に言ったのはこのことです。出来ません。私たちは、その反対です。私たちの全存在、私たちの全ての命、私たちの全理想、私たちが持つ全ての手段、私たちがする全ての説教、私たちが建設する全神学校、私たちがたてる全ての修道院、それらは全てが全て、私たちの主イエズス・キリストが統治するためです。願わくはイエズス・キリストが統治せんことを! 
 私たちはこれを天にましますの祈りの中で祈っています。御国の来たらんことを! これこそ私たちの命です。
 枢機卿様、あなたはイエズス・キリストが減るようにさせています、イエズス・キリストの統治について語らないようにさせています、私たちの主イエズス・キリストの社会統治とその御国について語らないようにさせています。

 厳密に言えば、個人の良心において、厳密に言えば家族において、イエズス・キリストの統治はありうるかも知れない、しかし公にはあり得ない、と?
 何故でしょうか? 何故なら、枢機卿様、あなたはこれが誰かを間違っていることにするので怖ろしいからです。イエズス・キリスト公の統治が、ユダヤ教徒、イスラム教徒、プロテスタントの気に入らないからです。何故なら、エキュメニズムのためです。
 私たちは私たちの主についてあまり語りません。何故でしょうか? 私たちの主に対する敬意がもはやありません。だから至る所で十字架を取り去ってしまいました。
 バチカンにおいてさえ、バチカンの謁見の間でさえです! 今では全ての十字架像を取り除き、何の意味もない絵を飾るようになりました。現代絵画の様式の絵です。これが何を意味しているのか誰も知りません。絵の具を筆につけてチョコチョコっと書き殴ってあるやつです。何の意味なのかよく分からない絵です。
 象牙で出来た素晴らしい十字架像や、極めて精巧に出来た大きな十字架像、「誰それの王からの寄贈」「どこそこの国からの寄贈」「某君主からの寄贈」などと書かれたプラカードがついている十字架像などは全て取り除かれてしまいました。昔は、謁見を待ちながらこの素晴らしい十字架像を鑑賞して眺めていることも出来ました。素晴らしくてうっとりしていたものです。しかしそれらは全て取り除かれてしまいました。私はバチカンで尋ねてみました。私を受け付けてくれた秘書に尋ねてみました。
「何故美しい十字架像を取り除いてしまったのですか?」「分かりますか、今ではユダヤ教徒、イスラム教徒、などを受け付けているんです。彼らの気に入らないんです。分かりますか。」
 私たちの主を見ることが彼らの気に入らない、だから十字架像を全て取り除いた!

 これが私たちが今どこにいるか、ということです。彼らは私たちの主を外に追い出し追放しているのです。近代の教会建築を見て下さい。祭壇の上にはもはや十字架像がありません。十字架像のようなものはまだありますが、何という十字架像でしょうか! 非常にしばしば怖ろしく醜いもので、祭壇の脇に置かれています。脇に置くのはどこに置いたらいいか分からないからです。私たちの主への尊敬はもはやありません。十字架像への敬意はもうありません。
 私たちの主イエズス・キリストはもう統治していません。私たちの主にはもはや統治する権利がないのです。それでも私たちは同意しません。これに賛成できません。これが私たちのドラマです。ここに現在のローマの態度に対する私たちの立場があるのです。

 そして(今から言うことは)アシジにおいて起きたことについて話すのではありません。京都で起こったことです。
 アシジへ諸宗教の代表者が集まったことも、厭わしいことでした。教皇様御自身も十字架像を身につけていませんでした。教皇様は十字架を胸に掛けていませんでした。教皇様は上着で十字架を隠していました。ユダヤ教徒やイスラム教徒らの目とそこにいた全ての異教徒の目、教皇様の周りにいた人びとの目を傷つけないように。
 教皇様には十字架の印がもはやありませんでした。教皇様が十字架を掛けていたのかいなかったのか私には分かりません、とにかく教皇様は白い上着を着ていました。写真で見ることが出来ます。教皇様の十字架像も教皇様のキリストも見えません。
 京都ではアリンゼ枢機卿(Cardinal Arinze)がバチカン代表者たちの座長となっていました。アリンゼ枢機卿様は私がよく知っているナイジェリアの司教です。何故なら、彼の故郷ル・ビアフラ(le Biafra)を宣教したのは聖霊修道会の私たちの神父たちだからです。アリンゼ枢機卿はどこから来たのでしょうか? 私は彼とその現地で会ったことがあります。確かに彼は立派な人であり、信仰の人です。しかし、彼は聖座によって他の二十名と共に送られてきました。それは京都の諸宗教の議会に聖座を代表するためでした。アリンゼ枢機卿には第四番目の場所が与えられました。まず、日本人、つまり日本の宗教、次に仏教、次にイスラム教、それからカトリックです。

 私たちの主は神々の第四番目、礼拝される神々の四番目なのです。私たちは今どこにいるのでしょうか?何世紀に生きているのでしょうか?私たちはどのような環境に生きているのでしょうか?一体何がまだ私たちの主イエズス・キリストを信じているのでしょうか?もしも唯一の天主しか存在しないとするなら、(その他の神々を信じて同時に)私たちの主イエズス・キリストが天主であると信じることは不可能です。従って、天主である私たちの主イエズス・キリストしか存在しないことになります。これを曖昧には出来ません。それは不可能です。私たちが死ぬとき、誰が私たちを裁き給うのでしょうか。誰が私たちを天国に受け入れてくれるのでしょうか。誰が私たちを排斥し地獄に落とすのでしょうか。私たちの主イエズス・キリストです。イエズス・キリストです。イエズス・キリストが私たちを想像し給うたのです。イエズス・キリストが私たちを存在において保ち給うのです。イエズス・キリストこそが十字架の上で私たちを救い給うたのです。イエズス・キリストこそが、天国で私たちを受け入れ給うのです。イエズス・キリストが私たちに栄光を与えるのです。イエズス・キリストこそ私たちを喜びのうちに永遠に保ち給うでしょう。その他ではありません。聖父と聖霊と共に一致したもう天主以外のものを探してはなりません。もちろん、聖三位一体であり、唯一の天主しかましません。二柱の天主があるのではなく、唯一の天主のみがまします。

 それではこれらの礼拝されている神々は、何の意味もないのです。全く何でもないのです。つい最近、カルメル会修道女が、私たちのカルメル会修道女ではなく、--- 幸いなことに --- こう言うのです。「しかし、大司教様、これらの宗教はみな同じ天主に祈っています。」
 カルメル修道女の院長が私にこう言ったのです。どこまで躓きが広がっているか見て下さい。この集会の躓きが。修道女でさえです。何故なら、これは良いカルメル会修道女だからです。彼女は真の天主と偽りの神とを区別することが出来なくなってしまっています。もう区別もありません。「しかし、大司教様、彼らはみな同じ天主に祈っています」と。しかし、ユダヤ教徒は私たちの主イエズス・キリストに祈るのでしょうか? ユダヤ教徒が? イスラム教徒は私たちの主イエズス・キリストに祈るのでしょうか? 仏教徒は私たちの主に祈るのでしょうか? いいえ! いいえ! 祈りません。(こう質問すると)彼らは何と答えて良いか分かりません。もちろん、明らかに彼らは私たちの主に祈らないばかりか、彼らは私たちの主に対立しています、全面的に反対しています。
 彼らは反キリスト教徒です。イスラム教徒と特にユダヤ教徒が反キリスト教徒です。この二つの宗教はユダヤ人によって創立されました。イスラムはユダヤ教を起源にしています。私たちの主イエズス・キリストを十字架につけた人びとに由来しています。彼らがイスラムを創立し形づくったのです。そのためにイスラム教徒の宗教儀式は、ユダヤ教の儀式と良く似ています。こうして彼らは形づくられたのです。私たちの主イエズス・キリストに対立するように。同じように、ユダヤ教徒も私たちの主イエズス・キリストを信じていません。私たちは使徒達とユダヤ人の全ての人びとに感謝しています。それは天主がご存じです。私たちの主はユダヤ民族から生まれました。もちろんです。聖母マリア様もそうです。ユダヤ人たちを通して私たちに贖いの聖寵が伝えられたのです。ただし回心し(て私たちの主を信じ)たユダヤ人です。彼らは回心したのです。ただし、それは私たちの主に反対し私たちの主を十字架につけた人々ではありません。
 私たちの主に反対する人々は私たちの主の神秘体、つまりカトリック教会を十字架に付け続けています。幻想を抱いてはなりません。明らかです。

 ではローマでは? ローマで何が起きているかもう理解できません。大きな神秘です。大神秘です。本当にはかり知ることの出来ない神秘です。
 そこでこの神秘を前にして、お分かりになるでしょうか、私たちの主の王冠を奪う信教の自由の断言を前にして、この間違って定義されたリベラルな自由を前にしているのです。--- 何故なら同じ言葉は使っていますが別の定義を与えているからです --- 信教の自由は全く別のやり方で定義されているからです。
 私は皆さんにカトリックの定義を与えましょう。まず彼らにとっては「宗教に関する強制の不在」です。「強制の不在」「宗教に関する」。ここには真理ということが言われていません。ここでは真理や誤謬との関係がもはやありません。だから(この定義では)どこから始まってどこで終わるのか分かりません。不正確です。「宗教に関する強制の不在」、これは(カトリックの定義する信教の自由とは)全く別物です。全く違っています。彼らもそのことを言っています。そのことを隠そうとはしません。彼らは言います、ああ、そうそう、新しいことです、革新的なことです、その通りです、新しいことだと認めなければなりません、と。
 カトリック教会は常に新しいことには反対でした。また教会は常に明確な定義に賛成していました。曖昧でハッキリとしないどのようにも意味がとれる、いい加減なこという定義には反対でした。
 ミサ聖祭について、彼らはパウロ六世の総則の第七条で別のしかたで定義しました。彼らはミサを、トリエント公会議がしたのとは別のしかたで定義しました。これもまた新しい定義です。しかし彼らは同じ用語を使っています。
 「教会」、彼らは「教会」という用語を使っています。しかし教会が常にそう定義してきたのとは別の定義を与えています。私たちが神学を学んだときに私たちの神学で定義されていたのとは別のしかたで定義されています。以前は教会はこう定義されていました。「霊魂の救いのためにそれを信じ(adherer)なければならなずその肢体とならなければならない、目に見える・位階秩序を持つ・君主制の社会」と。ところで今となっては「霊魂の救いのために」などと定義にはいるでしょうか? そんなのはもうありません。終わってしまいました。新教会法を見て下さい。ヨハネ・パウロ二世教皇が新教会法を提示するためにした憲章、指針書を見て下さい。そこには教会の新しい定義があります。それによれば、教会とは「交わり、エキュメニカルな交わり」となっています。これはどういう意味でしょうか?この交わりはどこから始まるのでしょうか? どこで終わるのでしょうか? 交わり? 何のことでしょうか? これが定義です。もう「霊魂の救いのためにその肢体とならなければならない、目に見える・位階秩序を持つ・君主制の社会」ということではありません。この定義では少なくとも明快でした。例えば「位階秩序を持った」これは聖職者と平信徒とがいるということです。教会の構造を良くみることが出来ます。明確に。とても明確です。

 ところが「エキュメニカルな交わり」とは、私はこれが何を意味するのかよく分かりません。こうすればもちろん、誰も彼も教会の中に入れることが出来ます。しかし教会がどこから始まってどこで終わるのか(教会の内と外の境が)分からなくなります。こんなことはあり得ません。このような曖昧で意味が何とでもとれる雰囲気の中で生きていくことは出来ません。
 そしてこれらは全て教会の新しい態度を始めるために望まれたことでした。この「エキュメニカルな態度」を。これは絶対的に理解することが出来ません。これはもう宣教の態度ではないからです。極めて重大なのはこのことです。何故ならこれは教会の宣教精神を崩壊させたからです。
 ではこの列挙した事柄を前に、私が皆さんに少しお見せしたこと、この新しい教会、第二バチカン公会議でそう提示された教会の新しい態度を前に、私たちの内で何名かが公会議でこれに反動しました。このことについては私はしばしば説明しました。(既に公会議の時から)私たちは教会のこの分裂を、教会が引き裂かれることをあらかじめ見ていました。いろいろな新しいことのために、リベラルな意味で理解されたこの信教の自由のために、私たちの主が王として退位させられたために、社会と良心の非キリスト教化のために、(それが起こったの)です。私たちは劇的な事態が生じるだろうとあらかじめ予見していました。それ以外にはあり得ません。新しい教会、教会の伝統的な原理と反対する新しい原理。

 私が所属していた第二バチカン公会議中央準備委員会の中で、ベア枢機卿(Augustin Cardinal Bea, S.J. †)とオッタヴィアーニ枢機卿(Alfredo Cardinal Ottaviani †)との対立の中で、私たちはこのことが具体的になっているのを見ました。

 公会議の直前、最後の準備会合で、ベア枢機卿とオッタヴィアーニ枢機卿とで激しい対立があったのです。ベア枢機卿はリベラルな意味での信教の自由を擁護していました。オッタヴィアーニ枢機卿は伝統的な信教の自由を擁護していました。もちろん、オッタヴィアーニ枢機卿が正しかったのです。明らかです。オッタヴィアーニ枢機卿は全聖伝を代表していました。するとベア枢機卿は立ち上がってオッタヴィアーニ枢機卿に指で指し示してこう言ったのです。「枢機卿、私はあなたの信教の自由の概念に反対です!」と。
 私たちは顔を見合わせました。この委員会に七〇名の枢機卿が臨席しており、二〇名ほどの大司教と司教がいました。私はこの委員会に、西部アフリカ司教評議会の議長として参加していました。その他にも修道会の四名の長上がいました。以上がこの委員会の正会員で、その他に委員会には所属しない顧問たちも参列していました。神学顧問たちは聞いてノートを取るだけです。普通、会合は教皇様が司会をしました。今回は、ヨハネ二十三世はそこにいませんでした。私たちは互いに顔を見合わせました。二名の枢機卿が、基礎的な問題で互いに対立し反対して立ち上がっていたのです。これはもう一度言いますが、信仰の問題でした。私たちの主が社会を統治しなければならないのか、あるいはもはや統治してはならないのか、イエスかノーかの問題だったのです。
 そこでパレルモのルフィニ枢機卿(Cardinal Ruffini)が立ち上がり、こう言ったのです。「よろしい、かくも重大な問題について、私たちの二名の同僚兄弟が互いに反対して立ち上がっているのを見るのは大変見苦しい。私たちはこのことを上位の権威に申し立てなければならないでしょう」と。
 枢機卿たちよりも上位の権威とは、それは誰でしょうか?明らかに教皇です。些かのためらいもありません。しかしヨハネ二十三世教皇はそこにいなかったのです。ルフィニ枢機卿はこの議論をやめさせたかったのだと思います。問題を消去して「私たちはこのことを教皇様に申し立てよう」と言ってそれで終わらせようとしたのです。しかし、ベア枢機卿は聞く耳を持ちませんでした。ベア枢機卿はこう言いました。「ノー、ノー、ノー! 私は投票を要求する。」
 そこで私たちは投票に移りました。私たちは半数が特にオッタヴィアーニ枢機卿に賛成を投じたことを知りました。一般的に、南アメリカ人、スペイン人、ラテン人、イタリア人やローマの人々は皆、ベア枢機卿(ママ)に賛成していました。
 私たちは七十名の枢機卿たちの一団が、基礎的な問題で分裂しているのを目の前にしたのです。しかも第二バチカン公会議の前夜に。公会議がどのようになっていくか分かるでしょう。ウソのような出来事です。私たちは公会議の直前であり、信教の自由という重大で大切な問題について、二人の枢機卿が対立しているのです。
 そして枢機卿団も真っ二つに分裂しています。公会議では一体何が起こるのだろう、と心配になります。想像できますか? 第二バチカン公会議はこの闘いのイメージでした。第二バチカン公会議は四年間のケンカ(bagarre)でした。しかしこのことを認めなければなりません。教皇様は革新派の側についていました。保守派の方ではありませんでした。全ての問題はここにあったのです。もしも教皇様が「私は保守派に賛成する」といえば問題は起こりませんでした。聖伝は以前のように続いていたことでしょう。
 教皇様はその反対に、革新派に見方をしました。ベア枢機卿の側にたちました。もちろん、勝ち誇ったのは革新派たちです。リベラル派が勝利したのです。これが教会の劇的な大事件です。皆さんは「彼らは主を退位廃冠させた」(Ils L'ont decouronne)の本の中で読むことが出来ますが、もしも皆さんがそれを読む機会があれば、教皇様たちが自由主義について言っていること、十九世紀の全ての教皇様たちと二十世紀の最初の半世紀の間教皇様たちが口をそろえて言うことを読むことでしょう。教皇様たちは、今現在教会によって公式に認められたことを排斥しているのです。これを理解するようにしてみて下さい!
 私たちは今、絶対的に信じることの出来ないような問題を前にしているのです。彼らがどうやって公会議で勝利を手にしたのか? ハッキリ言わなければなりません。彼らはすぐに主要な地位を占めた、命ずる地位を得たのでした。それは簡単です。政府の場合と同じです。社会主義者達が政権を取ると、すぐに彼らは社会主義に好意的ではない人々をすぐに更迭し、社会主義を実行するのです。これは明らかです。バチカンでやったこともそれです。リベラル派が勝つとすぐにバチカンのクリアにいた聖職者達は排除され、それはローマ・クリア(ローマ諸聖省)と、聖伝をすこし強く支持している司教たちのいる全ての司教区についてそうでした。これらの人々はみな排除されました。多くの司教たちは、教会で起こっていることを見て辞任していきました。彼らはあまりにも動揺し、あまりにも心苦しく思ったからでした。辞任する司教たちには多くの理由がありました。
 私たちは250名で闘っていました。これが Coetus Internationalis Patrum と呼ばれるもので、「公会議保守派教父たちの国際的会」という意味です。私たちは闘いました。この会には会長が任命されていました。しかし告白すれば、仕事をしたのは会長ではありませんでした。会社などではよくこんなことが普通です。事務総長や秘書が仕事をします。事務総長はブラジルのディアマンティナ(Diamantina)の大司教シガウド大司教(Archbishop Geraldo de Proenca Sigaud, S.V.D. †)でした。 シガウド大司教は、ドイツで創立された神言会の会員で、ドイツ語を流ちょうに話しました。シガウド大司教は、デ・カストロ・マイヤー司教(Bishop Antonio de Castro Mayer †)やカルリ大司教(Archbishop Luigi Maria Carli †)とともに、公会議の最中、常に活動的でした。

 そこにいる私たちは4,5名でした。そして(リベラル派と)闘おうと試みていました。何故なら私たちには破局が来るのが分かったからです。
 分かりますか? もしも自由主義が本当に凱旋してしまうと、教会に何が起こるだろうか、ということが? そんなことがあれば教会は崩壊してしまいます。それはフリー・メーソンとの妥協です。全てのこととの妥協です。社会主義、共産主義、そして全ての誤謬との妥協です。妥協をし始めるのです。もう(誤謬と)闘うことをやめてしまうのです。そうでしょう? そうなったら「教会はもう宣教的(カトリックに回心させようとする)ではない」と言うようになるでしょう。ちょうどエイズのように、教会を内部から瓦解させるこのエキュメニズムが出るでしょう。
 私はこのことを自分の説教中に何度も言いました。教会は今日エイズにかかっている、と。私は医者ではありません。しかしエイズにかかると、私たちを毎日のように攻撃している様々な病気に対抗する体内の全ての抵抗力がなくなってしまうようです。私たちの組織を攻撃する全てに対抗する力が。血液や体の機能は、私たちの体を破壊しようとして来る全てに対して抵抗します。つまり、エイズという病は、体の病に対する抵抗力の消滅です。そこで、(エイズにかかると)結局は体が分解してしまうのです。何故分解するかというと、何故なら抵抗するものが何もないからです。抵抗力がなくなるからです。
 それと同じことです。これと同じことが教会に起こっています。抵抗力がなくなってしまいました。誤謬に対して悪徳に対して、そして教会内にある全ての病に対して、もはや抵抗力はありません。
 そのために教会は今すこしずつ少しずつ腐敗しているのです。教会は分解しつつあります。ちょうどからだが腐って風化していくようです。これは極めて大変な事態です。そこで、私たちは抵抗しようと試みているのです。もう一度、対抗しているのです。

 抵抗していた人々のほとんどは排除されてしまいました。一つ例を取りましょう。ダブリンの大司教の例です。私は彼のことを大変よく知っていました。彼は私の友人の一人でした。彼は同時に聖霊修道会(Congregatio Sancti Spiritus sub tutela Immaculati Cordis Beatissimae Virginis Mariae)の会員の一人でしたし、私はその修道会の総長を6年間務めました。私の言うのは、マッケイド大司教(Archbishop John Charles McQuaid, C.S.Sp. †)のことです。マッケイド大司教は辞任届けを出し、その二週間後に亡くなりました。大司教様は悲観して亡くなってしまったのです。悲痛のために亡くなったのです。
 大司教は、全身全霊を込めてローマにピッタリと愛着していました。全霊を込めて教皇様に忠実に密着していました。ところが彼は教皇様と謁見することを拒否されたのです。大司教はいわばローマから追放されたように感じました。大司教はこれを堪え忍ぶことが出来ませんでした。彼の健康は崩れてしまったのです。このような司教たちがどれ程、どれ程多くいたことでしょうか。何故なら、彼らは聖伝に愛着していたからです。
 私はもう一つ別の例を挙げたいと思います。マドリッドの大司教、モルシジョ(Archbishop Casimiro Morcillo Gonzalez †)大司教の例です。
 モルシジョ大司教は第二バチカン公会議の事務局の一人でした。事務局の人々はそう多くはなく、公会議には五,六名でした。
 第二バチカン公会議の事務局の員は第二バチカン公会議後すべて枢機卿になりました。ただしマドリッドの大司教モルシジョ大司教だけは別でした。彼も当然枢機卿になって然るべきだったのにもかかわらず、そうでした。何故でしょうか? 何故なら彼は保守派だったからです。何故なら、彼は自分の考えをしっかりと保っていたからです。
 そこで彼も悲痛の内に亡くなりました。もう望まれない人(persona non grata)になってしまったということを、人々が拒否する避けるべき人となったことを感じ取ったのです。その他の司教たちが皆、枢機卿になっているのに、自分だけは枢機卿にならず、枢機卿になりないということを感じ取ったのです。彼はとても謙遜な人間でした。彼が枢機卿になりたかったということではありません。しかしそれにもかかわらず、許されないことなのです。(このような処置に)反対する人々に、公会議の事務局の司教たちが皆枢機卿になっているのに何故マドリッドの大司教が枢機卿にならないのか理解できないスペイン人たちに、こう説明をしていました。私はこう説明を聞かされました。「マドリッドは枢機卿のいる司教座ではないから。枢機卿の司教座は、スペインの主席司教座であるトレドで、マドリッドではないから」と。
 たしかにトレドには枢機卿がいました。しかし待って下さい。私の故郷リール(Lille)では今まで一度も枢機卿がいなかったのに、司教を枢機卿にしました。それなら特別な司教座でなくとも枢機卿になることが出来るはずです。さらに、そのもっと良い証拠には、モルシジョ大司教が消え去ると、彼の後継に任命された大司教は、すぐにマドリッドで枢機卿になりました (Vicente Cardinal Enrique y Tarancon †)。

 つまり、人々は私たちにウソの説明を与えていたのです。そして何という枢機卿がモルシジョ大司教の後を継いだことでしょうか! 新しい枢機卿は、スペインで二重の婚姻を導入することに賛成だったのです。民法上の婚姻を望む人々には民法婚を、教会での婚姻を望む人々には教会での宗教婚を。カトリック信徒たちは、選択することが出来るとしようとしました。これがモルシジョ大司教の後継者のマドリッドの枢機卿が、スペイン、マドリッドでの枢機卿・大司教たちの会議で提案したことです。これの意味することは、つまり、伝統的な全ての人々に反対する本当の戦争があった、ということです。
 ですから、私がまだ狙われていても、第二バチカン公会議直後から狙われていたとしても、皆さんは驚くべきではありません。明らかです。もしもその時、まだ私に司教座があったとしたら、私もすぐに排除されていたことでしょう。明らかに。しかし私は聖霊修道会の総長であったので、一修道会の総長であったので、それはもっと難しいことでした。何故なら、私の進退は総長選挙にかかっていたからです。私自身が1968年に辞任を提出しました。何故なら、聖霊修道会が自己分解しつつあるのを見たからです。
 聖霊修道会は、全ての修道会に(パウロ六世)教皇が開催を要求した特別総会で、幾つかの提案にサインするように私に求めていました。全ての修道会は、公会議を適応させるために会議を開かなければなりませんでした。私が特別総会で過ごしたそのやり方を見て、全てが修道会内部がしっちゃかめっちゃかとさせているのを見て、私はこう言いました。
「こんなことでは、私は聖霊修道会の歴史において、私たちの修道会を実際上消滅させる文書にサインしたということで名前を残すことになるだろう。そのようなことは私は望まない。私はむしろ立ち去った方がよい、私の代わりに誰かがサインをするだろう、私は自分の修道会を崩壊させることにサインをしたくはない」と。
 そこで私は、修道者聖省にお願いして、総会に参列する義務を免除してもらいました。事務局員は私にこう言いました。
「もちろんです。その方がよろしい。今では第二バチカン公会議とともに、あなたの修道会の神父様たちが自分で修道会を組織する自由を与えることを知らなければなりませんからね。アメリカにでもちょっと旅行に行ってきなさい。そうしたら気が晴れるでしょう!」
 私は総長でした。私の任期は1974年までで、12年の任期で1962年から1974年まで総長として選ばれました。この特別総会は、1968年に開かれました。私はまだ総長であり、私は全総会を聖伝の方へと導びかねばなりませんでした。総長が全てをしていたからです。総長が委員会を任命し、全てについて話し合い、全てを指導していました。
 ところが突然、私は何でもなくなりました。私は最後の場所に身を置かざるを得なくなり、私はいかなる委員会のメンバーでもありませんでした。私は何でもなくなってしまったのです。彼らは私の代わりに3名の議長を望んでいました。それは出来ません。しかも聖職者聖省では、総長を助けようとしたでしょうか? いいえ! 「アメリカにでもちょっと旅行に行ってきなさい。そうしたら気が晴れるでしょう!」というだけです。・・・ 私は理解しました。もう何もすることがない、聖座は自分を助けてくれない、辞任するしかない、と。
 私は辞表を提出すると、もちろんすぐに受理され認可されました。彼らは私を聖霊修道会から排除できて大変喜んだのです。
 これが第二バチカン公会議後に起こった状況です。聖伝を求める人々にとってはとても辛いことでした。迫害でした。それはまだ続いています。皆さんは、そのようなケースを皆、知っていますね。いろいろな司教区のあなたたちの司祭らは迫害されています。何故でしょうか? 何故なら彼らが古いミサ聖祭を守っているからです。何故なら彼らがスータンを着ているからです。何故なら、彼らがまだすこしラテン語を使っているからです。何故ならあれだから、何故ならこれだからです。彼らは、最も小さな村であっても、ホンの小さな病院であっても、どこででも迫害されています。司祭がすこしでも聖伝を守ろうとすると、すぐさま司教によって狙われ、地方の聖職者達によって攻撃を受けます。ひどいことです。分かりますね。私は司祭たちが泣くのを、苦しみのあまり涙を流して泣くのを見ました。
 しかし、私たちが一体何をしたというのでしょうか? 私たちはただ単に、私たちがするようにと命じられたことをしていただけです。私たちが神学校に入学して以来、私たちは教わった通りにミサ聖祭をし続けているだけです。私たちは(このミサ聖祭で)叙階されました。私たちは同じやり方で祈りをしているのです。私たちは同じやり方で使徒職をしているのです。私たちは何も変えませんでした。するとどうでしょうか、突然・・・。以前は私たちはむしろ、自分たちの司教様たちから褒められていました。私たちは司教様たちから(そのままやり続けるようにと)励まされていました。今では突然、この公会議以後、私たちは悪人になりました。迫害を受けなければならない悪者になりました。司教区から排除されなければならない鼻つまみ者となりました。怖ろしいことです。ひどいことです。司祭達にとって辛いことです。
 最後に、聖霊修道会の数少ないアフリカ人司祭の一人が、聖伝のミサを捧げていました。彼は一度も新しいミサを捧げませんでした。彼はこう言いました。
「私はこの古い聖伝のミサで叙階されました。私は死ぬまでこの古いミサを守ります。何をしてもダメです。私は何も変えません。」
 そう言ってこの司祭はジャングルに留まりました。私のよく知っていた宣教師でした。彼はセネガルにいて、私がダカールの司教としていたとき、宣教師として働いてくれました。素晴らしい宣教司祭です。清貧で、アフリカ人としてジャングルの中で清貧に生活していました。現地人として現地の言葉を熟知していた素敵な宣教師です。
 彼は最近、ムラン地方(フランス)にいた自分の姪の結婚式のために来ていました。彼は姪の婚姻の儀式を執り行いました。彼は40年セネガルにいたのです。聖霊修道会のセネガル地区長はかれにこう言ったのです。
「あなたはもうセネガルに行ってはいけません。もう終わりです。」「何故でしょうか?私が何かいけないことをしましたか?」「あぁ! 何故ならあなたは聖ピオ五世の聖伝のミサを捧げているからです。」「ハイ、その通りです。私は聖ピオ五世のミサをたてています。何か悪いことでもしたのでしょうか?私のアフリカ人たちは、私のたてるミサが大好きで喜んでいます。私はいつもこのミサをたててきました。私はいつも同じミサをしてきました。何も変えませんでした。昔のまま続けています。彼らはとても喜んでいます!」「ノー!それはダメです!あなたはセネガルに行ってはなりません。」
 この宣教師は、心も体もこれらのアフリカ人たちを愛し、その村に愛着していました。そこで骨を埋めたいと願っていました。ところが! 彼は戻ることが出来なくなりました。私は、聖霊修道会の司祭たちから捨てられた彼が友人の一人のところにいることを知らされました。
 私は、かれが苦しみのために、悲痛のために、もうアフリカに戻ることが出来なくなったという苦悩のために癌にかかってしまったのだと本当に思っています。彼は3週間前に亡くなりました。私は、彼の結婚した2名の兄弟と2名の姉妹たちからの死亡通知を受け取りました。彼らは訃報にこう勇気を持って書きました。
「聖ピオ五世のミサを捧げ続けたために死亡」

 私は印刷された訃報にこう書かれたのを初めて見ました。「聖ピオ五世のミサを捧げ続けたために死亡」と。私は彼の妹に返事を書きました。こう書きました。
「何ということでしょうか。少なくとも、あなたは、このかわいそうな宣教師が亡くなった本当の理由を知っているのですね。素晴らしいことです。」
 彼女はこう返事を書いてよこしました。「大司教様、私は自分の兄がこれほど聖なる人であることを知りませんでした。私は彼が亡くなる前に、二日間看病しました。兄は死の床についていました。従って、兄は私のことなど気づきもしませんでした。兄はミサのことで頭がいっぱいでした。それに奪われていました。床につきながら、聖なるミサを捧げていました。兄は、ミサの祈りを最初から最後まで唱えていました。いつもの通り。兄は、死の床で、ホスチアを聖別し、自分で御聖体拝領をしていました。誰も兄を訪問しようとも、良い死を迎えるように助けようともしませんでした。兄の死の前日、兄は聖変化の聖別の言葉を唱え続けていました。繰り返し唱えていました。兄には私が見えませんでした。兄は自分のたてているミサに奪われていました。そして兄はこうして去っていきました。ミサのなかで。素晴らしかったです。私は自分の兄がこれほど聖なる人であると知りませんでした。」
 これは例です。三週間前に起こった例です。迫害というのは昔の話ではありません。今この時代、人々は愛徳について語っています。しかし彼らはこの司祭を遺棄したのです。捨てたのです。かれを励まし、苦しみを和らげ、聖なる死を遂げるようにと来る人は誰一人としていませんでした。厭わしいことです。これは本当に厭わしいことです。
 ですから、あなたたちはびっくりしないで下さい。私たちはリベラルな人々とことを構えているのです。ルイ・ヴイヨ(Louis Veuillot)はこう言っていました。
「リベラルな連中よりもセクト的(党派的)な人々はいない」と。

 本当です。私たちは体験によってそのことを知っています。リベラルな連中よりも党派的な人々はいません。そうです。彼らは、私たちに対して、党派的です。私たちを破壊尽くすためには何でもするでしょう。彼らは、私たちが聖伝を続けることが出来ないように、私たちが信仰において続けることが出来ないように、私たちを妨害するためなら、何でもするでしょう。

 私たちはものごとをありのままに言わなければなりません。この公会議中の操作を前にして、私たちは250名で抵抗しました。その後で、一体何をすべきだったのでしょうか? 私たちは小さなグループを作ろうとしました。私たちは公会議最後に集まってこう言いました。「私たちの間で小さな機関誌を作って互いに助け合おう」と。
 不幸なことに、皆さんもよくご存じのように距離があります。南アメリカに発つ司教たちもあれば、イタリアにいる司教たちもいる、他のものはあそこへ、別のものはここに。実際的に私たちの間に何の運動も残りませんでした。それぞれが各自の場所で抵抗したのです。しかし彼ら250名のほとんどは、辞任しました。目の前にするものを見て悲痛のあまり、ローマから来る全てのことに胸が締め付けられ、辞任したのです。ローマから来たものは彼らをして祭壇を変えさせ、あれを変えさせ、これを変えさせ、典礼を変えさせ、指針を変えさせ、神学校で、修道会でやり方を変えさせ、修道服を変えさせ、私服にさせ、等々全てのことを変えさせたのです。
 これら全てに胸を痛め、彼らは辞表を提出しどこかに隠居する方を選んだのです。高齢のために亡くなった方々もおられます。そこで私たちは実際的に二名だけが残りました。デ・カストロ・マイヤー司教様(Bishop de Castro Mayer)と私自身が二人が残って抵抗したのです。デ・カストロ・マイヤー司教様は、自分のブラジルのカンポス教区でその司祭たちと共に抵抗しました。司教様は古いミサを続けることを決意しました。

 その司祭たちは自分の教区では聖伝のミサをすることを確認しました。これらの29名の司祭たちは、多くはありません。しかし90万の教区民のいる大きな司教区です。司祭たちは多くはありませんが。この29名の司祭たちは聖伝のミサを続けたのです。いまでもまだ、デ・カストロ・マイヤー司教様が司教として辞任し死刑執行人(Carlos Alberto Etchandy Gimeno Navarro †)によって取り替えられたけれども、聖伝のミサを続けています。

 まさに(新任の司教は)死刑執行人でした!彼は聖伝のミサを捧げるこれらの司祭を全て小教区から追い出してしまったのです。29名の司祭たちは追放されました。一人、また一人と小教区から、皆一人残らず。一人も残りませんでした。最後の司祭は3ヶ月前に小教区から出されたばかりです。
 すでに素晴らしい小教区が存在していました。信徒たちで一杯の、やる気満々の、熱心で充ち満ちた小教区が! 彼らはそれらをみな排除することに成功しました。何故なら彼らには警察力が味方についているからです。(そうでなかったら)信徒たちは小教区に留まるように抵抗していたことでしょう。しかし政府は、司教たちを支援するために司教たちとの同意があり、公権力の前には何も出来ませんでした。何も出来ませんでした。
 そこで彼らは何をしたでしょうか? 古い(追い出された)教会の前に別の教会を建築したのです。彼らは、プロテスタント時代にカトリック信徒たちがやったように、(自分たちのカトリック)教会を建てたのです。プロテスタントが私たちの教会(の建物)を取ってしまったとき、カトリックはその前に別の(カトリック)教会を建てた、それだけです。いまではカンポスでは同じことが行われています。彼らは多くの教会を建築し、デ・カストロ・マイヤー司教様は神学生を受け入れ持ち続けているのです。何故なら、後任の司教が司教区で最初にやったことは神学校を閉鎖することだったからです。何故なら彼らは(神学校にいた)神学生たちに、そして神学校を指導して神学校で教えていた司祭たちに「いまから新しいミサを受け入れなければならない!」と命じたからです。
 神学生や司祭たちは答えました。「いいえ、私たちは新しいミサを受け入れません。私たちは聖伝を守ります。私たちは古いミサを守ります。」
「ああ、そう! それなら私は神学校を閉鎖します。」

 そこでデ・カストロ・マイヤー司教様は神学生たちを集めたのです。デ・カストロ・マイヤー司教様は古い神学校の中に小さな神学校を建設しました。残念なことに神学生たちの数はそれほど多くないので、あまり大きい神学校ではありません。神学生たちは8名でした。数は少なくとも、8名の将来の司祭たちです。昨年そのうちの2名が司祭に叙階されました。そこで2名の司祭が追加されました。彼らは大変忠実です。大変堅固です。
 そして私自身、特別な状況の下で聖ピオ十世会を始めました。何故なら、私には修道会もなく、教区もなく、自由の身だったからです。そんな時、ローマにいると、オラニエ神学生、そしてその他の神学生たちが私のところにやってきたのです。
「大司教様、私たちのために何かして下さい。私たちのローマのフランス人神学校は、今全てを変えているところです。全てを変えてしまいました。そして今では(スータンではなく)私服を着せられています。規律ももはやありません。ラジオはどこでもなっています。典礼も変えられました。もう神学校ではありません。この中に留まっていることは出来ません。私たちのために何かして下さい。」
 そこで私は、まだ何人か友達関係があるので、フリブールのことを考えました。何故なら私はフリブールの司教であるシャリエール司教(Bishop Francois Charriere †)様のことをよく知っていたからです。

 私はフリブール大学のことを考えていました。まだこの大学はこの当時、比較的伝統的で、神学生たちもよりよく養成されるだろうと考えたからです。しかしそこに数名がいるだけでは、長く続けることは出来ません。自分たちで何か組織しなければなりませんでした。そこで私はフリブールに足を運び、シャリエール司教様の同意をもって家を準備しました。シャリエール司教様はこう言ってくれました。
「どうか、何かして下さい。大司教様、私はまったくあなたの味方をします。全ては消え失せてしまいつつあると認識しています。私たちがどこに行くのか誰も分かっていません。私たちを教会をどこに連れて行ってしまうのか、誰も知りません。分かりますか?私は怖ろしく思います。」
 シャリエール司教様もまた、これらの大変化で病となってしまっていました。そこでシャリエール司教様は私にこう言ったのです。
「何か家を借りなさい、町中に何かを借りなさい。私はあなたに許可を与えます。何かして下さい。」
 そこで私はフリブールの町にたくさん部屋のある家を借りました。そして私たちは神学校を始めたのです。神学生たちは、フリブール大学にも通いました。ところが、フリブール大学さえも多くの革新によって影響を受け始めてきました。すでにドミニコ会司祭たちは講義の中で、婚前交渉は大変良いことであると説教をし始めていました! フリブールのカトリック大学で、そこまで来るともうお終いです。このような大学に留まる必要はもはやありません。それは出来ません。
 そこでこうやって別の家を探し、アダム司教(Bishop Francois-Nestor Adam †)様の許可をもって、私はエコンを見つけたのです。アダム司教様は、かなり聖伝的であったのですが、いろいろな出来事を目の前にして恐れをなしてしまい、残念なことに確固として留まりませんでした。

 しかしアダム司教様はこう言って私たちに2つの家を与えて下さいました。
「大司教様、もしよろしかったら、ここに2つの家があります。お望みならば、あなたはここではご自由になさって下さい。」
 そこで私たちはエコンの神学校を開きました。5年間は順調にいきました。しかし個人的には、劇的な事件が来るだろうと確信していました。
 私はこう自分に言って聞かせました。「私は新しいミサを望まない。私は変化や典礼改革を望まない。私は神学校になされている改革を望まない」と。何故なら(その新しい改革によれば)神学生たちを教授会に受け入れ、神学生たちの意見を聞かなければならないことになっていたからです。「神学校の民主化」をしなければならないことになっていたからです。つまり、神学生たちも自分たちの要求や主張を取り入れることが出来るような大議会を設置しなければならないことになっていたからです。
 その時です、ガロンヌ枢機卿(Gabriel-Marie Cardinal Garrone †)が全世界の神学校でこのような指針を送っていたのです。
 それはだめです。出来ません。こうして神学生を養成するのではありません。私たちは聖伝に従って神学生たちを養成しようとしていました。それは私自身がローマで養成されたように、過去私たちが養成されたようにそのままの仕方で養成します。そこで私は、ある日、私は告発され狙われるだろう、と思いました。もちろんその通りになりました。
 フランスの司教たちは、ルフェーブル大司教によってエコンで養成を受けた神学生たちがある日フランスに戻ってくる、と思うとぞっとしたのです。「そうなったらどうなることだろうか? 聖伝に従って教育を受けた司祭が、やってくる、自分たちの教区に来る、イヤだ!どんな値を払ってもそれはお断りだ。絶対ダメ、受け入れられない!」と。
 そこでローマに苦情が上げられました。極めて進歩主義者であったヴィヨ枢機卿(Jean-Marie Cardinal Villot †)はすぐにこう言ったのです。

「そうだとも。エコンはもう終わらせなければならない。エコンの話はもう終了だ。廃校すべきだ。」
 マルセイユのエッチャガライ枢機卿(Roger Marie Elie Cardinal Etchegaray)はマルセイユのあらゆるところでこの噂を広めました。
「あのね、エコンはもう終わり。6ヶ月でもう話もしなくなるよ。終了。」

 もちろん、そこでローマから視察団が送られてきました。全ては前々から準備されていました。プログラムはもう決まっていたのです。まず視察団を送る、つぎにルフェーブル大司教を調べる、それから廃校の教令。「終わり!神学校を閉めなさい。廃校です。生徒たちを家に帰らせなさい!」しかもこれを学期中にその真っ最中にする。一学年が終わるのさえも待つことなく、私たちは5月の上旬でした、一学年は6月に終わるのです、それも許されないとされたのです。「さあ、さあ、神学校を閉めなさい。教授陣を帰らせなさい。神学生たちを家に帰らせなさい!」
 ウソのような話です。しかし人間的にいえば、彼らの行動のやり方を良く見なければなりません。暴力的で、悪意に満ちたやり方でした。もっとも基本的なことをバカにしていました。最も基本的な礼儀もありません。全く何もありませんでした。人をはなからバカにしているのです。もちろん、そんなこと(=神学校の廃校)はそんな具合に実現されるわけにはいきません。まず不正義で不法なやり方でした。何故ならシャリエール司教様の後継者であった、マミー司教(Bishop Pierre Mamie)様は、聖ピオ十世会を廃会する権利を持っていなかったからです。

 ある司教様が一修道会を自分の司教区に受け入れ、創立するとすると、もはや彼はそれを廃止できないのです。廃止するのは、ローマでなければなりません。司教はローマに、ローマが修道会を廃会するように要請することはできます。しかし自分ではそうは出来ないのです。
 もしそうであったら、あまりにも簡単すぎる、ということを皆さんはお分かりのことと思います。司教は自分の司教区において修道会の設立を許可します。司教が亡くなると、新しい司教が来てこう言う。「アァ、ダメ!私はこの修道会を望まない。終わり。出て行きなさい。廃止の教令、終わり!私はこの会を望まない。」こんなことは出来ません。理性的ではありません。このようなことはあり得る話です。そこでローマは教会法の中でそのことを明確にしています。ローマの方では、司教が自分の司教区である修道会を受け入れたのなら、それを廃止することは出来ないことになっています。もし廃止させたいなら、ローマに申請しなければなりません。ローマが廃止の教令を出さなければなりません。
 ところが、マミー司教は自分で廃止の教令を出したのです。それは全く法的効果を持ちません。何でもありません。これは法に反しています。そこで私はそれを無視しました。そのために私は「聖職停止」になったのです。従って、私はそれも無視しました。何故なら非合法だと知っていたからです。私は手紙を書きました。私はローマに裁判を申し込みました。私はそこでこの教令は非合法である、カトリック教会法典に反している、と書きました。あり得ません。私たちは続けます。何でもなかったかのように私たちは続けたのです。
「それでは、あなたは司祭叙階をしてまでも続けるのか?」

 私は言いました。「はい、そうです。やめる理由はないからです。聖ピオ十世会は廃止されていない、何故なら廃止の教令は非合法であるから。もし望むなら、教会裁判を起こすことが出来ます、それは私の望むところです。しかし私たちを廃止することは出来ません。私は司祭叙階をし続けます。」 彼らの反応は「聖職停止」でした!
 何故この「聖職停止」も何の価値も持っていないのでしょうか?何故ならこれは非合法な行為に基づくものだからです。非合法的であった行為の結果だからです。だからこの「聖職停止」も無効です。しかし彼らが私の顔に投げつけたのはこれでした。全ての司教区でそうでした。私はここに来ると、ここの司教は3,4日前にこう言いました。「ルフェーブル大司教は「聖職停止」だ、そして反ローマだ、これに反対している、あれに反対している」と。これが人々が私に言う言葉です。反乱者、反抗者、などなど。
 カトリック教会が現実に、今おかれている状況に自分の身をおいてみる必要があります。これは大変重要なことです。
 その時、私たちはこう言わなければなりません。天主様は私たちの事業を祝福して下さっている、と。私たちはそれを考えられないやり方で見ています。何故なら、1970年以来、オラニエ神父様が1971年に叙階され、聖ピオ十世会の最初の叙階司祭でした。1971年、この叙階式以降今現在(=1987年)まで、私は約325名の司祭を叙階してきました。すでに小さな軍隊です。
 そして天主様のお恵みで、私たちの神学校は増えました。何故なら私たちには今、6番目の神学校がオーストラリアで開かれようとしているからです。ですから、私たちにはエコン、フラヴィニー、ドイツのツァイツコーフェン、アメリカの神学校、アルゼンチンの神学校があります。そして今ではもうすぐオーストラリアの神学校です。

 皆さんは私にこう言うことでしょう。「それにしてもすごいことですね。」「でも、どうしてそんなに有名になったのですか? エコンというちっぽけな村で、ミシュランの地図にも載っていないようなところ、エコンなど存在していないのに、それなのにあなたは世界中で知られるようになりましたね。一体何をしたのですか?」と。
「それはローマです。彼らが私を叩いたのです。彼らが私の頭に大きな一撃を加えたのです。そうでしょう?」
 マスメディアは皆こぞってすぐに反応しました。皆さんはそれが何か想像できますか?マスメディアは、皆、私のあとを追っかけてきたのです。「聖職停止」、大司教様、これは何ですか?何が起こっているのですか?テレビ、ラジオ、新聞が動きました。
 私の「聖職停止」の時に起きたこの一種の大騒動は、リールでの例の有名になったミサを引き起こしました。これは私が想像さえもしていなかった出来事でした。リールの私の地元の友人たちが私を招待してミサを捧げるように頼まれたのです。私がそこに以前行った時は、しばしば五,六〇人ほどの人々がミサに与りました。ですから「良いですよ。ミサを捧げにいきますよ」と答えました。ちょうど今日、私がミサを捧げに来たのと同じです。五〇名、百名くらいを考えていました。
 ところが日がたつにつれて、招待した友人たちは私に手紙をよこしたのです。もっと多くの人々がミサに与るようだ、と。多くの人々が私たちに手紙を書いてきたのです。リールのミサはいつあるのか?あれなのか、これなのか?と。そこで、ではもっと大きな場所を準備しなさい、と言いました。そこで五百名分の場所を確保しました。しかしそれでも収まり切れそうもありませんでした。
 いろいろなところから連絡やメッセージを受けて、リールでのミサはいつなのか尋ねてきたのです。一体どうなっているのか?一体何が起こっているのか? じつはマスメディアがこの話をいろいろなところで宣伝していたのでした。
 聖伝を守ろうという人々は「私たちはルフェーブル大司教を支持しなければならない」と言っていました。ルフェーブル大司教を一人にさせていてはいけない、ルフェーブル大司教は叩かれた、私たちの応援を表さなければならない、と皆が口々に言ったのです。彼らはニースからも駆けつけました。列車ごと借り切ってリールに来たのですね。
 少なくとも一万名、千二百名の人々がリールのミサに来たと思います。そこでラジオやテレビは、至る所から、あちこちから、大騒動でした。アメリカからも、全ヨーロッパからも、いろいろなところから来ました。ウソのような話でした。コロンビアに住んでいる妹がいますが、妹は私にこう言ってきました。「お兄さん、一体何をしでかしたのですか?今、コロンビア中の新聞はお兄さんのことで持ちきりですよ!」
 もしも私がローマから叩かれなかったならば、私たちはそのまま続けていたことでしょう。だれも私についての話もしなかったでしょう。私はエコンにいたままで、私のこの小さなところにいただけでしょう。
 しかし現実は、全世界でした。世界中で青年達がこれを読んだのです。「あれっ、司教が一人で聖伝を守っている。あっ、すごいね!」
 多くの人々が私に手紙をよこしてくれました。多くの人々が尋ねてきました。そうして爆発的にふくれあがったのです。今では私たちはもうすぐ神学校を六校持とうとしています。私たちには今五校で神学生たちを受け入れ、だいたい270名から300名の神学生たちがいます。大神学校の神学生たちです。本当に特別なことです。
 本当に、これら全てを導いてくれたのは天主様の御摂理です。私ではありません。宣伝活動をしたのは私ではありませんでした。自然とそうなったのです。御摂理です、それから修道者、修道女、カプチン会修道士、ドミニコ会修道士などが私たちの神学校に来て養成を受けるようになりました。モルゴンの小さなカプチン会の修道士たち。アヴリエのドミニコ会修道士たち。ルカルー神父様の司祭たち。彼らが養成を受けるために私たちのところにやってきたのです。私はドン・ジェラールのベネディクト会修道士たちも叙階します。などなど。不幸なことに、ドン・オギュスタンのベネディクト会修道士たちは私たちを離れてしまいました。残念です。私はドン・オギュスタンのベネディクト会士を24名司祭に叙階しました。
 しかしこんな聖伝の爆発的な人気は、信じられないことです。皆さんは御自分の目で見て確かめて下さい。今から十年、十五年前では、今朝のようなミサを、このようなミサ聖祭を大会場でするなどと出来なかったと思います。昔でしたら、十名、十五名、二十名がそこそこだったでしょう。今ではそれでも、今の教会を揺さぶっている劇的な状況を自覚しだしています。そうですね?信仰を守るために、聖伝を守る必要性を自覚しています。それ以外ではありません。これはいわゆるフォークロア的なちっぽけなことを見に来るためにではありません。これは真実に信仰を守るためです。
 そして、皆さんの子供達のために、信仰を子供達に伝えて下さい。そこから司祭叙階の重大性が生まれてきます。また管区の重要性、組織の重要性が生まれます。何故なら最も欠如しているのは司祭の数だからです。
 私たちには今の司祭数の二倍、三倍の司祭たちが必要です。これが現状です。私は皆さんにありのままを単に伝えています。極めて単純にものごとを見て下さい。私たちは引き裂かれています。ありのまま言わなければなりません。私たちは引き裂かれています。
 私たちが教会の困難について語るのは決して喜んでそうするのではありません。私たちはピオ十二世の時代に生きていたかったと思います。私は、ダカールで教皇使節(Delegue Apostolique)であったとき、毎年ピオ十二世教皇様と謁見しました。この教皇様とお会いするのは何という喜びだったでしょうか。教皇様はいつもの多くの心配を持っていたにもかかわらず、ミッションの全てのことについて質問し、尋ね、全てのことに興味を持たれ、私たちのミッションに関心を持って下さいました。素晴らしいことです。何と素晴らしいことでしょうか。ピオ十二世教皇様と接するのは。教皇様は本当に教会の使徒継承性のセンスを、教会のセンスを持っておられました。本当に。ところが第二バチカン公会議以後、大災害になりました。本当の災いでした。
 ですから、私たちは働き続けなければなりません。そして、もしもっとよく知りたいと思われるのでしたら、先ほども申し上げましたように、私たちは最近三冊の本を作りましたから、それをご覧下さい。『迷える信徒への手紙 --- 教会がどうなったのか分からなくなってしまったあなたへ --- 』、これは私たちの活動について一般的に知りたいと思う人々のためにあります。私たちの闘いの深い理由と、ローマとの関係で私たちが持つ難しさの深い理由、教義上の難しさについてを知りたいと望まれる方々は、自由主義に関する『彼らは主を退位廃冠させた』(Ils L'ont decouronne)をお読み下さい。
 それから Fideliter 誌の最近号は私の司教四十周年特別号で、私たちの生きているこの歴史の道標を幾つか掲載しています。これは歴史としてお読み下さい。簡単に読むことが出来ます。ですからこれをお薦め致します。これらの出版物は、皆さんを助けてくれるでしょう。もしかしたらご家族の中でも。時には、あまりよく知らない人びと、情報が入っていない人、皆さんを批判する人、何故なら「あれまぁ!あなたはルフェーブル大司教と一緒にいるの?」「あぁ!あなたはこうだ、ああだ!」と言われることがよくあるでしょうから、これらの人々にこう言ってあげて下さい。「これを手にして読んで下さい。良くみて御自分で判断して下さい。私たちが本当に、手に負えない極悪人なのか、行動を見て判断して下さい」と。
 もしも私たちがダダをこねているとか、教会を分裂させようとしているという人がいたら、それはそのようなことから、私たちは遙か遠くに、およそ遠くにいます。私たちは何も変えなかったのです。私たちは続けているだけです。いつもそうしていたように。私は個人的に何も変えませんでした。全く何も。教義においても典礼においても。私たちは神学校で教えられた通り、義務として私たちに教えられた通り、ミサを守ること、教義を守ることを、絶対的に続けているだけです。
 ところが突然、ある聖職者が新しい指針を押しつけたのです。全くリベラルな新しい教会の指針です。私たちはすぐにこう考えました。
「これは教会の大惨事になる。大惨事だ!」と。 事実、私たちはこの大惨事を今この目で見ています。
 教皇様のアメリカ訪問のときになされた新聞の記事を御覧になるだけで充分です。アメリカではどこまで行っているのかを知るのに。アメリカのカトリック信徒たちは同性愛を擁護しています! こんなことがあり得るのでしょうか? 教皇様が同性愛にノーと言ったとして、アメリカのカトリックは教皇様を攻撃している、ウソのような話です。アメリカの司教たちは司祭の結婚を要求しているし、女性司祭を求めているのです。アメリカの司教たちは! 私たちは一体どこにいるのでしょうか? 教会に何が起こったのでしょうか?

 教会に何も起こらなかったなどと言わないようにしましょう。
「間違っているのはあなただ、あなたは自分のやり方を変えようとしない、自分の見方に固執している。あなたは間違っている。あなたは適応しなければならない!」とよく言われます。
 一体何に適応するのでしょうか?私は言ったことはこうです。
「もしも私が現在、神学校を現代に適応させるなら、もう神学校のドアに鍵をつけることができます。そうなったらもう終わりです。他の神学校と同じように、もう成功しなくなってしまいます。もしも彼らが新しいやり方のために、召命がなく、多くの神学校を閉鎖せざるを得なかったのなら、同じことが私の神学校にも起こるでしょう。もしも同じ原理を適応させるならそういう結果になります。反対に、信仰において、聖伝において神学校を守るなら、召命はやってきます。真面目な召命が多くやってきます。そして仕事はなされるのです。」

 淑女、紳士の皆さん、以上です。皆さんを励まし、私たちが反抗しているのでもなければ教皇様に反対しているのでもないということを理解するために、以上のことを言うことが出来ると思います。私はいつもその通りでしたし、私はそれを神学生たちや司祭たちに繰り返して言います。「教皇制度に忠実であれ!」と。
「あれっ、でもあなたは教皇様に忠実ではありませんね!」
 教皇様が私たちの信仰を守らないなら、私たちの信仰を助けようとしないなら、そのことにおいて私は教皇様に従うことが出来ません。残念です。しかしこれは、家庭の父親が子供達に、デパートで物を盗んでこい、と言うのと全く同じです。例えば食べ物が必要だ、デパートでかっぱらってこい、と。子供達は行かなくてはならないのでしょうか? いいえ。盗んではなりません。盗むことは禁止されています。同じことです。
 エキュメニズムをしなければならない、といいます。全ての宗教と兄弟関係を結ばなければならない、と言います。全ての宗教は同じであるかのようにしなさい、といいます。出来ません。私たちは信仰を失ってしまいます。それはなりません。
 私たちの信仰に毒を盛ろうとしているのでしょうか?私たちはそれに同意は出来ません。私たちは信仰を守ることを望みます。たとえ教皇様がエキュメニズムの道を奨励していたとしても、です。
「でも、教皇様は不可謬です。教皇様は間違いません。」といわれるかもしれません。

正確な一定の条件を満たしている場合、確かにそうです。教皇様が全世界に、真理を信ずることを、あるいは道徳の面であれこれの態度を取るべきであると要求するとき、そうです。しかしそれ以外で教皇様がなされることが全てそうであるとは限りません。教皇様でも背教へと導くような、背教に導くような司牧をすることがあり得ます。もしかしたら無意識のうちに、でもあり得ます。私は個人的に教皇様の良心の中を読むわけではありません、しかし教皇様の行動の事実の中を読みます。
 もしも天主様が黙示録の中で、全世界での背教があるだろうと予知しているのなら、もしも聖ルカの聖福音のなかで私たちの主イエズス・キリストが自分が再び戻ってくるときに地上に信仰を見出すだろうかと自問しているのなら、聖ルカの福音で私たちの主イエズス・キリスト御自身が言われている言葉です、「人の子が来るとき、地上に信仰を見い出すだろうか・・・」と言われたのなら、この信仰が消え去ってしまうためには、この全世界での背教と棄教があるのなら、ローマが揺るがされなければなりません。もしもローマが揺るがなかったならば、もしも教皇様がいつも堅く立っていたならば、もしも全ローマが、その全ての聖なる機関において、いえ、私は「ローマの聖職者たち」と言いましょう、もしもローマの聖職者たちが信仰において堅く立っていたなら、信仰は消え去ることはないでしょう。それはあり得ません。
 天主様がこの信じられないような試練を教会に起こることをおゆるしになったとしたら、ローマが、曖昧な表現の雲に、ハッキリしない言い回しの雲に、リベラリズムの雲に揺るがされるのを許されたのでしょう。現実がこうです。私たちは大きな神秘を生きています。
 だからといって私たちが絶望して「何だ!もしもそうなら、カトリック信者であっても仕方がない、信仰を守っても仕方がない、宗教を実践しても仕方がない、祈っても無意味だ」などという理由にはなりません。
 私たちは自分の霊魂を救わなければなりません。今までに優ってそうです。私たちの義務は、反対に信仰を守ることです。信仰をよく守ることです。危険が大きいとき、その時こそ注意して私たちの決意を表し、殉教者のようにしなければなりません。
 殉教者たちは、信仰を守るために自分の血を流しました。私たちはまだ血を流したわけではありません。私たちは、私たちの活動、祈り、犠牲、熱心を信仰という目的のために捧げることが出来ます。
 ファチマの聖母マリア様に、もう一度言います、私が今朝申し上げた通り、ファチマの聖母マリア様に信頼致しましょう。ファチマの聖母マリア様は現代のために特別に来られました。聖母マリア様は今世紀のために来られました。天主の童貞母は1917年に来られたのです。聖母マリア様が来られてもう70年ですね。だから私たちはファチマに巡礼に行きました。聖母マリア様に祈りに。マリア様に私たちを助けて下さるように願いに行ったのです。
 しかしむしろ聖母マリアこそが私たちにあらかじめこう警告することを望んでいたようです。私たちの手をお取りになって、「気をつけなさい、さあ気をつけるのですよ、あなたたちは極めて大変な時代に向かっていますよ、共産主義が全世界に広がるでしょう、注意しなさい、気をつけなさい、祈りなさい、いけにえを捧げなさい、犠牲しなさい、信仰において堅く立ちなさい、ロザリオの数珠を取って祈りなさい!」と私たちに語っているようです。
 私たちは天主の御母聖マリアの助言を聞きましょう。そうすれば聖母マリア様は、私たちをして真のカトリックとして留まるように助けて下さるでしょう。

 ご静聴ありがとうございました。